
現在が「当事者の時代」であることは明白だろうが、その「当事者性」が使い潰された先のことを、たまに、時々、常に考えている。わたし自身が、「当事者性」を使い捨てる時代の波に乗ることで露命を繋いでいる書き手であることの、自覚があるからだ。
これまでわたしが対価を得て書いてきた文章はいずれも、暗に、あるいはオファー段階で明示的に、「当事者性」を求められてきた。し、事実、特段のスキルや専門性を持たないわたしが金銭と引き換えに提供することができる市場価値は、「当事者性」くらいしかない。わたしは常に、アイデンティティの切り売りで金銭(と、広義の承認)を得てきた。アイデンティティの欠片を、せめて流行りのウェットな人文系用語の糖衣で包むことは拒否してきた。少しでも苛烈な言葉で表そうと試みてはいる。それは書き手としての私的な矜持と野心ゆえだが、この試みもどこまで成功しているかはわからない。
男性ホルモン治療を継続して三年になる。女性というアイデンティティに帰属意識はないが、男性であるとも思っていないので、いつかはやめるつもりの治療である。男性ホルモン製剤の投与が性別不合者にもたらす身体的変化は個人差が大きい。わたしの場合は三年間で声がゆるやかに低くなり、体毛がわずかに濃くなった。
ホルモン治療をするまで、幼少期からの性別違和はあくまで内的なものに留まっていた。典型的な女性としての性分化を遂げたわたしの身体は、女性と判断されるであろう見た目に成長した。わたしにとってホルモン治療の目的は、性別違和を外的に認知可能な形に引き上げることであった。アイデンティティとは、自己認識と他己認識の数限りない乱反射の果てに醸成されるものである。わたしのアイデンティティに深く食い込んでいる、性別にまつわる葛藤は、ホルモン製剤の助力によってついに外的なものとして掘り起こされた。
かつてのわたしはケアの放棄として冷蔵庫を処分したが、そこまでしてケアを手放したかったのは、ケアする主体として求められ続けた幼少期の経験が、女性ジェンダーとしてまなざされる経験とほとんどイコールだったからである節は否定できない。他者の認識においては女児から少女として在ったわたしは、女性に期待されるスキルを求められて父親の介護に参画してきた。「優しさ」や「包容力」や「傾聴スキル」の中に「自炊スキル」も含まれていた。生家では主に母親が食事の用意をしたが、母親が忙しいときや入院しているとき(父親ほど重度ではなかったが、母親にも身体障害があった)はわたしが自炊を担った。特段教わらなくとも当然できると思われていたし、実際できた。
わたしは女性ではないが、男性として生きたいわけではない。これから先も女性の境遇にローコストで留まって生きるためには、外見が「男性化」しすぎない段階でホルモン投与をやめる必要がある。そんな綱渡りをしてまでホルモン治療を続けているのもまた、冷蔵庫を捨てるような「極端な決断」の一部なのではないか? わたしは心的外傷ゆえに「極端な決断」に走っているだけの、「偽物のクィア」なのではないか? これはわたしが現在のような曖昧な在り方を続けている限りつきまとう問いであろう。自問自答するだけならよいが、時にはインターネットを通じて他者から問われることもある。わたしが、クィアとしてのアイデンティティを他者から尊重され得るには、この素朴な問いをひっくり返すだけの重力を帯びた生き方をする必要がある。
──出典:呉樹直己「重力と自炊」 『ユリイカ2025年3月号 特集=自炊』収録、p.241-242、青土社、2025年3月1日発行
わたしの文章に「実存」が感じられるなら、それはむしろわたしの限界の証左である。
実存とは、流行りのウェットな人文系用語の一つであり、今や具体的意味を特定することすら困難なプラスチック・ワードの一つに成り下がった。プラスチック・ワードとは、人工的でプラスチックのように色形を自在に変え、内容は空疎だが意味ありげな響きを持って流通している言葉と定義されている。権威を纏っていることも特徴の一つであるらしいが、実存という言葉には権威はない──この点は念入りに強調しておかねばならない。われわれに、本質的な権威は、ない。権威がありそうだと感じる人は、いささかSNSの見過ぎなので、少し落ち着いたほうがよい。
