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ジェンダークィアによるメンズコスメレビュー100本ノック その8:伊藤聡『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』感想

最終更新:2023.9.8

 

 
 
当ブログでは、「ジェンダークィアによるメンズコスメレビュー100本ノック」と題して、女性の境遇で暮らすジェンダークィアの美容好きの目線から、さまざまなメンズコスメをレビューしてきた。
過去回はこちら。
わたしはテストステロン投与(男性ホルモン治療)を受けているが、女性から男性への「性別移行」を目指しているわけではなく、男性ジェンダーに帰属意識はない。しかし、AFAB*1のジェンダークィアとしても、そしてわたしの生活を規定するもう一つの属性である精神障害者としても、メンズコスメが持つ可能性に注目しているので、メンズコスメの奥深い世界をより理解するために、身銭を切って100個のコスメを買って使ってレビューしているのである。
 
第8回となる今回は、少し趣向を変えて、美容エッセイを取り上げてみようと思います。
 

 

 
 
伊藤聡『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えたとき、スキンケアはじめました。』
平凡社
2023年2月22日初版発行 価格:1980円
デザイン:坂川朱音 イラスト:高橋将貴
 
 
本書は、1971年生まれのシス男性である筆者が初めてのスキンケアに奮闘する様子を描いたエッセイである。
ジムとサウナ以外の健康法を経験したことがない筆者は、COVID-19禍による在宅生活を経て不節制を自覚したことでスキンケアに目覚める。初めてドラッグストアのスキンケアコーナーに出向くも、膨大な商品に圧倒されてなにも買うことができずにすごすご退散したり、知人女性やTwitter(本書刊行当時。現X)で知り合った女性に教わって徐々に知識をつけたり。アラフィフ男性が慣れない世界に戸惑いながら少しづつスキンケアを学び、その楽しさに目覚めていく姿は微笑ましく、共感を呼ぶ。また、社会的に美容を強制される立場にないため美容知識をほとんど持たない人ならではの瑞々しい感性でもってスキンケアを語る語り口は新鮮で面白く、美容初心者が読んでもマニアが読んでも興味深いであろう一冊となっている。

 

 

 

具体的に中身を見ていこう。
まずタイトルにもある通り、筆者がスキンケアに興味を持つ直接的なきっかけは、通勤電車の窓ガラスに映る自分の顔が亡父そっくりに見えるほどくたびれていたことである。これは、一定年齢以上のメイクをする人なら大いに共感するくだりはないだろうか。夜の電車の窓ガラスに不意に映る顔は、おのれの最も残酷な姿である(たしか雨宮まみもそんなことを書いていた)。化粧で完璧に作り込んで間もない朝の顔でも、気を張りつめて活動している昼の顔でもなく、一日を終えて精根尽き果てて電車に揺られているとき、ふっとガラスに映る夜の顔は嘘をつかない。化粧は崩れ、「盛れる」角度でも照明でもなく、意識して作った笑顔でもない、気を抜き切った、疲れ切った、完全なるオフの顔だからだ。メイクをしていない筆者も、50歳を目前にして夜の電車の窓に映る顔の残酷さを改めて実感する。
筆者はそのくたびれっぷりの原因を、COVID-19禍でリモートワーク中心の生活になって節制を欠いた生活を10カ月続けていたためだと直感する。そして、これまでジムとサウナ以外の健康法を実践してこなかったことを反省しつつ、容姿を整える新たな方法としてスキンケアをしようと思い立つ。
いかにも2021年らしい導入である。実際、リモートワークがメンズ美容に与えた影響は大きい。化粧品メーカーの調査でも、リモートワークで自分の顔を画面で見る機会が増えたことで容姿への関心が高まったことを示す結果が出ている。
 
 
 
