敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

コロナとピアスと、わたしだけのからだ

 

 

 

COVID-19による自粛の、わたしにとっての影響のひとつに、病院でピアスを開けてもらえなくなったことがある。

医療行為とはいえ病気を治しに行くわけではないので(むしろ身体を傷つけようとしている!)、優先順位は低い。医療従事者の皆さんにわたしの肉体を触ってもらわなきゃいけないし、感染リスクを増やすのは申し訳ない。いつもお世話になっている形成外科は一応営業しているようだが、当分行くつもりはない。

 

それこそ不要不急のことなので、今の今まで思い至りませんでした。しょせんその程度のことで、影響としては非常に些細だが、不可能となると急に寂しくなりますね(セルフでピアッシングすることもできるが、わたしは面倒なのでお金を払ってプロに一任する派です)。

思えば、わたしにとってピアッシングは、肉体がわたしの意思で可変的であること、つまりわたしの身体が真にわたしだけのものであることを確認する行為だった。なお、10代前半ごろは、手首をカッターで切り刻むことがそれに似た役目を果たしていた(まったく同じではないです。自傷とピアッシングがイコールで結びつく人もいると思うが、個人的には違いました)。

その昔、カッターで切り刻む場所は身体中に及んだが、結局、手首とかすぐに視認できる場所が一番しっくりきた。同じように、ピアス(耳)も、自分で確認できるところにいつまでも残るのがいいですね。わたしはわたしの肉体を傷つけることができる、わたしはわたしの所有者であると、まずはピアッサーが貫通する瞬間に強く実感できる。さらには、癒えない傷跡として維持することで、いつでも何度でも確認し直すことができる。おまけに、ピアスホールには多少なりともケアが必要だから、セルフケアの文脈で捉えなおして、自己肯定感の肥やしにすることもできます。わざわざ自分に傷をつけているのにケアとはこれいかに。

 

 

大小様々のピアス。

 

 

 

「わたしの身体が真にわたしだけのものであること」について、感覚を辿ってふわっと掘り下げてみる。あくまでふわっとなので流し読みしてほしい。

そもそもの話だが、親の乳をふくみ親の金で給餌されて培われたこの命は本当にわたしのものか?という問いを立てることができます。親元では育たなかった人も、親戚なり、義両親なり、施設スタッフなり、誰かしら他者の手と他者の金銭によって生存してきた時期があるはずだ。生まれてすぐ自分で餌を探し始める生き物もいるが、ヒトはそのようにはできていない。

それでも、あなたの生命は、真に自分のものと言えるか?という話だ。

 

そういう意味では確かに、わたしの生はわたしだけのものではないのかもしれない。わたしという人間は、わたし以外の他者に少しずつ所有されている。最も直接的で緊密な意味では、親に。

ただ、個人的には、「所有される」というイメージは必ずしも忌まわしいものではないので、ひとつ、とことん拡大解釈をしてみたい。

たとえば、わたしが住んでいるアパートの大家。彼が所有する部屋でわたしはぬくぬくと安眠を得ている。たとえば、近所のスーパー。わたしの食生活の大半を規定し、わたしの健康を支えているといっても過言ではないあの場所は、わたしを支配してはいないか。たとえば、友達。多かれ少なかれ思い出がある相手なら、彼ら彼女らの記憶の中に、わたしは居場所を持ち続ける。わたしという人間の断片が、ちりぢりに拡散されて、他者の脳内に封じ込められるイメージだ。ハリー・ポッターの分霊箱みたいに。わたしの友達は、わたしの合意を得ずに、自由にわたしを思い出すことができる。

しかし、記憶その他の手段によって他者を所有しているのは、わたしも同じである。わたしも友達を記憶の中で飼っている。所有している。わたしの中には他者の居場所がある。それを嬉しく思ってくれる人だけではなく、疎ましく思っている人も当然いるだろうが、相手の意向の及ばないところで、わたしは彼ら彼女らを所有し続ける。忘れてくれと頼まれても記憶は操れないからどうしようもない。わたしたちは、互いに所有し、所有されている。その連鎖から抜けることは絶対に不可能だ。過去の記事でも書いたように、わたしたちは、社会そのものの一部として、大いなる循環の中で生を繋いでいる。ミクロには身近な人間関係に、マクロには福祉や行政に支えられて、わたしたちは決して一人にはならない。なにがあっても繋がり続けることは、人間というひよわな生き物の根幹に刻み込まれた生存戦略だ。

 

 

 

 

「わたし」という人格を広く薄く引き伸ばす図を想像する。現代人が、手足の延長であるかのようにスマートフォンを操るのと同じだ。わたしという人格も、ありとあらゆる場所に分散されている。わたし自身が感知し制御できている部分は、相対的にどんどん少なくなる。わたしという人間は、オフラインの友人とかオンラインの知人とかの中に、少しずつ少しずつ蓄積され、所有されている。もちろん、このブログを読んでいるあなたの中にも、わたしの居場所があるはずだ。少なくともこの文章を目で追っている間は、わたしはあなたの脳を侵犯している。あなたの合意もなく、わたしの意図ですらない部分で、揺るがしがたく、わたしはあなたをファックしている。逆も然りで、わたしもあなたにファックされる。わたしとあなたの間には自他境界があるが、境界という言葉から想起されるような硬質な一線はそこにはなく、むしろ、人と人とがとけあいまざりあい、じぶんとたにんという概念そのものが曖昧になり、どろどろに溶けてスライム状になって、それでひとつのおおきなべつの人間の細胞間物質なぞを構成しているかのような ――

 

 

 

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わたしは、耳に金属片をぶっ刺すみたいな原始的なやり方で、自分の主人がこの自分であることを自分自身に証明しようとしている。同時に、誰に強制されているわけでもないのに友達を作ったり、SNSでフォロー関係を形成したり、ブログをやったりして、自ら自我を他者に明け渡している。矛盾を抱えてわたしは生きる。すべては矛盾している。どろどろに溶けた自我のイメージが、かえって、決して同じ人間にはなり得ない「他者」の存在をくっきりと意識させるように。いや、矛盾ではなく、すべては繋がっている。すべては理にかなっている。近視眼的にしか生きられないちっぽけな人間には思い及ばない部分で、すべてはよりよい方向に向かっている、と信じたい。きっと、なるようになる。なるようにしかならない。文章の着地点をすっかり見失っていますが、強制的に筆を置いて、今日も生活を試みていきます。皆さまも、それぞれの生活にお戻りください。きょうび、生活が順調にいっている人は少ないでしょう。誰しも多かれ少なかれダメージを受けていることでしょう。それでも、昨日よりは今日とは言わないが、半年後より一年後、一年後より三年後と、よりよい生活(プレCOVID-19を取り戻すという意味では必ずしもない)に近づいていくと信じて。