2024年7月20日時点での本邦のトランスジェンダー差別、とりわけノンバイナリーへの差別について一当事者の立場から書いた文章をネットの海に放流する。文中の人名は敬称略とさせていただく。文責はすべて呉樹直己にある。
ついにノンバイナリー差別が本邦のインターネットフェミニズムにおいて前景化した。差別は以前から存在していたが、ことここに至って「トレンド」として確立されたと言っていいだろう。大きな引き金となったのは2023年12月3日、アビゲイル・シュライアーの著書 “Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing our Daughters” がKADOKAWAから『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』のタイトルで出版告知されたことだ。本邦のノンバイナリー排除言説はここから飛躍的に知名度を得て、「界隈」の外にまで発展したと認識している。書籍はその後2024年4月3日に、産経新聞出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち SNS・学校・医療が煽る流行の悲劇』に改題の上出版され、これも排除言説を加速させる契機となった。現在のノンバイナリー排除言説は主に、AFAB(assigned female at birth/出生時に女性を割り当てられた)の当事者を懐疑の対象としている。よって、AMAB(assigned male at birth /出生時に男性を割り当てられた)の当事者に対する懐疑が性犯罪の懸念と女子スポーツの公平性への懸念を前提として行われるのとはまた違う思惑が働く。特筆すべきは、AFABノンバイナリーの問題は「男性の問題」ではないため、アンチフェミニストによる混ぜっ返しが発生しにくく場が荒れにくいことだろう。よって、性犯罪と女子スポーツを取り沙汰する人々がそうなりつつあるような、先鋭化による自滅は期待できない。
広義のトランスジェンダー/ジェンダークィアあるいはノンバイナリーであるわたしの視界に入ってくる、われらのアイデンティティを懐疑する人々の言い分を列挙しておく。まずは、広く気の迷いであるとする言説がある。主に思春期特有の自意識の揺らぎ、あるいは肥大のせいであるとされる。「オタク」やBL愛好家特有の自意識の問題である、BL趣味が高じてBLに憧れるあまりの自認であると表現されることもある。また、月経をはじめとする二次性徴への戸惑いであるとする声も非常に多い。月経嫌悪を含め、広義の性嫌悪・性からの逃避であるとされることもある。性嫌悪の内実は自分自身の性徴・性欲への嫌悪とされたり、男性に性欲を向けられることへの嫌悪とされたりする。
性嫌悪から派生して、ミソジニー、ミサンドリー、あるいは性被害の後遺障害であるとする言説もある。
ジェンダー規範への反発との混同であるとする意見も非常にポピュラーだ。今最も支配的な懐疑言説の一つである。ミソジニーであるとする意見とジェンダー規範への反発であるとする意見を足すと、名誉男性になるため・男尊女卑社会からの逃避などと表現される。
性的指向との混同であるとされることもある。恋愛・性愛周りでいうと、モテないことの誤魔化しであるとする声もある。
誤魔化し・自己欺瞞系では、ファッション・厨二病・自己演出であるとする意見は常にある。自己演出の目的は、インターネット空間において道徳的優位性を確保するためであるとされている。
不適切な性教育のせいであるとする声もある。保守と呼ばれる立場の人に多い。
発達神経症(発達障害)など、脳多様性や広義のメンタルイルネスに因する錯覚であるとする意見もある。
あと、わたしからも付け加えると、身体的なものを含む性別移行を実践しているトランスジェンダーとノンバイナリーを並べた上で、ノンバイナリーは性別移行にかかる困難を経験していないのにトランスの苦労に自己を重ねて語っていて、不当に被害者性・道徳的優位性を確保しているとみられる場合もあるのではないだろうか。
しかし過去記事にも書いたが、わたし個人は、これらの「誤認」要因がノンバイナリー的なアイデンティティにまったく無関係であるとは考えていない。「誤認」である可能性も込みで、個々人がどう生きるかだと思っている。
