敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

親愛なる友人たちへのお知らせ。あるいは、性同一性障害じゃないけどホルモン治療を開始した話 #ジェンダークィア #FtX #ノンバイナリー

 

 

 

LINEのスクショ。

 

言いたいことは、上記の画像に収まっています。

 

この画像は、2022年3月にわたしが友人の一人に送ったLINEのスクリーンショットです。3月から4月にかけて、同様のメッセージをテキストで、通話で、あるいは対面して、数人に伝えました。賢明なるわたしの友人たちはこれで納得し、わたしを受け入れてくれた。LINEを交換していない、インターネットで知り合った友人であるあなたのことも、わたしは同様に信頼しています。あなたもまた、上記の画像ですべてを察し、今までと変わらぬ友情でわたしを迎えてくれることでしょう。

ここで問題にしたいのは、友人というには距離が遠いあなたのことです。距離が遠いにも関わらず、なにかの拍子にこの記事を読んでくださっているあなたのことです。わたしは、あなたにもわたしのことを知ってほしい。そしてあわよくば友達になってほしいと思っています。理由は単純、友達は多いほうが楽しいから。もちろん、多ければいいというものでもないですけども。

以下は、わたしという人間の一端を表す長い長い覚え書きです。あなたに伝えるためと、自分自身の記録のために、書いていきます。

 

 

 

3300円、1366万5605分

2022年3月15日、1本目のホルモン注射──テスチノンデポー125mg筋注*1──を施術された。場所は都内某所の内科。いわゆるジェンダークリニックではない。白玉注射やにんにく注射や水素水点滴といった、エビデンスの不確かな美容施術と並べてホルモン治療のプランをホームページに載せるような、はっきり言って胡散臭さ満点の個人病院である。胡散臭い病院を、あえて選んだ。典型的なGID(性同一性障害)の様相に当てはまらないにも関わらずホルモン治療を選んだわたしの決断を、誰にも、医師にさえも、口出しされたくなかった。相変わらずバイナリーなGID治療ガイドラインがまかり通っているこの国で、曖昧なジェンダーアイデンティティに理解のある医師を探し出して自分のことを説明して説得する迂遠なプロセスを取りたくはなかった。逡巡なら、ここに来るまでに散々している。手っ取り早い施術こそを望んでいた。だがそれにしても、問診票の簡潔さには驚いた。GIDに関連する質問は「別の性別であると感じたのはいつからですか(「幼少」などおよそでかまいません)」「男装/女装はしますか」「これまでにホルモン治療/性別適合手術を受けたことはありますか」などのわずか数個で、あとは通常の内科診療と同じ、既往症や今飲んでいる薬の確認などだった。医師の診察も簡潔そのもので、血液検査も、副作用の説明すらなく(!)、流れるようにものの5分で注射をされた。胡散臭い病院は、期待した通りの適当さで、事務的にことを済ませてくれた*2。料金は、診察代1000円とホルモン代2000円に消費税を足した、計3300円。3300円で、わたしは最初の一歩を踏み出した。26年と5分かけて。

 

鬱病、ADHD

21歳のとき、鬱病とADHDを診断された。これで自分の生きがたさに名前がついたと思って、安堵したのを憶えている。自分の足に絡みついている棘だらけの蔓は、診断名という補助線を得たことで劇的に整理され、足元の見通しがよくなった。それでも、性別違和という蔓はまだ絡みついていた。そのことに気づいたのは25歳のときである。人より数年遅れたものの大学卒業の目途が立ち、就活解禁を目前にして、レディースのブラウスを買おうとして身体が凍った。就活が嫌だったのではない(嫌だが)。女性として就職する未来を実感して怖気を震ったのだ。女性社員として社会に出ていき、誰もに女性として認識され、女性のまま死ぬ自分の姿が見えて、激しい拒否感に襲われた。長年押し殺してきた違和感に向き合うときが来たのだと悟った。

 

 

 

フェミニズム、セクシャリティ

性別違和は幼少期からあった。幼いころのそれは、母親に「●●(本名)は女の子の皮をかぶった男の子だと思う」と言ったり、人形遊びよりも虫捕りを好んだり、黒のランドセルを欲しがったりといった、稚拙な形で表現されていた。身体的な違和感と、いわゆるジェンダー違和がない交ぜになっていた*3。成長してフェミニズム的な問題意識を持つに至って、両者はある程度分離された。人形遊びよりも虫捕りを好むことも、黒のランドセルを欲しがることも、それだけでわたしが男性であることを示すわけではない。いわゆる女らしくない女もいるし、いわゆる男らしくない男もいる。わたしは女性の多様性に包括され得る存在であると、フェミニズムが教えてくれた。

初恋の人が女性の身体を持つ人であっても、自分を男性であると思うには至らなかった。当時一般家庭にも普及していたパソコンで調べたら、レズビアンあるいはバイセクシャルという概念は容易く手に入った。なお、性的指向がホルモン投与後に変化する例もある*4とのことなので、記録として、現時点でのわたしの性的指向を記しておく。性的指向は、バイロマンティック・バイセクシャル。男性と女性どちらとも恋愛関係・性的関係を結んできた。パンセクシャルと言ったほうが正確かもしれない(あまりこだわっていない)。