権威はない。しかし、「非当事者をちょっと気圧させる」程度の力は、ある。これを権威と呼ぶのは滑稽であるにせよ、ある種の力であることは間違いがない。この程度の微々たる力でも、脆弱なアイデンティティを生きる者にとっては貴重な資源なので、涙を流してありがたがって濫用することになる。多くの場合、無自覚に。
当事者性を注ぎ込み実存を賭した表現──エッセイ、エッセイ漫画、カルチュラルスタディーズ的な読み物から、セルフィーを含む写真、短歌、詩、小説、イラストレーション、メイクやファッションに至るまで──は、いかにマイノリティのアイデンティティに固着し、逃れがたく結びついていることか! アイデンティティとは、自己認識と他己認識の限りない合わせ鏡の果てに醸成されていくものである。他者からのまなざしはアイデンティティ形成に必須である。他者に説得的に証明することが(さまざまな事情から)困難なアイデンティティを持つ者にとって、おのが成果物に当事者性を、実存を認められることは、極めて即効性の高い承認の甘露である。ジャンクフードである。刹那の貪食に飛びつき続けた当事者の「末路」は、おそらく顧みられない。この流れは、貧困者こそがジャンクフードを常食している(し、そのような食生活が原因で後年に生活習慣病の症状を呈し、これまたバッシングの口実になる)ことと似ている。
先日、とある書籍の感想エントリを読んだ。
はてなブログに投稿しました
— 藤谷千明 (@fjtn_c) 2026年1月6日
【感想】女性だけの問題じゃない。『中高年シングル女性──ひとりで暮らすわたしたちのこと』 - fjtn_cの日記 https://t.co/CfQ2lLzVbj#はてなブログ
最近考えていることの話をします。「(雑誌的な)フリーライター」的な人の居場所がどんどん減ってて(それは雑誌が減ってるんだから時代の流れ的にしゃーないんですけど)、「専門家」(単に詳しいっていうよりなんらかの学者さん的な肩書のある人)か、「当事者」(当事者って本人が思ってて企画にGO…
— 藤谷千明 (@fjtn_c) 2026年1月6日
だから「当事者に近い人」じゃないと、なんか公(おおやけ)で色々なことを言いにくくにくくなっている。
— 藤谷千明 (@fjtn_c) 2026年1月6日
でも、わたしはそれって不幸なことだと思うんです。インターネットだぞ、好きにしゃべらせろ。
当該の書籍をわたしは読んでいないし、喫緊に読む予定もない。わたしのことばが、就職氷河期という過酷な時代を女性として、書き手として経験した/今も経験している二人の歳上女性のことばの重みに釣り合うとも思えない。一人は14歳上、一人は実に30歳上である。それでも、ここでわたしを躊躇させる「当事者性」の重みの話と、いままた繰り返されようとしている構造の話こそを、わたしはする必要がある。
かつて一部の書き手たちが、女性であるがゆえに、批評的スキルや専門性を求められず使い捨てられたという不均衡(≒差別)。当該女性たちにとって、雑誌文化が隆盛していた当時は追い風としてプラスに働いた不均衡は、現在に至っては残酷な足枷としてマイナスに働いている。同じ構造を、1995年生まれのわたしは、ほかならぬ自分自身にみている。われわれは、わたしは、当事者性を消費されているし、時には自ら進んで消費されたがる。
気づけば、地の文ではクィアという語を使わずに「われわれ」一本でここまで来てしまった。ここでいうわれわれとは、わたしを含む、24歳から34歳前後のクィアの書き手のことである。クィアという蔑称の再奪還が、文筆の界隈においてはおおむね完了した時代を生きるわれわれの話である。個人的には、セクシュアルマイノリティという語を戦略的に選ぶことが多いんですが、わたしも同時代人の端くれであることには変わりありません。
ブログやSNS出身のクィアの書き手(プロアマは問わない)に、批評的スキルや専門性は、多くの場合期待されていない。これは差別でもあり、恩寵でもある。この二つは同根のパターナリズム的発想から生じており、矛盾なく両立する。
加えてわれわれには、批評的スキルや専門性といった既存の──「男性的」な──権威の枠組みを問い直すような達成が求められてもいる。これは紛れもなくわれわれに課されたオブリージュであり、取り組む価値は大いにあるタスクだ。
