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KADOKAWA『あの子もトランスジェンダーになった』刊行への所感 女性を割り当てられた広義の当事者より

 

 

 

【注意】

トランスジェンダーへの差別的言説に具体的に言及します。

 

 

2023年12月3日、記事タイトルに挙げた書籍の刊行がKADOKAWAから発表された。

 

【魚拓】

http://archive.today/2023.12.05-060034/https://twitter.com/kadokawahonyaku/status/1731070740496355487?s=20

 

www.kadokawa.co.jp

【魚拓】

http://archive.today/2023.12.05-042933/https://www.kadokawa.co.jp/product/322307000250/

 

『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』

原題:Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing our Daughters

著者:アビゲイル・シュライアー 監訳:岩波明 共訳:村山美雪・高橋知子・寺尾まち子

発売日:2024年01月24日

 

刊行が発表されて48時間以上経過した2023年11月5日現在、当該書籍およびその刊行にかかる問題性はすでに有識者によって発信されているので、ここでは繰り返さず、広義の当事者であるわたし個人の感想を記録する。当該書籍は、わたしを含む、女性として生まれたジェンダークィアが本格的にヘイトの矢面に引っ張り出される契機となっただろう。今まさに、有志によって、刊行中止を呼びかける運動が展開されている。版権を取得しコストを投じた企画を撤回するのがどれくらい難しいことなのか、出版業界の事情に疎いわたしにはわかりかねるが、刊行が撤回されようがされまいが、銃弾はすでに発射されたとわたしは捉える。書籍という太鼓判を得て、差別的言説は以前にも増して育っていくだろう。銃弾の標的は言うまでもなくトランスアンブレラの下にいる者たちであり、とりわけ、われら出生時に女性を割り当てられた当事者である。

 

 

 

日本においては2018年からにわかに激化したトランスジェンダーへの差別言説において、女性として生まれたジェンダークィアであるわたしは半分当事者であり、半分は非当事者であった。苛烈なバッシングはほとんど常に男性として生まれたクィアに向けられ、女性として生まれたクィアはほとんど常に透明化されていると、わたしには感じられた。これを特権と呼ぶのは、主語をわたし個人に厳密に限ったとしても躊躇いがある。人それぞれおかれている環境やストレス耐性に差がある以上、女性として生まれたクィアの苦しみを軽視し、アライの「責務」まで強いるような向きに加担したくはなかった。しかし、ことここに至って、今までのわたしはやはり恵まれていたと言わざるを得ない。わたしが透明な存在でいられたのは、性犯罪を犯す可能性が低いほうの性別であるとみなされてきたからだ。シスジェンダーではないことを公言しても、トイレや公衆浴場はどちらを使うのだろうかとびくつく必要のないほうの性別と捉えられていたからだ。

わたしは、われらは(われらという言葉を使わせてもらう)、脅威と見なされてこなかった。そもそも存在を認識されてこなかった。

われらの葛藤は、あるときは気の迷いだと、

あるときは月経をはじめとする二次性徴への戸惑いだと、

あるときはジェンダー規範への反発だと、

あるときは異性にモテないせいだと、

あるときはミソジニーだと、

あるときはミサンドリーだと、

あるときは男性の性欲への嫌悪だと、

あるときはおのれの性欲への嫌悪だと、

あるときは性被害の後遺障害だと、

あるときは性的指向との混同だと、

あるときはファッションだと、

あるときは自己演出だと、

あるときは思春期特有の自意識の肥大だと、

あるときは「オタク」特有の自意識の肥大だと、

あるときは発達神経症その他脳多様性に因する錯覚だと、

あるときは不適切な性教育のせいだと、

あるときはフェミニスト自認が高じたせいだと、

あるときはボーイズラブ趣味が高じたせいだと、

あるときは名誉男性になるためだと、

あるときは男尊女卑社会からの逃避だと、

あるときはポジショントークのためだと、

あるときはインターネットの言論空間において道徳的優位性を確保するためだと、

ありとあらゆる切り口で絶えずジャッジされ、矮小化されてきた。

上記書籍は、「ジェンダー思想(イデオロギー)に身も心も奪われた少女」に対する、「母たちからの愛の手紙」だそうである。このような物言いには覚えがある。このような「やさしい家父長制」は、昔から手を変え品を変えわれらの意志をくじいてきた。われらは常に、この男尊女卑社会で女でいることが嫌なあまり不適応を起こした憐れむべき愚か者、または、つらくとも女性性を引き受けている姉妹たちを裏切って権力の側に寝返った卑怯者とされてきた。

 

 

 

 

今後、大きく育った「やさしい家父長制」は、「性犯罪への懸念」と並ぶ、差別的言説のもう一つの柱として、われらの尊厳を蝕むだろう。

当事者の内面の苦しみや日常生活の不便を縷々訴えても効果はほとんどあるまい。われらは、差別者にとっては、綺麗に舗装された道を自ら外れて脇の藪に飛び込み、もがいて暴れて自ら茨に刺されては舗装された道を歩く人々を恨めしげに睨めつけて被害者ぶる、まったく意味不明の愚か者でしかないからだ。茨に刺される痛みを説いても無駄なのだ。あるいはせいぜい、「本当に性別違和に苦しんでいるご病気の方」と、「ファッション感覚のその他大勢」とに分断して納得されるか。

そして、「やさしい家父長制」は当事者の中にもあり、より弱い当事者に牙をむくであろうことも書いておかねばなるまい。

上記に列挙した、女性を割り当てられた当事者にありがちなジャッジは、われらが散々自問自答してきたものである。しかし同時に、ほかならぬ当事者によってぶつけられたり、あるいは、われら自身が他の当事者にぶつけたりしたことはなかっただろうか。

わたしは記憶している。かつて男性を割り当てられた年嵩の当事者が、女性を割り当てられた若い当事者の葛藤に、あまりにも無遠慮な疑念を差し挟んでいたのを記憶している。また、かつて女性を割り当てられた当事者のうち、今は男性に同化している、「埋没派」と自称・他称される当事者の放言も記憶している。治療の有無、移行の度合い、性的指向、定型発達かどうか、パス度と総称される容姿・所作の雰囲気、その他さまざまな要素によって、自分以外の当事者をジャッジしようとする視線が、外にも内にも存在することを、わたしは知っている。差別言説に抗うと同時に、健全な相互批判と自浄に向けて努力したい。これはわたし個人の自戒であって、コミュニティへの期待ではない。そのような余裕が、傷つき疲弊しきったコミュニティにもはやないかもしれないことを、わたし個人は責められる立場にない。

 

 

 

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【2023.12.5 追記】

続きを書きました。

 

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