食べることも眠ることも息をすることも、身体を縦にすることすら苦痛に感じるときがある。そういうときは、ただただなにもせず一人で静かに死んでいきたいと思う。これは「死にたい」という気持ちとは別の感情としてある。だが、「一人で静かに死んでいく」ことは、たぶん死ぬことよりも難しい。
わたしは、ミクロには友人たちの優しさに、マクロには福祉や行政に支えられて生きている。もっというと人間社会そのものの一部として、大いなる循環の中で生を繋いでいる。恩を受け恩を返し、助け助けられ、わたしは決して一人にはならない。
なにかとんでもない不義理を働いて友人全員を失ったとて、目下享受している行政サービスをすべて拒否したとて、生きている限り人は決して一人にはなれない。繋がること、なにがあっても繋がり続けることは、人間というひよわな生き物の根幹に刻み込まれた生存戦略だ。
わたしは一人ではない。寂しい、と独りごちたその瞬間でさえ誰かに想われていることを、わたしは知っている。わたしは愛されている。そしてわたしも、現し世の循環を、人間そのものを、愛することをやめてはいない。
生きづらい人間は、生きづらさのせいでしばしば社会から拒絶される。彼ら自身も社会を苦痛に感じ、自ら距離を取って暮らすことも多い。しかしそんな彼らを強制的に社会に関わらせるのもまた、生きづらさなのだ。独力ではどうしても生活が立ち行かず、たとえば役所で医療費補助等を申請することも。緊急時に、たとえば隣人の善意で救命救急に繋がることも。それら生命線はすべて、人との関わりの中でしか得られない。
特性ゆえに社会から隔絶された人間が、特性ゆえに社会との接点を求めざるを得ないというマッチポンプ。酷と言ってしまえば、あまりにも酷ではないか。
これは恩寵か、はたまた悪魔のジレンマか。わたしにはわからない。
わからないまま、わたしは今日も循環の中で生きている。人を拒絶し拒絶され、愛し愛され、人として、人の中で、一日一日を生き延びている。
恩寵であることとジレンマであることは矛盾しない。どちらに転ぶかはきっと、わたし自身の生き方で決まるのだ。
わたしは今日も生きている。
よりよい生を試みている。