2024年7月現在最も支配的なノンバイナリー懐疑言説の一つが、ジェンダー規範への反発・不適合との混同を疑う意見であろう。本邦における反トランス差別言説の主翼を引き受けてこられた高井ゆと里・周司あきらによる共著『トランスジェンダー入門』(集英社 集英社新書、2023年7月19日第1刷)および『トランスジェンダーQ&A 素朴な疑問が浮かんだら』(青弓社、2024年5月1日第1刷)においては、トランスの生が「性別にまつわる二つの課題」という概念でもって説明されている。いわく、生まれた子どもには二つの課題が暗に課せられる。一つ目は「女の子として/男の子としてこれからずっと生きなさい」という「性別であることの課題」、二つ目は「女の子は女の子らしく/男の子は男の子らしく生きなさい」という「性別らしくあることの課題」であり、トランスジェンダーは一つ目の「性別であることの課題」をクリアできなかった人間であると説明されている。高井らによると、人間にはこれら二つの課題が課されており、ジェンダー規範を押しつけられることによる苦痛は二つ目の課題によって生じるが、トランスジェンダーが感じる性別違和は一つ目の課題によって生じ、二つの課題は混同されやすが実は異なる位相・水準にあるのである。
この「二つの課題」概念による説明は非常にスマートで有用である。理解の補助線としてはこれ以上のものはないだろう。しかし、現実のトランスジェンダー/ノンバイナリーの生に落とし込むにあたって、二つの課題が実際のところどれだけ峻別可能なのかは考える必要があるだろう。
トランスジェンダーやノンバイナリーなど、広義狭義の性別不合者には、被虐待児・精神障害者・発達障害者など、メンタルヘルスにトラブルを持つ人が多い。これはただの一当事者の体感であるが、こうして書ける程度には確信がある。セクシュアリティに関しても、アセクシュアルやゲイセクシュアル、パンセクシュアルといった非規範的なアイデンティティを持つ人が多い。これは一つには、マイノリティの中にもダブルマイノリティがいるという、ごく当たり前の話であるのだが、決してそれだけではないはずだ。マイノリティの中の差異も尊重しながらともにあることを目指すというインターセクショナリティで一口に説明できるものではない。わたしは、トランスジェンダーやノンバイナリーのアイデンティティの一部は明らかに、社会全体に遍在する諸規範との摩擦・不適応から形成されていると考えている。ジェンダーにまつわる規範ひとつに限らず、である。より正確に言うと、われら当事者の語りは、規範との摩擦・不適応という形で──少なくとも規範との摩擦・不適応という形と「一見みえる」形で──表される傾向にある。さらに言葉を重ねると、われら当事者は、規範との摩擦・不適応と「一見みえる」表現でしか自らの経験を語り得ない。現時点では、まだ。
トランスジェンダーやノンバイナリーは、そのジェンダーアイデンティティのマイノリティ性を抜きにしても生きづらそうな人が多いと感じたことはないだろうか。わたしはある。「敏感」で「繊細」で、「幼稚」で、「他責的」と感じられる人が多い。人生のほかの悩みを性別の悩みに仮託していると外野からは感じられる人も多い。わたしが賢しらに指摘するまでもなく、当事者自身がよくわかっているはずだ。わたしは1995年生まれだが、わたしより上の世代の、とりわけAMABトランスジェンダーコミュニティの相互批判の熾烈さには想像を絶するものがある。わたしはそのような文化やコミュニケーションの良し悪しをジャッジできる立場には当然いない。できるのは、そのようにして生きるしかなかった、あるいはそのような生き方をしたたかに引き受けてきた実存の苛烈さに思いを馳せることくらいだ。
よく言われるように、弱者は救いたくなるような姿をしていない。
トランスジェンダーやノンバイナリーもそうである。
われらは救いたくなるような姿をしていない。
よってわれらは、ことマジョリティの共感と同情を燃料に駆動するインターネットフェミニズムにおいて、決定的に不利な立場におかれる。ノンバイナリーが脆弱な立場である理由は、男にも女にも安定的な帰属を持てないからそれ自体ではない。男にも女にも安定的な帰属を持てないことを、集団としてマジョリティに「感じよく」納得させることが極めて難しいからだ(個々人の努力による説得が個別的に成功することはある。たとえばわたしはオンラインでもオフラインでも比較的「うまくやっている」ほうだと自己認識しているが、それは一つにはわたしがホルモン治療に踏み切っているからで、「ファッション」「口先」だけではない「本気」の当事者とみなされ得るからであろう。医療的措置の有無で本気度を計るような規範は解体されるべきだが、わたしはこの規範に助けられている立場である)。アイデンティティが原理的に自己完結できるものではなく、自己認識と他己認識の合わせ鏡のごとき無限の反射の中で醸成されていくものである以上、他者から納得してもらえないことはマイノリティにとって少なからぬ痛手となる。
