敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

100 Live and Die By Trans

 

 

 

わたしにとって広義のトランスジェンダーであるということは、この社会が自分向きに作られてはいないことを重々承知しながら合わない靴で歩み続ける営みそのものであって、よく言われるような出生時に割り当てられた性とは異なる性にアイデンティティを持つ云々の説明は、正しくスマートであると感じはしても個人的な実感とは必ずしも一致しない。とあるトランスジェンダー/ノンバイナリー当事者であり研究者でもある人が、初の単著の書き出しを砂漠を歩く疲れ切った自己像の幻影的描写ではじめたのが、異なる背景を生きる他者の語りでありながら、著者が意図した文脈を超えてわたしの腑にも落ちる。われらの(われらの、と書かせてもらう)生は旅であり、合わない靴を支給されている。準備されている(誰によって?)靴が決まった形の2サイズしかなく、99%の人間が与えられた靴で歩みを進めている以上、われらのニーズは全体から見ると誤差程度の存在感しかない。サイズや形のバリエーションが増えることが当面の間(具体的な長さは誰にもわからない──もしかしたら永遠に?)望めない以上、われらは黙して合わない靴を履き続けるしかない。いや、黙して歩くことができたらどんなにいいだろう。多くの者は黙っていることもできない。縦になっているだけで痛いのだから当然である。一足ごとにいちいち擦過傷をこさえて痛い痛いと喚くわれらは、悲劇人というよりはほとんど喜劇の人であろう。トランスヘイターやTERFと他称される人にトランスジェンダーが直面する困難を縷々訴えても今ひとつ響かないのは当然で、他称ヘイターはわれらの困難を知らないのではなく、苦労は苦労として把握した上で、それらすべてを、しなくても済む苦労であると認識しているのだ。「普通に」生きていれば、あるいは「出生時の性と自分の性は違うなどという思い込み」を捨てさえすれば当たり前に回避できる苦労を、わざわざ背負ってはつらいつらいと被害者面して他者のリソースを浪費していると認識しているから、他称ヘイターはわれらを非難するのだ。あらゆるデータや専門書が示す通りトランスの困難は社会生活のほとんどすべてに偏在するが、そもそも出生時の性別を大人しく生きてさえいれば回避できる困難であると切り捨てる人は一定数いる(そしてその認識自体はあながち間違いでもない。トランスの困難のいくつかは、シスであれば直面せずに済む)。そのような認識の前ではどんな壮絶なエピソードも上滑りする。むしろエピソードが壮絶であるればあるほど、しないでもいい凄惨な苦労を進んで引き受ける意味不明な好事家と映って、当該人物の信用はむしろ低下する。ごくごく簡単な回避方法すらわからない愚か者と片付けられることもあるだろう。積み上げた苦労の高さと同じだけの道徳的優位性を得て自尊心を満たそうとしているとも思われるかもしれない。やはりわれらは喜劇の人なのだ。

 

 

 

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幸いにしてジェンダーアイデンティティを詰問されるようなシチュエーションに遭遇したことは、オンライン・オフラインともにない。これはつまりわたしが出生時に女性を割り当てられた者であり、性犯罪を犯す可能性が低いとみなされ、シスではないことを公言してもトイレや公衆浴場はどちらを使うのだろうかとびくつかれることがないほうの性別であることを意味している。今の日本語圏インターネットでは特権的な立場であるとも言える(もちろん、これが特権になってしまうのは本来異常なことだ)。ともかくわたしは、女性に近しい生き物であると見なされる限りにおいて比較的存在を許されやすく、ジェンダーアイデンティティを詰問されることはない。ただ、わたしのブログを読んでいる人から「ノンバイナリーなんですよね」と言われたことは何度かある。この確定的な問いかけへの返答は、実際のところわたしのジェンダーアイデンティティがノンバイナリーであるかどうかと関係がないと言ってしまってかまわない。想像を巡らせてほしいのだが、現状知名度が高いとは言えないノンバイナリーという語を知っており、わたしのブログを読んでわたしがホルモン治療を受けていることも承知で、オフラインのわたしと巡り合い、多少込み行ったことを話す仲にもなった、そんなありがたい人物がですよ、わたしをノンバイナリーと見なすことがその人の中で収まりがいいと感じるのであれば、わたしはそれを否定しようとは思わない。原義のアイデンティティは自己認識と他己認識というあわせ鏡の合間で幾重にも双方向的な認識・被認識を繰り返して醸成されるものであり、目の前でわたしを「ノンバイナリーなんですよね」と問う人物は、わたしが好むと好まざるとにかかわらずわたしのアイデンティティ形成に関与している。問いへの返答はもちろんイエス以外にあり得ない。今も昔もわたしの望みは円滑に社会生活を送って「うまくやる」ことであって、いらぬ衝突を起こしたくはない。生存戦略として女性という境遇を選択していることは、わたしの誇りである。女性とは出生時につかまされたアイデンティティだが、今のわたしはそれを自らの意志で掴み直し、女性の境遇で生き、女性の境遇で死ぬつもりでいる。同じように、生存戦略として(この場合、社会性の発露として)ノンバイナリーを名乗ることが必要なのであれば、わたしはノンバイナリーを名乗る。わたしにとってその名乗りは必ずしも「本音とは裏腹の建前」ではない。選んで名乗るそのプロセスにはわたしの意志があり、誇りがある。当事者であるわたしにとって、クィアネスはアイデンティティである以上に生き方である。あるいは、本来この2つは峻別できない。意志をもって名乗るとき、ノンバイナリーはわたしのアイデンティティの一部である。わたしにとって、女性を名乗ることがそうであるように。