また、資生堂系列のメンズコスメブランドuno(ウーノ)のCMには、「『オンラインから、オフライン』篇」と題されたものがある。現行のunoのCMはどれもサラリーマンの日常を描いており、2021年3月放送の「『オンラインから、オフライン』篇」では、竹野内豊扮する上司(先輩社員?)がオンラインミーティングで部下の高杉真宙に「次はリアルミーティングだぞ」と告げる。高杉真宙は自分の顔のクマや青ひげを見て「肌、やっべー!」と焦るがunoのBBクリームを塗って事なきを得るというもので、COVID-19禍のオフィスワーカーを意識した内容となっている。
 
 
unoのコスメについては過去記事でもレビューしています。
『電窓』の筆者もまさにリアルミーティングによる外出をきっかけにおのれの顔のくたびれっぷりを自覚したわけだが、そこで容貌自体へのコンプレックスを深めるのではなく、不健康な生活を反省する方向に行って、健康法の一つとして美容に目覚めるのが興味深いところだ。死んだ父に見えた、とは言い得て妙で、人類の美容の歴史は一つには死に打ち勝つための試行錯誤の歴史である。古代人が悪霊よけとして顔面を彩色したのも、王族が紅を差して血色感を作ったのも、そこには病や死への恐れがある。老いによる容姿の衰えを気にするのは、プリミティブには健康への執着ゆえであったはずなのだ。
しかし、現代において美容というと、審美性のみを課題とするようなイメージが先行していないだろうか。少なくとも、女性の境遇で生まれ育ったわたしはそう思っていた。わたしにとって、メイクやスキンケアなどの美容を行う目的は、容姿を美しく装うことだった。それは男性である筆者も同様であり、だからこそスキンケアを身近なものとして感じてこなかったのだろうが、自らの容姿の変化を目の当たりにして、健康法、広義のケアとしての美容に「出会い直す」のである。
男性の立場で美容を行うことへの恥ずかしさ、心理的抵抗は、その後も筆者を苦しめる。それらを克服していく過程の自己分析は本書に男性論としての深みを与えている。また、筆者が男性、つまり、美しくあることをわが身への抑圧として受け取ってこなかったほうの性別であることで、一種の「こじらせてなさ」とでも言おうか、回り道なく一気に美容の本質的側面=ケアにたどり着くのが鮮やかである(もちろん男性であることだけが寄与したのではなく、ご本人の聡明さによる達成であるのだろうが)。この直截さは、わたしのような「こじらせ」てきた人間にも示唆を与えている。
 
もちろん、直感的に本質にたどり着くのは早くても、先述したように男性の立場ゆえのハードルはあり、筆者は容易にはスキンケアを開始することができない。筆者はそのハードルを、知識がなく商品が選べないことと、恥の感情であると分析する。
まず筆者は、ドラッグストアの商品陳列が書店の文庫の棚に似ていることに気づく。文庫本の棚は、著者名ではなく出版社順に本が並んでいる、ドラッグストアのスキンケアコーナーも、化粧水は化粧水、乳液は乳液というようにアイテム別に並んでいるのではなく、A社のスキンケア用品全部、その隣にB社のスキンケア用品全部というように、メーカーごとに並んでいるのだ。ドラッグストアの陳列と文庫本の陳列の類似は考えてみればその通りである。筆者はその後も、スキンケア製品とその組み合わせ・使用順をギターエフェクターに喩えるなど、美容の文法に染まっていない人ならではの斬新な比喩を繰り出している。この鮮やかさは本書の大きな魅力の一つである。
もう一つのハードルである恥の感情についても筆者は自己分析をし、容姿を気にしている・加齢に抗おうとしている・「(男性を見る側、女性を見られる側としたときの)見られる側」になろうとしているという3点がいずれも「男らしさ」から外れるものであることに気づく。ここで男性にも許されているファッションとして例示されているレアスニーカー収集・ヴィンテージジーンズ着用・ハイテクな高機能ダウンジャケット着用は、男性の文化に顕著な本質主義を表していると言えるだろう。男性の本質主義については過去記事でも述べた。
 