 

あまりにも曖昧でなさすぎる身体

それでも、身体違和は残っていた。思春期にありがちな女体嫌悪を疑っても、名誉男性という概念を知って自問自答しても、ペニス羨望という精神分析学用語を知ってフロイトを紐解いてみても、それはたしかにわたしの中にあった。

物心ついてから、自分を男性だと思ったことはない。今までもこれからも、わたしは誇りを以て女性ジェンダーの一員であると断言できる。それでも、自分が女性の身体をしていることには違和感があった。違和感があるのにも関わらず、わたしの身体は出生時に女性であると判断され、典型的な女性としての性分化をし、女性にしか見えない外見、女性にしか聞こえない声で安定状態にあることが耐えがたく思われた。わたしがたしかに感じている違和感が、この身体のどこにも表現されていないことに絶望した。わたしの魂の一部がなかったことにされているかのような孤独感があった。

 

 

 

発達障害と性別違和

ここでいったん、わたしの診断名、ADHDに立ち戻らねばならない。ADHDやASDといった発達障害に性別違和が合併しやすいことは、少ないながらも複数の文献に記述がある。わたしが見つけ出すことができた日本語の文献は、サラ・ヘンドリックス『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界 幼児期から老年期まで』、シエナ・カステロン『わたしはASD女子 ―自閉スペクトラム症のみんなが輝くために』、横道誠『みんな水の中 ―「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』の3冊である。

『みんな水の中 ―「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』において、ASD・ADHD当事者である著者の横道誠は、自らを「疑似的なXジェンダーの不定性」とアイデンティファイした上で、ASD者には性別違和を合併する例が珍しくないことをデータを引きつつ明らかにしている。発達障害者における性別違和の原因について、少し長くなるが横道の考察を引用する。

 

 このような性別違和の原因がどこにあるのかは判然としていない。山口貴史は、ASD者はアイデンティティ構築が困難なこと、感覚過敏ゆえに二次性徴への困惑が大きいこと、認知が極端で思考が独特なこと、根源的な問いを好み、またそれにこだわることを挙げている[2018:210-212]。この見解にはおおむね同意できる。

 大村豊は「性同一性障害は彼らの自己イメージを結ぶ能力のつたなさから、自己の性的イメージの混乱が生じるのかもしれない。あるいは、不適応の原因を自己の性的属性に求めて、反対の性に同一化することで不適応を解決しようとする独特のファンタジーなのかもしれない」[1999:43]と考察している。この指摘にも部分的に同意できるが、発達界隈には男性ホルモンまたは女性ホルモンの投与を受けている者、性転換手術を受けた者、同性の恋人がいること、または同性の恋人を求めていることを公にしている人はめずらしくなく、「性的イメージの混乱」や「ファンタジー」だけでそのようになるのかは疑問がある。

 私の考えを述べよう。

 第一の可能性としては、肉体的な問題、すなわち脳の神経細胞(ニューロン)やホルモンなどの内分泌系の問題が考えられて良いと思う。

 しかし第二に、キマイラ現象が関与している可能性がある。父母や兄弟姉妹、身近な友人、恋人、あるいは文学と芸術に感化され、自分のなかの性差が不分明になっているというわけだ。

 ただし第三に、むしろASD者やADHD者は周囲の人々への同調性が低いことから、世間の規範や因習から自由に成長することができ、男らしさや女らしさに関する固定観念に縛られていないという可能性もある。

 また第四に、私たちは解離しやすい傾向にある。私の仲間には何人かの解離性同一症(つまり多重人格)の当事者がいて、ひとりの人間のなかに複数の男女の人格が宿ることは決して稀ではない。この解離によって、性自認の揺らぎが生じているのかもしれない。

 第五に、ASD者には強いこだわりがあり、 白黒思考が強い傾向にあるため、多くの人々がそのまま受けとめたり、気にせずにいたりする自分の性自認や性的指向の曖昧さを、なんとかして突きとめようとして躍起になり、結果としてこの問題が顕在化しているという可能性がある。アメリカでの調査はADHD者に関しても報告しているが、ASDとADHDは併発しやすいため、それらのADHD者の一部がASD者でもあったという可能性は否定できない。

 

出典:横道誠『みんな水の中 ―「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院、2021年)175-176頁

 

横道が当事者でなければ叱責のひとつも飛んできそうな大胆な書きぶりだが、発達障害当事者として、おおむね理解できる考察である。なお、セクシャルマイノリティの歴史は精神疾患的スティグマからの脱却の歴史であり、今改めて両者のオーバーラップを解くには極めて繊細な議論を要するということは横道も付記している。

 