 

 

 

さて、ノンバイナリーかと問われた話をここまで長々引き延ばしたことからお察しいただけるかもしれないが、実際のところ今のわたしは自分をノンバイナリーであるとは思っていない。帰属意識がない。わたしがノンバイナリーを名乗ることがあるとすれば利便性のためである。これはわたしが利便性のために女性を名乗るのと変わりがない。そして先述したように、わたしは意志をもって名乗るそのプロセス自体に意義を見い出している。わたしの中には「真の自分」のような概念はなく、社会との関係性において「うまくやる」自己があるのみである。アイデンティティとは本来そういうものだと思っている。だからわたしが「本当は自分をノンバイナリーだとは思っていない」と書くとき、そこには正直なところ大した深刻さはなく、机上の空論を捏ねているのに近い。だからここからの話は机上の空論とか思考実験の類いだと思って聞いてくれてかまわないのですが、わたしがノンバイナリーに帰属意識を持てないのは、わたしの観測範囲のノンバイナリーである人々がある点において同質性の高い集団と見えるからである。具体的に言うと、フェミニストが極端に多いとわたしには感じられる(あくまでわたしの観測範囲では)。わたしは自分をフェミニストだと思っているが、わたし自身のジェンダーアイデンティティとフェミニストであることは、わたしの中では必ずしも近いところにはない。しかし、現時点でのこの国のノンバイナリー性にはフェミニストであることが強く絡んでいるとわたしには感じられ、それはわたしが一個人として実感しているクィアネスの手触りとは少し違う。よってわたしは積極的に自らをノンバイナリーと定義することはしてない。

 

 

 

であればわたしはなんなのか。自分の実感をできるだけ正確に言葉にすると、「出生時の性にアイデンティティを見い出せないが、かといってもう片方の性にもアイデンティティを見い出せない広義のトランスジェンダー」となる。長ったらしいが、現状これ以上の言葉はない。なお、これを「男女二元論の枠に当てはまらない」と書いてしまうとこれまたわたしの実感からはずれる。今この社会で男女二元論という言葉を使うときに暗について回るフェミニズム的価値観と、わたしは距離を置きたい。何度も言うがわたしは自分をフェミニストだとは思っている。男女二元論は解体されるべきである。ただし自分のクィアネスとフェミニストであることは離して考えるほうがわたしにとってはしっくりくる。少なくとも現時点では。

 

 

 

すべてわたし個人の話である。なんにせよ、ノンバイナリーというアイデンティティは、見い出されてからまだ間がない。もちろんノンバイナリーが最近出現したと言っているのではなく、今でいうノンバイナリー的な人は昔からいたにせよ、名前がついて社会的に広まりはじめたのが最近という意味です。いずれもっと多様なノンバイナリー像が共有されたときには、わたしも胸を張って自分をノンバイナリーだと思うようになるかもしれない。ネット右翼とかのノンバイナリーがいれば教えてください。以上、机上の空論。

わたしにとってクィアネスはアイデンティティである以上に生き方である。あるいは、本来この2つは峻別できない。どう選び、行動してきたかこそがわたしのアイデンティティとなる。わたしは考える。わたしは意志を持つ。わたしは選ぶ。選択に伴う責任の重さは喜びである。同じだけの自由があることの証明だからだ。わたしはわたしの旅を続ける。つまるところ、わたしは人間である。人間として生きてきた。人間として死ぬつもりだ。

 

 

 

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