ある人がクィアだからといって別にリベラルとは限らない、ということをわたしはしつこく言い続けており、先月作ったZINE『月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』にも以下のように書いた。



ある人のジェンダーアイデンティティ/セクシュアリティと、当該個人の思想信条生き方等が「保守的」だとか「リベラル」だとかは、一切関係がない。複雑な物思いを呑み込んででも、一切関係がないと不断の努力で言い続けなければならない。シスヘテロであれば「保守的」だとか、クィアであれば「リベラル」だとかは、ない。わたしは広義にはノンバイナリーに包摂されるらしいジェンダーアイデンティティを持つが、ノンバイナリーなる概念について検索すると、「男女二元論に囚われない」「男女のカテゴリーではなく、人間として生きている」などといったほとんど噴飯物の形容が留保なくまかり通っているのは、全方位的に不幸である。ノンバイナリーにとってもノンバイナリーでない者にとっても、全員にとって不幸である。
言い方には相当悩んだ。葛藤した。葛藤を免罪符にするのは雑魚の振る舞いだが、事実わたしは雑魚だし、雑魚のやり口を戦略的に選ぶこともある。試行錯誤の末に、最終的には上記のような表現となった。現実的に考えて、『月魄最佳』がクィアフェニズムの本として広く受容されることはないと踏んだので、この書きぶりになった。既刊の『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』のような、直球でクィアフェニズムを掲げた本であったなら、もっとちゃんとした表現にするし、この一節だけで1章を割くだろう。「専門外」の本だからこそ断定的な書きぶりをしているのである。
われわれは不断の努力によって言い続けなければならない。われわれのフェミニズムが、われわれが最も唾棄すべき、当事者を置き去りにしたマジョリティ性とマイノリティ性の椅子取りゲームに成り下がるのを防ぐために。椅子取りゲームの陥穽は、いつでもわれわれを誘惑している。
とはいえ、ノンバイナリーをアイデンティティとする者は多くの場合、アンチ男女二元論の立場を取る。平たく言うとフェミニストである。まず第一には、そうでなければシンプルに生きていけないからだし、ほかにも要因はいくつか挙げることができる。
わたしもまた、フェミニストであると自己認識している人間である。
クィアは、社会を問い直す生き方を否応なく強いられる。この事実をどう捉えるか、面倒と思うか自分なりの歓びとするか等は、人それぞれだ。
そして、うつ病患者もまた、同じような機序によって、社会を問い直す生き方を強いられている。
そう感じる本が、最近立て続けに2冊出た。両方とも未読である。
『このクソみたいな社会で“イカれる”賢い女たち』
ハ・ミナ 著 ワタリドリ 訳 明石書店 2025年5月30日発売
うつ病を患う20,30代女性へのインタビューと分析を重ねた調査と対話が一冊に結実。不安と憂うつの断片を集め、「うつ病」という名の苦しみを当事者の言葉で再定義する。医学的定義やスティグマを超えて、女性の苦痛の新しい歴史を描く、最も深く温かな探求。
『脱走論 うつの時代の新しい倫理』
フランコ・ベラルディ(ビフォ) 著 杉村昌昭 訳 青土社 2025年12月23日発売
脱走こそ、唯一可能な倫理的選択にして合理的戦略である
経済成長の神話を支え暴力を生み出しつづける、あらゆる行為を放棄すること。ここにこそ荒廃する時代を生き延びる唯一の道がある。世界を覆う「うつ状態」を資本主義社会に対する抵抗として積極的に捉え返した、退行の時代のための新たなマニフェスト。
吉田豪のインタビューに答えたリリー・フランキーの有名な言葉も、必然的に連想された。
鬱は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと俺は友達になりたくない。こんな腐った世の中では少々気が滅入らないと。社会はおかしい、政治は腐ってる、人間の信頼関係は崩壊してる、不安になる。正常でいるほうが難しい
この言葉、有名だけど一次ソースがちょっと見当たらなかったので、ご存知の方は教えてください。
教えていただきました。ありがとうございます。吉田豪『サブカル・スーパースター鬱伝』(徳間書店、2012)収録、初出はQJ vol.84(2009)だそうです。
空虚なアイデンティティ・ゲームの陥穽から限りなく距離を取った上で、わたしは自分のクィアネスとメンタルヘルスを問わねばならない。
そう思い続けて、もう何年も経った。やりたいのは「問う」ことのほうだが、実際には「距離を取る」ことのほうに労力を割かれている。
「すべてのこと」を書かねばならない。
「すべてのこと」を書きおおせてしまいたい。考え続けることこそが唯一の道、などという甘美な正答には、いささか飽きている。これが正答であるというのなら(実際正答だと思います)、わたしは誤答を出したい。

