2023年7月12日夜、ショッキングなニュースが飛び込んできて、現在進行形でインターネットを席捲している。
なにが起きたのかを今ここで繰り返し述べることはしない。当分は記憶に新しく、読む人も察することができるだろうから。記事公開後、ある程度日数が経ったら、追記の形で記載しようと思っている。どんな衝撃でも、人は忘れてしまうから。そして、残念ながら、おそらく、確実に、これは最後の衝撃とはならない。われわれは、残念ながら、おそらく、確実に、打ちひしがれた夜を、これからも越えていくことになる。
【2023.9.10 追記】
2023年7月12日夜、タレントのryuchellの自死が報じられた。享年27。
人が、ただそうであるというだけで権利を奪われ、憎悪に晒され、尊厳を脅かされ、死に追いやられている。話題の人物がそうであったのかはわからない。赤の他人であるわたしが知る必要もないことだ。その選択を悲劇的結末と断ずることもしたくない(かつて親友が逝ったときにわたしはその死を敗北であると断言してみせたが、それは然るべき文脈とわれわれの関係性あってのことだ。誰に対してでもできることではない)。それでも、かの人が、権利を奪われ、憎悪に晒され、尊厳を脅かされ、死に追いやられていてもおかしくないほどの過酷な状況にいたのは、赤の他人であるわたしにもわかるのだ。そんなニュースに接した上でわれわれは、その過酷な状況を作り出した機構の一部として、明日からまた生きていく必要がある。
ブログを読んでいる人の顔も名前も知るすべがないのは、筆者であるわたしにとって幸運なことだ。閲覧者の数だけある痛みがすべて知らされる仕組みであったら、わたしはその重みに耐えられないだろう。
それでも、その安全さと裏腹の無力感こそが耐え難いときもある。今がそのときだ。
よって、4年前、とあるネット記事(今日の出来事と直接的な関係はない)をきっかけに書いた過去記事を、ほぼそのまま再掲することにした。細々と続けてきたこのブログは3年前も今も変わらず小さな個人ブログであり、再掲しても問題ないであろうと判断した。万単位の閲覧者を抱えるインフルエンサーにはできない、今のわたしだからこそできることの一つとして、改めてこのインターネットに放流する。
本文中に予防線を張ってある通り、わたしはあなたの役には立たない。また、4年前のネット記事もそれなりにショッキングな内容なので、かえって気持ちを暗くすることになるかもしれない。すべてはわたしの自己満足である。それでも、自己満足でも、微かな交信が必要なときはあるのだ。今は、わたしにとって、そのときである。
以下、末尾まで、2019年の文章である。
***
痛ましい記事を読んだ。
元記事は削除されているのでアーカイブを貼る。
56歳 ひきこもり衰弱死
寒さが厳しさを増していた去年の暮れ、56歳の男性が一人、自宅で亡くなりました。死因は低栄養と低体温による衰弱死。「ひきこもり」状態が30年以上にわたって続き、両親が亡くなったあとも自宅に取り残されていました。家族や近所の住民、行政など周囲の人たちが気にかけてきたにも関わらず、「自分でなんとかしたい」と頑なに支援を拒んでいました。それぞれの立場の人たちが男性に関わりながらも、その死を止めることが出来ませんでした。
「助けて欲しい」という声を上げることは、死ぬことよりも難しい。それが、彼らの直面している現実です。
今回の取材の中で、伸一さんに関わった関係者の多くが「せめて“誰か”が気にかけているというメッセージを継続して送り続けられていれば、最後の最後で頼ってもらえたかもしれない」と話していました。その「誰か」は誰でもよかったのだと。
しかし、実際には職域やプライバシーを超えてまで、その誰かになろうとする人はなかなかいません。
そうした中で、伸一さんはひきこもり、その末に「死」へと向かっていきました。
“「助けて欲しい」という声を上げることは、死ぬことよりも難しい。”
他人事ではない、生々しい実感を掻き立てられる一節だ。助けを求めるよりも、死に至るほどの飢えと寒さに晒されるほうが楽だと感じる心理。社会貢献できていない・生産性がないという負い目は、大の大人をここまで追い詰めるのだ。
こんな悲劇があってよいのですか、こんな結末があなた方の望みですか、と血筋の涙を流しながら問うても、為政者は平然としているのだろう。まさしくこれが、この国の望みだから。こうなるような仕組みを作り上げてきたのだから。
セルフネグレクトの果ての、緩やかな自死。きっとこれは、自己責任論なる病に侵された、日本という国そのものの末路だ。
さて、ここまで書いてきたのは、どうでもいいことです。日本人の国民性と政治の共犯関係だの、自己責任論の功罪だのは、有識者の方々によって、もっと正確な言葉で語り尽くされていることだろう。
ここからが本題だ。
わたしが語りたいのは、あなたのことです。
そう、この文章を読んでいるあなた。広大なインターネットの海から、このブログに辿り着いたあなた。顔も知らないあなたに言っている。死ぬなよ。国はわたしたちに死んでもらいたがっているが、わたしはあなたに生きていてほしい。
いや、べつに死んだっていいんですけど、少なくとも、国が決めた生死に流されてほしくはない。あなたでないものが決めた生き死にに、あなたの命を従わせてほしくはない。
