YouTubeの才能と圧倒的な華、そしてなによりも愛嬌資本とでも呼ぶべき他者から好かれ許される愛くるしさに満ち溢れたハンサムな男と、愛されることが仕事であるアイドルの出自から芸能界を20年近く生き延び、自分を魅力的に魅せる術を知り尽くした美しい女。生まれようとしている待望の第一子。そんな万人に祝福され応援される家族の陰で、もはや話題に上ることすら少なくなった、絶望的に愛嬌資本に恵まれなかった女のことをわたしは忘れない。彼女の動画を面白いと思ったことはない。昔、男は彼女を「圧倒的パフォーマンスを誇るエンターテイナー」と評して、自信喪失するほどの衝撃を受けたらしいが、そのときは紛れもなく煌めいていたにせよ、彼女の才能は持続性に欠けていた。持続できなかった理由は本当はさまざまあるにせよ、メディアが伝えるのは今や、彼女の自業自得としか捉えようのない浅はかな行為ばかりである。天賦の愛嬌もなく、補う技術もなく、炎上商法と開き直る器用さすらもないままに、全世界に短慮を晒して炎上を重ねてきた彼女の動向に未だに興味を持って追っているのは、人間の最も下劣な部分に働きかけるハイエナたちくらいではないだろうか。
世界は2023年10月17日に一度終わった。それはたしかに、ただのSNS炎上や人間関係トラブルや活動休止の日ではなく、東海オンエアという、多くの人々を巻き込み、街や行政すら取り込んで形成されてきた眩しく温かく美しい世界の終わりの日であった。ニトロ爆弾とバディたち。サチオさん、アバチキ、まんぷく屋、大岩亭、ドクター。プロラグビー選手、出っ歯、豚さん。メンバーのちち、はは、X(Twitter)では絵に描いたようなひねくれた「天才の弟」ムーブを見せる愛すべき弟。岡崎市の担当者。彼らは生身の人間でありながら、わたしのような視聴者にとっては、少年漫画の世界の粒ぞろいのキャラクターのように一人一人が魅力的だった。そしてその世界の中心にはあの6人がいる。平凡な地方都市から快進撃を続けていくサクセスストーリーはどんな現実も追いつけない。彼らの根本的なメンタリティが今でも「地元のツレ」のノリのままであることは、数は少ないほうだが何度かはあった炎上(痴漢ネタ、ホテルでの狼藉など)から察することができる。彼らが、おふざけを行うYouTuberの中では異例ですらある上質なポリティカル・コレクトネスを実現しているのは、ジェンダー意識やコンプライアンスが優れているからではなく、発想の斬新さゆえであろう。過去にいろいろな人がやっている性加害ネタなんぞは彼らからするとありきたりすぎるのだ(だから、釈明もなくひっそりと削除された「痴漢してもばれないように男友達で練習しておこう」という動画は、凡庸な発想であるという点でも彼ららしくなく、冴えない作品であった)。彼らはどこまでも、ホモソーシャルの最良の部分の体現者であった。光があれば影もあるという当たり前の現実すら見えなくさせるほど、眩しく温かな光に満ちた世界だった。
あの日切り裂かれた世界の裏側から噴出してきた影は、当たり前の現実すら見過ごしてきた視聴者の罪を突きつけてくるものであった。二児の父でありつつ東京と愛知岡崎を往復する男の生活の過酷さ。街全体が彼らの世界観の一部であるがゆえに、単なる有名税以上に根本的にプライバシーのない特殊な環境で蓄積するであろう疲労。自暴自棄になった男が友人の性的プライバシーすらも復讐の道具として差し出したのは、彼らの身体性の希薄さを示す象徴的なエピソードだ。そしてなによりも、恋愛・性愛関係で結ばれ子を授かってなお、男友達に勝てない女の悔しさ。ホモソにくっついて回る女という、どう頑張っても勝ち目のない立場で、ただでさえ愛嬌も思慮もないままに一人戦う、想像を絶する孤独。影の部分はいつも、弱い立場の者にしわ寄せられる。彼女はホモソーシャルにおいては弱者なのだ。どんなに短慮で愚かで、「女の嫌な部分」を煮詰めたような性格をしていて、助けたくなるような愛嬌が一つもなかったとしても。助けたくなるような愛嬌が一つもないからこそ。彼女の炎上には常に、容姿の美醜や「妻らしくなさ」「母親らしくなさ」を責める声がつきまとっているが、フェミニズムシーンにすらそういった理不尽な中傷を咎める意見は少ない。
長くも短い沈黙を経て、彼らが活動を再開して久しい。しかし、一度壊れた世界は元には戻らない。少なくともわたしの中ではそうだ。わたしは彼女を忘れない。彼女を面白いと思ったことはないから、ファンになって愛したり応援することはできない。それでも忘れないでいることはできる。わたしは彼女を、当たり前の現実を忘れない。眩しく温かい世界の裏側で、膿み続けている傷みを忘れない。