トホホ~もうお腹いっぱいだよ~~(アイリスアウト)
質問者「自分は日本国籍のマジョリティの日本人で、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの男性なんですけど、そのような自分が●●(任意のマイノリティ属性にかんするトピック)に触れるときに気を付けるべきことはなんですか」
この流れ、トホホ~もうお腹いっぱいだよ~~(アイリスアウト)と毎回思うが、なにがこの人にこのように言わせているのかは痛いほどよくわかるので、この質問者はまったく悪くない。この人なりの真摯な考えに基づいて、このような枕詞を用いているのであろう。
というか、わたし自身がもしシスヘテロ男性なら、一言一句同じことをお決まりの枕詞にしている自信がある。絶対にある。
皆こう言うしかないのだ──こう言わせているのは誰だ? なんだ? このような言い方によって零れ落ちるものはなんだ?
この、もう食傷であるというわたしの感情を、この記事が目に触れているフェミニスト全員と共有できるとは思っていない。なにが食傷なのかわからない人もいるだろう。もちろんそれで構わない。連帯できないまま、わたしたちはそれぞれの信じることを成していく。
『「やまとフェミニズム」を解体する』
最も最近に上記のような質問を耳にしたのは、2025年11月29日、青山学院大学で開催されたシンポジウム『「やまとフェミニズム」を解体する -私たちのフェミニズムが人種主義・民族主義・植民地主義と決別するために。-』においてであった。質問はGoogleフォームを通じて募集されたので、この質問をした男性の姿を直接的に目で見たわけではない。
このシンポジウムは、現行の日本のフェミニズムを人種主義・民族主義・植民地主義の視点から問い直すものであった。「人種」や「民族」という本邦において周縁化されがちなアイデンティティに焦点を当て、現行の日本のフェミニズムが内包する問題点を看破する。表題になっている「やまとフェミニズム」とは、フェミニズムの日本人女性(主流女性)中心性を、問い直し変えていくことを拒否してしまう、あるいは拒否しないまでもその仕事を確実に進めることができないでいるようなフェミニズム、その現状・認識・知の有り様を指すものであり、背景には「普通の日本人」が持つ不可視化されたレイシズムがある。
わたしは出生によって日本国籍を取得し、日本で育ち日本語を母語とする日系日本人である(と、なんの躊躇いもなく開示してしまえる立場である)ので、先述の男性とまったく同じマジョリティである。わたしが持ついくつかのマイノリティ属性は、ここでは関係がない。だからこの男性の気持ちはよくわかる。流れによってはきっとわたしも同じ挙動をする(し、実際してきた)。その上で、食傷であると、そんなことを言える立場でもないのに、感じるわけだ。
マジョリティの日本人で、シスジェンダーで、ヘテロセクシュアルの、男性であると。
であれば加えて、定型発達か非定型発達かも言えばよい。
年収と、雇用形態、正規雇用か非正規雇用かも開示してはどうか。
港区・世田谷区・目黒区に居住している場合も、特権として申告すべきだ。
──もちろん、そんなことはしなくてよい。しかし、なぜしなくてよいのか。今回のシンポジウムの性質上、「マジョリティの日本人で~」という枕詞が要請されるのは頷ける。では、人種的・民族的要素以外のマジョリティ属性として、シスジェンダー・ヘテロセクシュアル・男性という属性がピックアップされたのはなぜか。なにが彼にそうさせたのか。
上記シンポジウムにおいても、インターセクショナリティという語句は重要キーワードとして取り上げられた。近年浸透しつつある語句である。しかしインターセクショナリティは、アイデンティティの総体としての人間の、個別のこまごまとしたアイデンティティの解像度をひたすらに上げるための概念ではないとわたしは理解している。学べば、結果的に解像度は上がるし、上げるべきである。しかしこれは本来は、副次的な作用にすぎない。
