最終更新:2023.7.24
GID外来に通っている。
男性ホルモン治療を受けることを決断したとき、具体的なことを相談できるような知人はいなかったので、一人でネットで調べて見つけた病院である。個人的には大当たりだったと思っている。受付はスムーズだし、医師による診察は簡潔かつ必要十分。注射は洗練されたオペレーションにより30秒で終わる。混んでいないときは、来院から会計まで10分もかからないだろう。
しかし、洗練された病院は、なんの責任も取ってくれない。GID(性同一性障害)の診断書なしでホルモン注射はしてくれるが、医師は精神科専門医ではなく、カウンセリングや診断自体は行っていない。驚くべきことに、多くのジェンダークリニックでは必須である定期的な血液検査も、必須ではなく任意である。ホルモンの投与による身体への影響をモニタリングし管理していこうという意志がはなからない。血液検査は数千円かかるから、経済的に困窮しているジェンダークィア(言うまでもなく、クィアはそうでない人よりもずっと貧困に陥りやすい)にはありがたいのだろうが、代償が大きすぎる。大きな病が見過ごされ続けていたらもっと巨額のお金がかかる羽目になるかもしれないし、最悪命に関わる。健康を削ってお金を確保している状態である。
わたしはこの病院をネオリベ病院と呼んでいる。
ジェンダークィアとして医療的措置を選択して生きるなら、自己責任論を拒絶することは極めて難しいと思っている。わたしはわたしの経験しか語れないのだから、いたずらに主語を大きくするべきではないかもしれないが、そう思っている。少なくともわたしは、トキシックな土壌に乗っている自覚がある。わたしがホルモン治療に踏み切ることができた一因には、自分はテストステロン投与による変化が「馴染む」容姿であると判断したことがある。わたしは、女性ジェンダーにしては背が高く、肩幅が広く、声が低く、えらが張っている。胸部には一般的にDカップと呼ばれるサイズの隆起があるが、位置が離れ気味であるため谷間と呼ばれるような隙間はできにくく、サイズの割には目立たない。このような容姿の人間は、テストステロン投与によってさらに声が低くなり、筋肉がつき、体毛が濃くなっても、「違和感」は発生しにくいだろうという勝算があった。逆に言うと、「違和感」が発生している例が年頭にあり、そのようにはなりたくないと思っていた(これをルッキズムと呼ばずしてなんと呼ぶのか)。勝算はあったがもちろん、確信ではなかった。今のところわたしは、賭けに勝っている。勝っているからこそ、こうして声を上げられる。
賭けに負けて、沈黙を生きている先人が無数にいるであろうことは、言うまでもない。そもそも、GID外来にたどり着くことなく生を終えた/終えようとしている人がいることも。
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女性ではない、というところからわたしのクィアネスは始まった。同じジェンダークィアやノンバイナリーに分類される人間であっても、出発点は人それぞれ違うことと思う。男性と女性両方に帰属意識を感じる人も、中間であると感じる人もいるだろう。わたしの場合、アイデンティティはそれと指させる形ではなく、異なるものを除外した残滓としてあった。女性ではない。しかし、わたしの身体は典型的な女性としての性分化をし、先述したように多少「中性的」なほうとはいえ、男女で二分するならば疑う余地なく女性と判断される容姿、女性と判断される声をしていた。わたしの外面は、内面の葛藤をちらとも反映していなかった。自然の摂理と言い聞かせて諦めていたそれを、諦めないで済む方法としてのホルモン投与を自分に許すことができたのは、そう昔のことではない。思い至ってからは早かった。手持ちの端末で、GIDの診断書なしで注射を行っている病院を探し出して、その週のうちに訪ねていった。自宅から1時間、往復900円でたどり着く位置にそれはあった。注射1本のために特急や新幹線を乗り継いでいるクィアが少なくない中で、都会に住んでいるわたしは、いとも簡単にたどり着いた。これもまた特権である。
1本目の注射を受けて、駅までの帰り道、空は青かった。長らく諦めていた身体のままならなさを、これで制御できると思った。副作用の懸念すら誇らしかった。リスクは、わたしの勇気を引き立てるアクセサリーだった。
女として生まれた身体に男性ホルモンをぶち込むこと。女性ジェンダーに混ざることが難しくなっても、不可逆的に健康が破壊されても、誰も責任は取ってくれない。しかし、それに恐怖するどころか、愉悦すら覚えているわたしがいるのである。
自己責任は気持ちがいい。改めてはっきりと確信した。この身体が、この生き方が、どう転ぼうとも、わたしだけのせい。わたしだけの責任。無限の自由がそこにある。浮かれていた。いや、過去形ではない。現在進行系の浮かれの中でわたしはこの文章を書いている。
しかし、この多幸感もいずれは終わる。ホルモン投与を継続していけば、わたしはいずれ、「男性」にしか見えない容姿になってしまう。新たな葛藤が始まるはずだ。
女性ではない。しかし、男性である/男性になりたいわけではないのだ。男性に帰属意識を感じたことは一度もない。それでも、この国で、この社会で女性でないものとして生きるなら、行き着く先は遅かれ早かれ男性ということになる。テストステロンには男性ホルモンという名がついている。とはいえ、名づけたのは人間である。人間が、社会が、ひとを男と女に二分してきた。その単純明快な二元論はわれわれの認知コストを大幅に削減し、日常生活を簡便にしてきた。男であれない、女であれない者たちの尊厳を轢き潰しながら、われわれ(そう、わたしも当然含まれている)は安楽を享受してきた。
「ちょっと中性的な女性」であれなくなったとき、わたしの安楽は破壊される。その前に治療を終える必要がある。それまであとどれくらいかはわからない。わからないまま進んでいる。今週もまた、ネオリベ病院に通う。
【補足】
診断書もカウンセリングもなく即日ホルモン投与を行う病院が存在することは事実である。しかしこの事実が、「安易なホルモン治療の危険性」などといった形で特定のアイデンティティを疑う向きに牽強付会されるような事態は望んでいない。
即日ホルモン投与のインフラは、この国の医療制度そして社会そのものの矛盾に対する止むに止まれぬ応急措置として流れるか細い水脈である。断てば利用者は命を落とす。責めるべきは利用者ではない。