繰り返すが、ノンバイナリーは救いたくなるような姿をしていない。当事者という言葉は本来は、ただなにかのグループに該当するというだけの意味だが、インターネットフェミニズムにおいては事実上、マイノリティ性・被害者性、ひいては道徳的優位性・倫理的無謬性を内包する言葉として運用されてしまっている。その上で、こと反差別言論においては、ノンバイナリーのアイデンティティを倫理的無謬性で裏張りするのは悪手であると、当事者として主張したい。
倫理的無謬性による裏張りと表現したくなるような言説は主に善意のアライによって担われている。われらはそのような人たちに救われもするが、そのような人たちが意図せず加速させてきた空気も残念ながらあるのだ。
われらは精神的に未熟でジェンダー規範に囚われたセクシストでミソジニストの精神障害者かもしれない。少なくともわたしはこれらのそしりを否定しない。その上で、われらにも尊厳がある。われらはかように非倫理的・非道徳的な存在かもしれないが、だからといって尊厳を毀損されてはならないのだ。どんなおぞましい犯罪者にも人権があるのと同じように、ノンバイナリーには人権があるのだ。
われらのアイデンティティを懐疑する人々が「心配」するまでもなく、われらの生は実に不安定である。SNSでトランスジェンダーやノンバイナリーとしてのアイデンティティを積極的に表現するアカウントが必ずしも長続きはしないことは、界隈をある程度長く見ている当事者なら知っているはずだ。若い当事者が、恋愛や結婚を機にLGBTQ関係の発信を徐々に減らしていき、やがて界隈からひっそりとフェードアウトする例はよくある。フェードアウトに至るまでの内的な葛藤は多くの場合永遠にシェアされることはない。
界隈から去ることの最もドラスティックな形は絶命することだ。葛藤に満ちた生はたびたび、この世を見限ることを選ぶ。わたしが職場繋がりで見知っていたトランス女性は昨年自死した。今年は、同じ本に寄稿した縁がある人が世を去った。この世を去ってはいなくても、トランスジェンダーやノンバイナリーとしての生き方をあらわす営みから身を引く人は非常に多い。本邦の社会状況からして、広義狭義のトランスであることは内的な問題ではなくどこまでも生き方の問題となる。生きるにあたっての困難が、トランスやノンバイナリーのアイデンティティの中核を成す(困難がキーワードになるなど、本来異常なことだが)。ではなぜそんなコストを引き受けてまでトランスやノンバイナリーとして生きるのかというと、そうしなければやっていけない必然性が身を灼くからなのだが、この切実さはまず非当事者には伝わらないだろう。
以上を踏まえて、反トランスジェンダー差別・反ノンバイナリー差別言説を構築していくにあたってわたしが今後取り組んでいきたいことは二つある。一つ目は、メンタルイルネスとしてのノンバイナリーの問い直しであり、二つ目は、アイデンティティ闘争としての抵抗言説の実践である。この二つを考えていきたいし、あわよくば仲間も欲しいと思っている。
まず、メンタルイルネスとしてのノンバイナリーの問い直しについて。精神障害者、とりわけ発達障害者がおかれている現状とノンバイナリーの現状は関連づけて考える必要があるとわたしは思っている。当事者に精神障害者・発達障害者が多いと感じられることはすでに述べた。一部の書籍にも言及があるし、ネット上でもそれを裏づけ得るデータや論考はぽつぽつ見つかるが(いずれまとめたいと思う)、どのようなメカニズムでそうなっているのかなど詳しい原因・機序については医学からの応答を待つよりほかになく、わたしのような素人にできることはない。しかし、直接的にオーバーラップの可能性があるからというだけではなく、排除の論理と当事者を巡る現状に関して、発達障害者とノンバイナリーには類似性があり、両分野の知見を突き合わせる価値はあると考える。反トランスの立場からしばしば指摘されることに、精神科医療においてトランスジェンダーであることの診断が曖昧・杜撰であり診断書が一部には形骸化していることがある。これは発達障害者がおかれている現状と似ている。発達障害者にも、診断をつけてもらうことありきで、よくないことと知りつつドクターショッピングをする者はいる。これは一重に診断がないと必要な支援が受けられないからであり、その場合問うべきは柔軟さに欠ける医療体制であろう。発達障害は過剰診断されているとの指摘も外圧として働く中で、自らに発達障害の可能性を認める者は、いくつものハードルを越えないと必要な支援に辿り着けない。