上記シンポジウムでも、人種主義・民族主義・植民地主義が異性愛規範や家父長制といったほかの排他的イデオロギーと手を結んできた歴史を踏まえた上で、交差するマイノリティの経験を中心に据えて被害者と加害者、特権と抑圧という二項を超えた共闘の可能性を探るべきであるというメッセージが発信されていた。
「自分は日本国籍のマジョリティの日本人で、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの男性なんですけど、そのような自分が●●(任意のマイノリティ属性にかんするトピック)に触れるときに気を付けるべきことはなんですか」
ここにあるのは内省の提示か。それとも赦しの懇願か。それともその両方か。
Aさんのこと
上記シンポジウム会場で、偶然知人を見つけた。ミックスルーツで外国籍の知人である。仮にAさんと呼ぶ。顔を合わせるのは一年以上ぶりだ。わたしは過去Aさんに二度、マイクロアグレッションをしたことがある。してしまった直後は気づかず、のちのち徐々に思い至った。Aさんがそれに気づいたかは微妙なラインであると判断された。どう詫びるべきか。先方が「大人」として流してくれているのなら黙して乗っかるべきか。長文のメッセージなど送りつけたら余計負担になるだろう。──どう振る舞うべきか、一年以上思案していたが、たまたまこうして顔を合わせることができたので、思い切って話しかけた。
Aさんは、憶えていなかった。心当たりがないから謝る必要はないし、話さなくてもいいと言った。これがわたしに気を遣った演技である可能性は、もちろん否定できない。われわれは異なる考えを持つ異なる人間であり、脳内を透視することはできない。しかしわたしはAさんを信じさせてもらうことにした。共通の知人を交えて三人でお茶をして、また機会があったら遊びましょうと言って、別れた。
このエピソードの開示もまた、マジョリティとしてのわたしの、赦しを目的とした目配せの意味を帯びる。必然的に、どうしようもなく、帯びる。
エミリー・ヨン・ベック個展
2025年2月に、中目黒で開催されたエミリー・ヨン・ベックの個展「LOST IN TRANSLATION」を見た。
エミリー・ヨン・ベックは1999年生まれ、シカゴを拠点に活動する韓国ルーツの陶芸家である。ポップカルチャー、とりわけ日本由来の「カワイイ文化」の政治的側面を掘り下げる作風を特徴とする。大日本帝国の植民地支配下での韓国に育った祖母を持つヨン・ベックにとって、日本の文化は単なるポップカルチャー以上の複雑な意味を持つ。「カワイイ」キャラクターをどこかグロテスクな質感で造型した作品群は、二項対立では捉えきれない複雑な力学を表現している。キャラクターがくっついている壺は、韓国ではキムチなどの発酵食品に使われる伝統的な容器を模したものだそうで、「発酵」のメタファーは「カワイイ文化」の下の腐ったなにか、負の側面を示唆する。日本と韓国の歴史的摩擦、植民地主義、アジア系アメリカ人としてアメリカ社会で感じてきた「カワイイ文化」由来のステレオタイプな女性像、グローバルな商品文化の拡大が女性像にもたらすリスク、西洋と非西洋の文化的な障壁とねじれなど、作品が体現する問題の射程範囲は非常に広い。



わたしが韓国の文化に詳しくないためハイコンテクストで理解しきれないところもあったが、見慣れたキャラクターが壮大な社会的文脈にひらかれていくさまが非常にスリリングで面白かった。
インスタグラムでヨン・ベックの最近の作品を見てみると、ドラゴンボールや仮面ライダーといった男児文化寄りのポップカルチャーも取り込んでおり、日本のポップカルチャーを総ざらいする勢いである。
初音ミクもついに登場している。足を半開きにした、性的かどうかのぎりぎりの境界のポーズであることにも意味があるのかもしれない。
また、キャラクターの半分をスケルトンにして「内臓」を露出させる新たな手法も導入されている。