また筆者は、自己分析を深める一方で、周囲の人々にも積極的に助言を請う。20代女性の友人をはじめとして、Twitterで出会った女性たちなど、さまざまな女性と対話をしアドバイスを貰う。筆者は兼業ライターとして普段は会社員をしているそうで、50代前後の男性という立場から察するに、日常生活では人に教えることはあれど、まったくの初心者として人から教えを請う機会は少ないのではないだろうか。親子ほど歳の離れた若い女性を先輩としてリスペクトし、素直に教えを請う姿は、自分もかくありたいと思わせられるものがある。Twitterでも、筆者が「中年男性であるにも関わらず」謙虚に学んでいる姿が称賛されているのを見た記憶があるが、個人的には、人として当たり前のことをしただけで褒められているようにも見え、男性という立場が履いている下駄の高さを思わずにはいられなかったことは付記しておく。

 

 

 

本書はジェンダー論的要素を深掘りすることをおそらくは意図的に避けており、あくまでライトに読めるように作られている。男性読者が気負わず読めるようにするための英断であろう。とはいえ、女性がするものと見なされている美容を実行することが、男性にとってジェンダー規範への抵抗の意味を持ち得ることは明確に示唆されている。
これを、示唆のみならず公言している男性の例として、作家・哲学者の佐々木中氏を挙げたい。佐々木氏は1973年生まれで、『電父』の伊藤氏の2歳下の同世代にあたる。
佐々木氏の2022年のツイートを引用する。
 

 

 
佐々木氏は、ネイルという男性のジェンダー規範から外れた行動を、マチズモ(男性優位主義)から距離を置くための手段と明確に意識して実行しているのである。こそこそと密かに行うのではなく、写真を撮ってSNSで堂々と全世界に公言するところまでがエクササイズなのだろう。もっと言うと、「若い友人たちに忠告や感想をもらいながら」と添えられていることも重要であろう。多数の著書を持つ50代男性という、この社会では権力勾配の上方にいるとされる立場にありながら、若者と交流を持ち忠告を受け入れる柔軟さが示唆されている。それをわざわざ書き添えて初めてのネイルを意気揚々と披露する姿は、それはそれでマッチョに見える……と言うのは意地悪だろうか。少なくともわたしは、佐々木氏のツイートはマチズモを相対化しきれていないと感じた。マチズモから距離を置かんとする佐々木氏の意志を疑うものではまったくないし、素晴らしい試みだと感じる。しかしこれは佐々木氏の内心の問題ではなく構造の問題なのである。佐々木氏のネイルおよび写真は、お世辞にも「映え」てはおらず、いかにも初心者然としている。それでも、リプ欄では称賛され、おそらくは肯定的にRTされている、そのような環境に佐々木氏が身を置いている、その構図自体が、マッチョさを放っているとわたしには感じられるわけだ。ネイルの出来が初心者レベルなのは、事実初心者なのだから当然だが、注目すべきは指毛を処理していないことだ。指毛ボーボーのネイル写真をアップすると嘲笑われるかもしれない、という、美容界隈に身を置く女性ジェンダーの人間なら身に覚えがあるであろう逡巡を、佐々木氏はツイート前に感じただろうか? それは今となっては佐々木氏にしかわからない。なお、ネイルをアップするなら指毛を剃るべきだと言いたいわけではまったくない。「ムダ毛」はなくて当然とする規範はもちろん解体されるべきである。当たり前のことだが、念のため明記しておく。わたしも過去記事で書いたように、ネイルの着画に整肌加工はしていない(しかし、顔面をアップするときは加工している。このアンビバレンスには考察の余地があるだろうが、今は本題ではないのでこれ以上は掘り下げない)。
 

 

 

では佐々木氏は、わたしのような捻くれ者にいちゃんもんをつけられないようにするにはどうすればよかったのか。これは実は答えのない問いである。内心の問題ではなく構造の問題であるからには、佐々木氏のような人がわたしのような人間にいちゃもんをつけられるのは避けがたいのだ。それでも、一度にすべてを完璧にすることはできなくても、考え続け、学び続け、行動し続けることが、規範に抗う人間に求められる覚悟である。男でも女でもそれ以外でも。
『電父』の伊藤氏は、買ってきたばかりのスキンケア製品を並べて、人類で初めて月面に降り立った宇宙飛行士の言葉を引く。
 