発達障害の検査を行う臨床心理士はすべての精神科に配置されているわけではないし、検査費用は自費診療なので万単位の金銭がかかる。親からの成育歴の聞き取りや通信簿の提出など、機能不全家庭出身者にとっては過酷極まるプロセスが必要なケースもある。投薬治療も、一部の薬剤は精神科医の中でも特別な資格を持った少数の医師しか処方することができない決まりになっている。なんとか処方資格のある医師にかかることができたとしても、近年はさまざまな事情から新規処方が水際作戦よろしく制限される傾向にある。処方されたとしても薬価はほかの向精神薬と比べると際立って高い。ほかにも大小さまざまのハードルがあり、本邦において成人期の発達障害の診断・治療は事実上、目指して勝ち取るものなのだ。発達障害は脳の特性に基づいた先天性の障害であるので、発達障害者であることは内的にはどうしようもなく「である」ものなのは無論のことだが、アイデンティティとして外的に認知可能な形に立ち現れるとき、発達障害者は「なる」ものなのである。本来「である」ものだが、生きるために必要なもの──医療的ケアのような物理的なものから、周囲からのジェンダーアイデンティティに沿った取り扱いのような形のないものまで──を獲得するためには「なる」行動が必要なのは、ノンバイナリーも同じである。
また、発達障害は脳の特性と対社会の折衝の掛け合わせで生じるものである。特性それ自体だけでは障害ではないことは、2016年に改正された発達障害者支援法の中でも法的に明記されている。発達障害が社会によってつくられた面があることは、「異常」なのは人か社会か、問い直すべきはどちらなのかという苛烈な問いと相克を生む。社会全体に蔓延する規範にまつわる知見は、発達障害研究に一朝一夕ではない蓄積がある。これはノンバイナリーのアイデンティティ、ひいては広くフェミニズムを深める上でも役に立つだろう。
なお、今改めて発達障害・精神障害とノンバイナリーを重ねて語るにあたっては、トランス含むセクシュアルマイノリティの歴史が脱病理化の歴史であることを大前提として踏まえる必要がある。言うまでもないことだが言っておかねばならないだろう。非規範的なジェンダーアイデンティティやセクシュアリティはかつては精神疾患として一括りにされてきたところを、先人たちのたゆまぬ努力によって近年ようやく分離されてきたところである。正しい歴史認識と先人たちへの敬意なくしてはなにも語るべきではない。今改めてメンタルイルネスとしてのノンバイナリーを考えるには、今もセクシュアルマイノリティに対して残る偏見に立ち向かう覚悟が必要だ。並行して、精神障害・発達障害全体へのスティグマを解消するための普遍的なアプローチも継続しなければならない。性別違和は発達障害のせいであるとする言説が多くの場合揶揄や排除に作用するのは、そもそも精神障害・発達障害というレッテルがそのまま中傷として成立するからだ。差別的言説に回収されない論理と場の形成が不可欠である。
次に、アイデンティティ闘争としての抵抗言説の実践について。これはどういうことかというと、ノンバイナリー差別問題を「最新のLGBTQイシュー」としてではなく、古典的なアイデンティティ闘争として捉えていきたいということである。
今でいうノンバイナリー的な在り方であった人は大昔からいたにせよ、ノンバイナリーというアイデンティティが形を持って現れたのは比較的最近である。よってノンバイナリー差別も新しい問題で未知の領域かと思ってしまうが、実際には、アイデンティティを巡る古典的・典型的な折衝の枠組みで考察可能な部分も多いのではないか。この点にかけてはそれこそ詳しい人が山のようにいるのでわたしがわざわざ書くのも恥ずかしいくらいだが、アイデンティティと差別の問題に関してはエスニシティ研究や障害学の分野に数十年単位の膨大な知見がある。
人間はアイデンティティの束であり、人間の歴史はアイデンティティ闘争の歴史である。言語、肌色、国籍、階級、宗教、ほかにも数限りないアイデンティティを巡って、人と人は争ってきた。人は存在証明(proving self-worth)に躍起になる生き物である。望ましいアイデンティティを獲得し望ましくないアイデンティティを返上しようとするありふれた心の動き、その総体である存在証明を “proving self-worth” と英訳したのは社会学者の石川准である(石川准『アイデンティティ・ゲーム 存在証明の社会学』新評論、1992年7月25日第1版第1刷)。自己価値を証明する、と直訳すれば、存在証明という営みが人間にとってどれほど切実なのかわかるだろう。