ヨン・ベックの作品の文脈において、日系日本人であるわたしは「加害者」だ。しかしアートの複雑なパワーはわたしに、加害者の地位に安住することすら赦さない。わたしは、二項対立で表し得ない場に、強制的に引きずり出され、葛藤を強いられる。葛藤し続けることだけが、ひとまずは唯一の正義である。
しかし葛藤に実効的意味があるかないかで言うと、ないと言わざるを得ないであろう。「普通の日本人」であるわたしがのんびり葛藤している間にも、人種的・民族的マイノリティは差別され、排除され、生命と尊厳を脅かされている。わたしが精緻な言葉を志向して考えあぐねている間にも、暴力は、容赦のない速さと強さで、わたしより弱い立場にある人々を蹂躙している。
だからといって、葛藤をしないでいいわけではない。
意味はないと知りつつも、葛藤しなければならない。し続けなければならない。
すべてのことを書きたいという過大な欲望
すべてのことを書きたいと欲望してしまう。わたしの拙い筆力に比べるとあまりにも過大な欲望だが、そう強く願ってしまう。
わたしはすべてのことを書かねばならない。わたしはすべての人のアイデンティティの束、マジョリティ性とマイノリティ性、加害者性と被害者性、喜怒哀楽、生老病死を統合して総体として語らねばならない。ミクロにマジョリティ性を問い尽くし、マイノリティ性を問い尽くし、両者の峻別を性急に要求してくるマクロの構造を問い尽くした最果ての場所で、再びその人を等身大に顕現せしめなければならない。思考放棄としての浅薄な一般化や相対主義とは距離を取り、歴と存在する被害者の痛みと無念を織り込んだ上で、わたしはすべての人間の多元的複雑さを言語という多元的でない手段で表現しなければならない。
毎日、ことばを読んでいる。ことばに溺れている。それに劣らぬ勢いで、わたしの内からもことばが溢れてくる。
ことばに翻弄されている。溢れることばに溺れないように、精一杯立ち続けている。
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近況
①新しいZINEを出しました
出しました。
『月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』
『鬼滅の刃』黒死牟を語り尽くす、厚さ2.4センチ、執念の28万字!
吾峠呼世晴の人気漫画『鬼滅の刃』の敵キャラの一人、上弦の壱・黒死牟/継国巌勝を、フェミニズムの視点から読み解く批評エッセイ。筆者のテストステロン投与(男性ホルモン治療)の経験を起点に、作中屈指の「“男” をやり損ねた男鬼」であり、主人公・炭治郎に並ぶ「ケアする長男」であった継国巌勝を多様な角度から検討する28万字。
エッセイに加えて二次創作小説も並置することで、「正統」な考察である批評的発想力と、「邪道」の空想・捏造である二次創作的想像力の、境界を問い直します。
※末尾近くに70ページほど白紙が続きますが、落丁ではありません。
タイトル:
月魄最佳(げっぱくさいか) 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集
目次:
序章
第一章 継国巌勝と産屋敷家当主──職業殺人者による、最初ではない殺人としての父殺し
第二章 継国巌勝と妻──国家は嫡男の性を支配する
第三章 鬼舞辻無惨と黒死牟、継国巌勝と継国縁壱──ヤングケアラーの記憶
第四章 鬼舞辻無惨と黒死牟──鬼化と第二次性徴。あるいは炭治郎に並ぶ「ケアする長男」による、描かれなかったもう一つのケアワーク
第五章 鬼舞辻無惨と黒死牟──鬼というユートピアとネオリベラリズム
第六章 鬼舞辻無惨と黒死牟──嫡男の身体はトラウマを記録する
第七章 継国巌勝と妻、子──戦国武家のSRHR《性と生殖に関する健康と権利》
第八章 継国巌勝と継国縁壱──自己決定するからだ
第九章 継国巌勝と継国縁壱──嫡男の青春
第十章 鬼舞辻無惨と黒死牟──赤い月夜のあとに
第十一章 鬼舞辻無惨と黒死牟──身体性の喪失