化粧水、乳液、美容液。まだ数は少ないが、どれも私の肌をいたわってくれる心強いアイテムばかりだ。よし、これから私はキレイになろう。輝かしいスキンケア生活の始まりである。「これは小さな一歩だが……」と、私はニール・アームストロング船長になりきって言った。
「中年男性にとっては偉大な飛躍である」
 
──p.44 初版第1刷

 

ジェンダー規範に抗った行動は、伊藤氏にとっては月面着陸に等しい重大事と感じられたのである。しかし、ニール・アームストロングは一歩歩いただけで人類史に名を残したわけではない。人類にとって重要なのは月面着陸前後の科学的達成である。それと同じように、スキンケアを始めることは偉大な飛躍ではあるが、本当に大事なのは、飛躍を終えて地面に足がついた瞬間からはじまる歩みのほうなのだ。本書はスキンケアを、既存の指南書やネットの情報とは異なる角度・発想から考察したオルタナティブな美容書である。本書はすで世に放たれている。あとは、読んだわれわれが、この社会で、どのような二歩目を踏み出すかなのだ。
 
伊藤聡氏のXアカウントはこちら。
 

 

 

 

【追記1】
伊藤氏は第3章「そして美容の深みへ……」中の「ステキな香りと心地よい感触」の項で、香りを楽しむことも男性には縁遠いことであるというふうに書いている。それに異を唱えるつもりはないのだが(伊藤氏は男性で、わたしは男性に帰属していないのだから、伊藤氏の体感のほうが合っているはずだ)、個人的には、メンズコスメの中でもデパコス相当の高価格帯ゾーンのコスメは、香水の文法で陳列・販売されているという体感がある。伊勢丹新宿メンズ館の1階などは明らかにそうなっている。この矛盾は、今後個人的に考えていきたい。
 
【追記2】
伊藤氏はパーソナルカラーについては以下のように解説している。
 
ブルベ/イエベ……「ブルーベース」「イエローべース」の略。肌の色の傾向を表したもので、自分に似合う化粧品を選ぶ指針になる。
──p.71 初版第1刷

 

しかしこれはシンプルに事実誤認だと思う。パーソナルカラーの概念におけるイエベ/ブルべは世に多数ある色そのものを分類するときの指標であり、各自の肌の色を問題にするものではない。たとえば「イエベの赤」「ブルべの緑」という表現は成立するが、「肌がイエベ」「肌がブルべ」という表現は成立しないのである。ごく簡易的な説明であるにせよ、「肌の色の傾向を表したもの」という表現は不適当ではないだろうか。
 
【追記3】
伊藤氏はサウナにもはまっているという。しかしサウナは、新しい時代のマチズモの体現者たる新自由主義者が好む娯楽であるという体感がある。
 
宇野 面白いですね。似たような例ですけど、周囲の友達にサウナ好きが多くて、僕もよく誘われるんです。行ってみると楽しいんだけど、やっぱり自分はランニングの方が合うなとも感じています。何でかっていうと、あんまり「整い」たくないんですよね。
 
レジー (笑)。
 
宇野 『砂漠と異人たち』の中で村上春樹のマラソンの話もしてますけど、僕はやっぱり「俺、70歳過ぎても元気だから、京都マラソン完走するぜ」というようなモチベーションではなくて、単にゆるく身体動かしたいだけなんですよね。「整う」ことでパフォーマンス高めてバリバリ仕事するぜ、ってやっぱり自己実現の発想でしょう。
 
僕はむしろ最大限弛緩したいというか、都市のなかを目的もなく移動したいだけなんですよ。楽しいから。ある意味で、そういうだらんとした感じの主体こそが、新しいものにも出会いやすい「庭」向けの身体でもあるんじゃないかと。

 

スキンケアをはじめる前後で、サウナへの気持ちに変化があったのかどうか、個人的に興味がある。

 

 

 

 

 

*1:assigned female at birth の略。出生時に女性を割り当てられること。出生時女性。AMAB=assigned male at birth は出生時に男性を割り当てられること。