わたしの考えでは、ノンバイナリーのアイデンティティを懐疑する人々は、ノンバイナリーというアイデンティティを容認すると「ノンバイナリー以外」が自動的に設定されて、「以外」とされた者の心理的安全やジェンダー規範にかかる葛藤が軽視されると認識している。この認識は、「知りもしない他者のアイデンティティに口を挟むべきではない」という至極もっともな意見を退ける根拠になる。ノンバイナリーを懐疑する人々にとって、ノンバイナリーについて「議論」することはノンバイナリーへの攻撃ではなく、自らのアイデンティティを守るための正当防衛なのである。かれらはかれらなりの存在証明に邁進しているのだ。
逆に、ノンバイナリーの側の動きのいくつかも存在証明で説明できる。たとえば、反トランス・反ノンバイナリーの立場から指摘があるように、若年者がその所属アイデンティティ・能力アイデンティティ・関係アイデンティティの欠如感・不安定感を目新しいジェンダーアイデンティティで埋めようとしている「かのように外野からは見える」ことがある。「キラキラしたトランスジェンダリズム」などと揶揄的に表現されるケースだが、このようなケースは実際あるだろうとわたしは思っている。若年者に限った話でもなく、人間はアイデンティティ管理・アイデンティティ操作のためには本当になんでもする生き物なのだ。アイデンティティの危機をべつのアイデンティティで埋めようとする試みは、性に悩む若者だけの突飛な行動ではない。いわゆる「ネトウヨ」は自身の課題を埋め合わせるもの・課題から逃避させるものとしてナショナルアイデンティティに傾倒している、などといった分析は聞き覚えがあるだろう。歴史的に見ても、人間は民族的アイデンティティを巡って大の大人が戦争や虐殺すらも実行しているのだ。
ノンバイナリーを尊重し共生することを考えている者、ノンバイナリーを懐疑し排除しようとする者、ノンバイナリー当事者。そのさまざまな思惑、行動は、人間の存在証明にかかるありふれたものとして相対化されなければならない。
ノンバイナリーのアイデンティティは、ありふれたものとして尊重されなければならない。
相対化の結果として尊重されることは、ノンバイナリーへの批判も引き受けざるを得ないことを意味する。
われらは自らに問い続け、思索し続け、葛藤しなければならない。
男とはなにか。女とはなにか。性別とはなにか。ジェンダーアイデンティティとはなにか。
内的に葛藤し続けるだけではなく、自らが望むアイデンティティでありたいと願う場(たとえばSNSのタイムライン)では、葛藤の痕跡を他者が認知可能な形で残さねばならない。
戦って、痕跡を残さねばならない。
他者が認知可能な形に残すからにはそれに対するネガティブな反応も当然起こり得るが、望むアイデンティティでありたいなら、ネガティブな反応をも振り切らねばならない。
ノンバイナリーの規範などというものがあるとしたら、それは「中性的な服装をすべき」などといった生易しいものではない。わたしが否応なく囚われている規範は、実存をかけて葛藤し続け戦い続ける生を強いられることである。あらゆる意味で強くないとできない、マッチョな生き方である。マッチョな生き方であるが、2024年7月の本邦ではそうしなければならない。少なくともわたしは、自分の目の黒いうちはこの規範から逃れられる気がしない。規範の解体に向けて積極的に動くことも、さまざまな思惑から、難しい。トランスやノンバイナリーとして生きるならある種のマッチョイムズや自己責任論を拒否するのは難しいと考えていることは、過去記事にも書いてきた。これが今のわたしの限界である。
もちろんこれは本来あってはならないことだ。わたしは生存バイアスにまみれた醜い自己責任論者だ。
あるジェンダーアイデンティティを持つ者が、ただそうであるというだけでストレスフルな生き方を強いられることなどあってはならない。
あってはならないことが、この国では少なくとも6年続いているのだ。
現時点でわたしから書けるのはここまでである。至らない部分も多々あるだろうが、これをわたしの反ノンバイナリー差別の言葉とする。
言論は一人で完成させるものではなく積み上げていくものだと思っている。わたしの言葉は濁流を渡るための飛び石である。足場として踏んで踏んで踏み倒してもらうためにある。わたしより若く、わたしより賢い人が、わたしの先に新たな飛び石を置くだろう。
あらゆる立場からの閲覧を歓迎する。
このブログで過去にフェミニズムやトランスジェンダー差別について書いてきた文章を貼っておきます。
興味がある人は適当に読んでください。