さらに加えて、そもそも近年「批評」は嫌われ者であるので、商業的合理性においても遠ざけられていく。
いずれにせよ、クィアの書き手は、長期的な批評的スキルや専門性を育むことを阻害する構造的圧力のただ中にいるのである。
わたしはかつて寄稿原稿において、自身のアイデンティティに説得力を持たせるための重みとして重力を切望した。重力はわたしの轍を深くしてくれる力の比喩としてポジティブに持ち出すことができるが、わたしを地上に縛りつけ成長を阻害するネガティブな圧力の比喩に使うこともまた、可能であるように思われる。
いまこの瞬間、2026年1月現在においてはまだ、重力に身を任せて刹那の貪食を続けていても許されるかもしれない。だがこの先はどうか。現在すでに萌芽がある「非当事者だからこそ」のレトリックは、次の潮流として確実に台頭する。不可視化されてきたマジョリティのアイデンティティこそが語り直され、相対化された先に、一周回ってマイノリティのアイデンティティもまた相対化される時代が、確実に来る。
当事者性という、権威なき武器を、いまのわたしは戦略的に「賢く」活用しているつもりでいる。弾丸が切れる瞬間がいつなのか、切れたあとになにが残るのかは、わたしにはまだわからない。
~この流れで宣伝をします~
またユリイカに寄稿します。2026年3月号、特集名は「眠い(仮)」です。原稿はまだ完成していませんが、「『眠い』をクィアする」みたいな内容になりそうです。本当にタイトルを「『眠い』をクィアする」でお出ししていたらぶん殴ってください。
来たるあたたかな春に向けての「眠い」特集。
眠気はふとした時に意識の向こう側からやってくる。自律的な行動や思考を困難にするとされ遠ざけられてしまう「眠い」状態に没頭することで、あるべき覚醒のモデルを攪乱する、新たな生のすがたを描き出すことが可能になるのかもしれない。そうでなくともまず、眠りに落ちるまでのまどろみ、抗いがたい倦怠、意識が溶けゆく心地よさを思う存分甘受したい。
目次予定*【エッセイ】安達茉莉子/岩倉文也/海猫沢めろん/春日武彦/呉樹直己/齋藤美衣/絶対に終電を逃さない女/酉島伝法/ワクサカソウヘイ…
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試し読み
▼『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』
▼『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』
▼『月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』
3冊とも、クィアとしての「当事者性」を起点とする創作物である。クィアの「界隈」でも買ってくださる方は多く、本当に感謝に堪えない。感謝しているのは紛れもなく本心です。しかしわたしは、たとえば以下に引用させていただいたような「界隈」外の感想にこそ内心密かに喜んでいるわけである。
言語化とはこのことか、明晰な文章。文ごとに論理が通り、同じく動きも感じる。「ノンバイナリー」についての体験を綴った作品。同意することも目から鱗のことも多くて付箋しながら。この本すごい。「テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注」呉樹直己 @GJOshpink #文学フリマで買った本 pic.twitter.com/NNOcYDQg0g
— sayanu 日本冷麺探訪/韓国酒旅日記 (@sayanu) 2025年5月12日
呉樹直己さん『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注: 濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』
— たまのきゅうか (@yutomsm) 2025年5月20日
ノンバイナリーとして社会的に女性の性を選びながら身体的に男性的に変化させる選択をし、その体験を記録しつつ社会的文脈に位置づけ、葛藤の先に普遍的な場を拓かんとする。