将来のことはなにもわからないが、今この瞬間、わたしはここにいる。ここで生きている。よかったら、あなたの居場所も教えてください。ブログのお問い合わせフォームも、TwitterのDMも、Gmailも、見ている。
期待はしないでください。わたしはきっとあなたの役に立たないし、たぶんあなたもわたしの役には立たないでしょう。それでもわたしたちは、暗闇にまたたく星と星として、互いの姿を認めあうことができるはずだ。
連絡をください。これは、星のひとつとして市井に生きる、あなたとわたしにだけ可能な交信です。
以上、本題でした。以下余談。
「死ね」と言われたことがある。3年前、長谷川豊という下劣な人間に言われた*1。しかしわたしは、わたし以外のものが決めた生き死にに従うつもりはない。
長谷川だけではない。わたしに死んでほしい人間がほかにもいることを、わたしは知っている。人間をせまい尺度でしか測ることができず、あるべき姿から外れているとみなした人間を無価値だと切り捨てる者は、たくさんいる。死ね、とまでは言わなくても、あるべき姿でない人間を緩やかに排除してくる者は、たくさんいる。
それでも、「あるべき姿の人間」「マジョリティ側」という属性とて、ある意味では幻想であろう。
この国の現内閣総理大臣(2019年時点)には子どもがいない。杉田水脈流に言うなら、生物として「生産性がない」状態だ。
国政のトップに立つ人間でさえ、こうなのだ。生まれてから死ぬまで「あるべき姿」から外れずにいられる人が、どれだけいるというのか。
わたしたちは誰しも、栄養すら自力で摂れぬ未成熟な身体でこの世に生を受ける。大人に散々世話をされて、ようやく自分で食べることを覚え、自分の足で歩き、自分の尻を自分で拭い、長い長い年月の果てに、自分で自分を生かすことが可能になる。
そして、一定の年齢を越えると、身体機能は衰えてゆく。食事も、歩行も、排泄も、できていたはずのことが徐々に困難になり、個人差はあるものの大なり小なり他者の助けを必要とするようになる。人によっては、またしても赤子と同じように一から十まで世話をされなければならなくなる。
生産性もクソもない、自立心の欠片もない状態で生まれ、そして死んでいく。
食事も歩行も排泄も自力ではできないままで一生過ごす人も、中にはいる。
そこに理由はない。人間とは、そういう生き物なのだ。どうしようもなくひ弱だからこそ、生存戦略として、助け合いという発想を授けられているのだ。
「あるべき姿」の設定とはつまり、人を属性で分断することだ。
人工透析患者。身体障害者。精神障害者。知的障害者。大人。子ども。老人。男。女。クィア。邦人。外国人。未婚。既婚。子持ち。子無し。わたしたちを形容する属性は無限にある。マジョリティ属性とて、時と場合によってはマジョリティではなくなる。すべては相対的な、架空の指標なのだから。
わたしたちは、無数の属性で隔てられている。誰もが、ある面ではマジョリティであり、ある面ではマイノリティでもある。あなたにわたしの痛みがわからないように、わたしにもあなたの痛みはわからない。
わかりあえないことを前提として、わたしたちには、よりよい共存を目指して努力をする義務がある。
分断を受け入れることは、努力を放棄することだ。わたしは、いかなる分断も拒否する。
わたしたちは連帯できない。お前にわたしのなにがわかる。健常者に障害者のなにがわかる。同様に、わたしにはお前の事情がわからない。わたしはわたし以外の人の苦しみを知ることはできない。
— 呉樹 直己 (@GJOshpink) June 15, 2019
それでもわたしたちは、欺瞞を抱えたままやっていくしかない。
わたしには「男の気持ち」がわからないし、「女の気持ち」もわからないし、「健常者の気持ち」も「障害者の気持ち」も、どんな属性で区切ったとて、誰の事情も代弁なんてできないよ。わたしたちは連帯できない。それでも声を上げるしかない。
— 呉樹直己 (@GJOshpink) 2019年6月15日
*1:
長谷川豊氏の、問題のブログ記事は改題されていました。
医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!! : 長谷川豊 公式コラム 『本気論 本音論』
2016年9月19日付の初出タイトルは、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」でした。
参照記事
わたしは常染色体優性多発性嚢胞腎(ADPKD)を患っていますが、人工透析治療はまだ受けていないので、今のところは無関係ではありますね。それでも、加齢とともに腎不全が悪化していくと、将来的には長谷川氏の言う「殺すべき人間」の仲間入りをする可能性が高いです。
また、長谷川氏は正確には「自業自得の透析患者を殺せ」と言っているので、母からの遺伝によって罹患したわたしは対象外かもしれません。しかしここで、「わたしは暴飲暴食などしていないけれど不可抗力で発病してしまって……」と予防線を張ることは、適切な振る舞いではないでしょう。わたしも、生活習慣のせいで透析患者になった人たち(?)も、等しく「殺せ」と言われたと受け取っています。