選択をすること

しかし、発達障害者の訴える性別違和を「偽」とし、定型発達者の訴える性別違和こそを「真」と峻別したところで、問題はなにも解決しない。大切なのは、性別違和を抱えるその者がどう折り合いをつけて生きたいかであろう。
わたし以外の発達障害者がどういう選択をしているのかは関係ない。わたしは現に性別違和を苦痛として体験しており、わずかな性別移行措置でそれが軽減され得ると、このわたしの判断力で、このわたしの責任で以て判断した。身体を変化させる最も手軽な手段──ホルモン注射──は、自費診療として万人に提供されている。自己責任においてそれを選び取るのになんの問題もない。そう気づいてからは、迷うことはなくなった。わたしの性別違和が発達障害由来のものであるのかそうでないのか、わたしは興味がない。ただ粛々と、自分の信じた選択を掴み取るだけである。

はなはだ身勝手で、また、自己責任論を肯定するような結論であることは自覚している。批判は受け止めるが、上記引用文等を、トランスジェンダーのジェンダーアイデンティティを疑い排除する向きに利用することだけは厳に慎んでほしいと願う。

 

トランス差別に反対する

2022年のインターネットにおいて、トランスジェンダー差別言説はもはやありふれている。誰もかれもが、会ったこともない他者をアイデンティティごと土足で踏みにじり、糾弾し、排除しようとしている。ここまで書いてきたことを踏まえて改めて表明する──わたしは、インターネットに蔓延するトランス差別に反対している。今までは、インターネット上でカミングアウトをしていなかったため、当事者の立場で語ることもアライを装うこともできず、反対を表明するにしても曖昧な言い回しをせざるを得ない部分があった。だが今こそ、自身のすべてで以て表明することができる。人として、フェミニストとして、そして広義の当事者として、トランス差別に反対する。今この社会を生きている人が、ただそのようである、というだけの理由で排除されることなどあってはならない。

 

結局わたしは何者なのか

ノンバイナリーでもXジェンダーでも、他人が好きなように呼べばいい、と半ば本気で思っている。わたしはわたしである、としか言いようがない。使い古された言い回しだが、伊達ではないのだ。当事者たちはそれぞれの切実さを以て帰着するのである、自分は自分であるという言い回しに。だが、それではあまりにも不親切だ。他者にいたずらにコミュニケーションコストを強いたいわけではないので(これが「わきまえ」です)、もう少し言語化しておくと、FtXという用語が一番しっくりくる。アイデンティティの基盤にあるのはFemale、女性であり、Fを基盤にFからいずこかへ向かう者という自己認識でいる。今のところは*5

 

わたしという人間にまつわる覚え書きは、これで終えることにする。

感染症禍も戦禍も終わりが見えない情勢の中でも、すべての人が、思う通りの生を少しでも実現できるように祈っている。

 

 

 

 

参考文献(タイトル五十音順)

鈴木信平『男であれず、女になれない』(小学館、2017年)

『現代思想 2021年11月号 特集=ルッキズムを考える』(青土社、2021年)

サラ・ヘンドリックス 堀越英美訳『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界 幼児期から老年期まで』(河出書房新社、2021年)

吉野靫『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社、2020年)

藤高和輝『〈トラブル〉としてのフェミニズム ―「とり乱させない抑圧」に抗して』(青土社、2022年)

周司あきら『トランス男性によるトランスジェンダー男性学』(大月書店、2021年)

エリス・ヤング 上田勢子訳『ノンバイナリーがわかる本 heでもsheでもない、theyたちのこと』(明石書店、2021年)

横道誠『みんな水の中 ―「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(医学書院、2021年)

シエナ・カステロン 浦谷計子訳『わたしはASD女子 ―自閉スペクトラム症のみんなが輝くために』(さくら舎、2021年)

 

本棚の本。

 

 

 

 

 

 

*1:FtMのホルモン治療に使われるテストステロン製剤には、一般にエナルモンデポーとテスチノンデポーの二種類があり、この病院はテスチノンデポーを取り扱っていた。なお、男性ホルモンという呼称はこの文章では採用しない。

*2:この病院の名前は、もし需要があるならば当事者に限りお答えするのでお問い合わせください。この病院においては、ホルモン治療はこのように簡素な手続きで受けることができた。ただし、この事実が、「GID診断書もない者にカウンセリングもせず安易にホルモン治療を行う病院があり有害である」などといった形でトランス排除言説に牽強付会されるような事態は望んでいない。

*3:身体違和とジェンダー違和は必ずしも峻別され得る概念ではない。あくまでわたし個人の内的体験としては区別可能であったというだけの、極私的な話として受け取ってほしい。

*4:出典:周司あきら『トランス男性によるトランスジェンダー男性学』(大月書店、2021年)

*5:なお、記事タイトルに差し当たってジェンダークィア・FtX・ノンバイナリーの3つのタグを入れたのは、典型的GIDの診断基準に当てはまらない者でも医療的措置を望むケースの例としてインターネット上に残したかったからである。バイナリーな性別を指向しない曖昧な当事者の情報はまだまだ少ない。