たとえば、自己責任でリスクをとった賭けに出ることのある種の愉悦が語られつつジェンダークィアがそのような新自由主義的な圧力の中にいることを示すなど、個人的体験は社会的背景とともに語られ、さらにそれが可能となった自らの立場性も問うことで自己をセオリーにまで彫琢する覚悟が書かれる。
— たまのきゅうか (@yutomsm) 2025年5月20日
交差性の中で個人的な経験を離れることなく普遍性を求める、三兎を追う叙述は単純ではないのだが、個人の語りを発信する者にとって最重要な参照点になると思う。
— たまのきゅうか (@yutomsm) 2025年5月20日
呉樹直己 @GJOshpink 『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注』面白かった。
— 新野安@12/31東ソ54a (@iorin_the_3rd) 2025年5月16日
男になりたいわけではない著者の、男性ホルモン治療記録エッセイ。
フェミニズム・クィアの紋切型……というか紋切型そのものを文体としても生き方としても退ける意思が充溢した本。#文学フリマで買った本 pic.twitter.com/DlSBBj7S5Z
いくつか印象に残った表現を引用しておく。
— 新野安@12/31東ソ54a (@iorin_the_3rd) 2025年5月16日
「(ノンバイナリーの創作物について)反差別実践の道具として即「使える」ようにするためには……インスタントな「流行語」としてのフェミニズム用語を選択させ、結果的に使用語彙が似通ってくる。」
「男/女になりたいのではなくてトランスジェンダーになりたいだけ、とは…差別の言葉だが、しかしわたしに関して言えば、反対の性になりたいのではなくなにやらややこしい存在になりたいだけなのはある意味正解なのだ。…内的な不協和を、ほんの少しでいいから外的に認識可能な形で反映したかった」
— 新野安@12/31東ソ54a (@iorin_the_3rd) 2025年5月16日
「(男性ホルモン投与後)性的な欲望は増えたが、欲望が細部まで見えるようになったことで、欲望にフィットするコンテンツを探し出してくることは簡単になった。よって、欲望の満たされなさを不満に思う時間は必ずしも増えていない」
— 新野安@12/31東ソ54a (@iorin_the_3rd) 2025年5月16日
「(自分の)「男っぽい」部分が助長しているのは男性への恋愛的・性的関心だと感じられる。……男を欲望するときそこには常に自分自身への視線があり、それを自己男性化愛好症(オートアンドロフィリア)と呼ぶのならそうなのかもしれない」
— 新野安@12/31東ソ54a (@iorin_the_3rd) 2025年5月16日
他、頂き女子りりちゃんの加害者性をフェミニズムとして肯定せよという話、勤務先の精神病院の壮絶なハラスメントの嵐を生き延びた優越感の話、「ネオリベ病院のネオリベ注射」など読みどころ満載。「私が中イキできないのは……」のくだりも爆笑でした。
— 新野安@12/31東ソ54a (@iorin_the_3rd) 2025年5月16日
「界隈」の恩寵だけは享受しつつ「界隈」を冷笑するがごとき不義理を、ここ数年続けている自覚はある。場合によっては内部批判精神とか、好意的に受け取ってもらえるかもしれませんが。

直近のイベント出店は、2025年2月8日(日)の文学フリマ広島8(広島県立広島産業会館 東展示館)と、2025年2月22日(日)・23日(月祝)の第2回人文系リトルプレス市(東京・ジュンク堂池袋)です。
\呉樹イベント出店情報/
— 呉樹直己🐢 (@GJOshpink) 2026年1月6日
ZINEの既刊3冊を販売します。
◆2025年2月8日(日)
文学フリマ広島8/広島県立広島産業会館 東展示館
公式URL▼https://t.co/llKQlr8gmM
◆2025年2月22日(日)・23日(月祝)
第2回人文系リトルプレス市/東京・ジュンク堂池袋
公式URL▼https://t.co/s2s5fEbG6c pic.twitter.com/gdjz9gn3zJ
とりわけ文フリ広島は、初めての地方文フリ出店です。文フリ東京の巨大化・商業化は近年度々批判されていますが、地方にはまた違った潮流があるはずです。地方文フリに出店することはここ2年の目標でした。楽しみにしています。よろしくお願いいたします。