第十二章 鬼舞辻無惨と黒死牟──ラストサムライ、豊臣氏滅亡を目撃する
第十三章 黒死牟と童磨──もし上弦の壱と上弦の弐が入れ替わりの血戦をしていたら
第十四章 黒死牟と童磨──身体性の回復
第十五章 鬼舞辻無惨と珠世──女鬼という境界人《マージナル・ウーマン》
第十六章 童磨と胡蝶しのぶ──偶像の初恋
第十七章 継国巌勝と妻、黒死牟と獪岳──愛について 剣鬼のアイデンティティと欲望
第十八章 黒死牟と獪岳──鬼として、地獄を尽きなく生きること
第十九章 継国巌勝と妻──戦国武家のPOTENTIA GAUDENDI《悦びの力》
第二十章 継国巌勝と獪岳、無惨、時透無一郎、妻、縁壱──鬼、そして男というアイデンティティ
終章
終式 月魄最佳
ブログ上でたっぷり試し読みできます。
あと、既刊2冊の紹介文を変えました。具体的には、ADHDとノンバイナリーという言葉を紹介文から削除してみた。
『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』
精神障害者ルームシェアレポ×男性ホルモン治療レポ、短歌、反トランス差別試論、+α。クィアネスとメンタル(アン)ヘルス、歴史的には偏見でもって一括りにされてきた二つの概念を、個人の経験を起点に今こそ重ねて語ることから始める反差別実践。語るそばから制度化されてゆくアイデンティティ語りに絶望し続け、拒否し続けた先の地平を想像するオートエスノグラフィ的エッセイ、全13章。
『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』
男性に同化することは望まない立場からの、自己責任による男性ホルモン治療への踏み切り。三年二カ月の身体変化を、「私的」なエッセイと、「客観的」なセオリーを横断して記録する全8章。“男” とは何か? 自分と “男” とを隔てるものは何か? ホルモン治療は現在も継続中。ゴールなき身体改変の旅は続いている。
第一章 月経
第二章 声
第三章 肌と体毛
第四章 体臭
第五章 性器と性欲
補章その一 ネオリベ病院のネオリベ注射
補章その二 精神科病院でのクローズ就労の記録
補章その三 加害者とみなされることに慣れる
既刊2冊も、ブログで試し読みできます。
このブログを始めて7年になる。少なくとも7年は、呉樹直己の名義でものを書いている。
7年書き続けて、いまだすべてのことを書くには至っていない。いまだ旅の途中にいる。
②YouTubeも続けています
2024年8月に始めたYouTube #政治的なvlog も継続している。この2カ月は文学フリマ東京41の原稿に忙しかったので小休止していたが、先日再会した。
今回のブログ記事を踏まえたトピックだと、エミリー・ヨン・ベック展レポに加えて、ミックスルーツの人々を描いた漫画『半分姉弟』感想、足尾銅山での朝鮮人強制労働を問う「猫の足尾銅山」展、埼玉県川口市の在日クルド人コミュニティを追った写真展「Not now but one day」展、参政党街宣プロテストデモなども関連が強いだろうか。
エミリー・ヨン・ベック「LOST IN TRANSLATION」展に行くvlog #政治的なvlog #emilyyongbeck
神保町&表参道買い物vlog #政治的なvlog

竹川宣彰「猫の足尾銅山─光と闇」展に行くvlog #政治的なvlog #オオタファインアーツ
埼玉県川口市 在日クルド人コミュニティを撮る──齊藤幸子写真展「Not now but one day」に行くvlog #政治的なvlog
参議院選挙に投票する&参政党街宣プロテストに行くvlog #政治的なvlog
③外部のお仕事
ありがたいことに、寄稿やトークの仕事をいただいている。個別記事にできていないが、とりあえずリンクを貼っておく。最新の商業の仕事はタバブックス編『仕事文脈 vol.27』寄稿である。ご興味がある方はよろしくお願いいたします。