敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

わたしは誰に「そそのかされた」か

 

 

 

【注意】

トランスジェンダーへの差別的言説に具体的に言及します。

 

 

前回の記事の追記である。先に前回の記事を読んでほしい。

 

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上記記事の末尾に補足として置いても正しく理解される気がしなかったので、記事を分けて、時差投稿とした。記事を分ければ正しく理解されるかというとべつにそうでもないだろうが、わたしが長文を捏ねるのは第一にはわたし自身のためなので、気にせず書いていくことにする。

 

 

 

上記記事では、わたしを含む、女性として生まれたジェンダークィアが内から外から投げかけられるジャッジの数々を具体的に挙げた。われらの葛藤を矮小化しようとする言説にいわく、気の迷い、月経をはじめとする二次性徴への戸惑い、ジェンダー規範への反発、異性にモテないせい、ミソジニー、ミサンドリー、男性の性欲への嫌悪、おのれの性欲への嫌悪、性被害の後遺障害、性的指向との混同、ファッション、自己演出、思春期特有の自意識の肥大、「オタク」特有の自意識の肥大、発達神経症その他脳神経多様性に因する錯覚、不適切な性教育のせい、フェミニスト自認が高じたせい、ボーイズラブ趣味が高じたせい、名誉男性になるため、男尊女卑社会からの逃避、ポジショントーク、インターネットの言論空間において道徳的優位性を確保するため、etc. etc. ──われらは、ありとあらゆる切り口で絶えずジャッジされ、透明化されている。

しかしわたしは、これらの諸要因が、われらの性別違和なるものに無関係であるとする立場ではない。思春期の精神不安定や、ジェンダー規範への反発や、発達神経症による不適合等によって、若年者に性別違和が「発生」する、あるいは「助長」「強化」されるケースは、実際あるだろうと思っている。戸籍上女性に限った話でもないと思う。わたしは医者でも学者でもないので、一当事者の体感でしかないが、そう思っている。その上で、「元の性」の性徴とされるものを軽減、あるいは極限まで消去し、「反対の性」の性徴とされるものを取り入れる、あるいは極限まで同化する生き方を選ぶか選ばないか、そしてその生き方に適合できるかできないかのほうが重要だと、わたしは考える。当事者であるわたしにとって、クィアネスはアイデンティティである以上に生き方なのだ(あるいは、両者は本来峻別できない)。仮に、「気の迷い」やジェンダー規範への反発によって生じた「疑似的な」性別違和によってトランジションに踏み切った戸籍上女性がいても、その人が性別移行後の生き方に案外馴染んでいるのなら、問題はないはずなのだ。もちろん、性別移行後の生き方に馴染めず、後悔の念を抱く人もいるだろう。しかし、覆すことが困難な決断は人生につきもので、若年者とて時にはそのような重い決断をしなければいけないことはある。もはや改めて言うまでもなく、わたしは傲慢で残酷な自己責任論者である。開き直ったところで免罪されるとも思わないが、事実そうなのだ。ジェンダークィアとして医療的措置を選択して生きるなら、自己責任論を拒絶することは極めて難しいと考えていることは、過去にも書いた。

 

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もちろん、個人の生において自己責任の領域は限りなく縮小されるべきだし、そのような社会が一刻も早く整備されるべきである。しかし現状、2023年12月の本邦において、社会がそうなってはいない以上、自己責任によるあやうい決断はいたるところで発生し得る。わたしは幸運にも、今のところ賭けに勝っており、このように生存バイアスの塊のような醜い言葉を悠長に吐いていられる状況にある。しかしわたしとて今後のことはわからない。わたしのホルモン治療はすでに1年9カ月に及んでおり、声も姿もそれなりに変えてきた。今後、後悔をする可能性はある。もちろんわたしは成人後に治療を開始したので、いわゆる思春期ブロッカー使用によるリスクとは無縁であるが、それでも健康面その他のリスクは常にある。

 

 

 

もう一度書くが、今の社会において、自己責任によるあやうい決断はいたるところに氾濫している。その上で、若年女性のジェンダーアイデンティティにかかる決断がことさらに気にかかって、口出しせずにはいられない人がいるとしたら、精査すべきはその人自身の内面ではないだろうか。