敏感肌ADHDが生活を試みる

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20代発達障害と30代双極性障害の共同生活、6カ月目の記録。半年間の気づきまとめ

最終更新:2021.2.9

 

 

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1.一人分から二人分への家事負担の増え方は予想以上に大きいこと

元々数年間一人暮らしを経験しており、家事には慣れているつもりだったが、それでも最初の2カ月ほどは、一日の終わりには骨が軋むような深い疲労感があった(今はそんなことはない)。人数が増えたからというよりは、部屋数が多くなったのが原因かもしれない。元々住んでいた住居は学生向けの小さなワンルームだったが、今の住居は当然そうではない(詳しい間取りは個人情報なので伏せる)。部屋数が増えると掃除すべきスペースが増えるし、部屋から部屋へものを持ち運ぶ機会も増える。住み始めたころは、一日働くと足の裏が痛くなっていた。しかしこれも、今は改善している。足裏の皮が厚くなったのかもしれません。また、日中どれだけ鬱々としていても、夕方になるとまるで自動のように起き上がって風呂掃除をして湯を張って夕飯の支度をして先生を出迎えることが可能になった。おのれの役割に、心身が順応しているようだ。

唯一改善していないのは手荒れである。つい最近まで手荒れとはほぼ無縁で生きてきたのだが、2020年秋から急に出現した。年齢的なものと、水仕事が増えたのが原因だと思われる。今後酷くなることはあっても治ることはないのではないだろうか。見た目などはどうでもよいが、アルコール消毒で沁みるのが少し不便だ。爪も乾燥するようになり、一定以上の長さに伸ばすと剥がれるようになった。しかしそれも、現在の自分の役割に応じた長さなのだと思えばべつに不満はない。

 

わたしは、今でこそ家事や生活のコツをブログに書いたりしているが、最初から得意だったわけではない。一人暮らしを始めたばかりの18、19歳ごろはほとんどセルフネグレクト状態であったし、それより前の、実家でヤングケアラーをしていたころも、決して要領はよくなかった。家事は、わたしにとっては勉強の邪魔をする煩雑なものでしかなかった。その考えが変わったのはやっと数年前のことで、人生を心地よく過ごすためには自分がなにを快適に感じなにを不快に思うかを見極める能力が必須なのだと悟り、快適な環境を自分に与える鍛錬としての家事に目覚めて現在に至る。我流でやろうとしてたくさん失敗してきたし、いろいろな生活用品を試したりしてずいぶん散財した(といってもせいぜい百均とかだが)。しかし無駄金ではないはずだ。試行錯誤の末に今のわたしがあるのだから。わたしにとって、家事を行うスキルは、これまでの人生で勝ち取ってきた盾のようなものだ。

とはいえ、しょせんわたし一人のためにしか役立たないスキルだと思っていた。わたし以外の他者の役に立つ機会があるとは、先生にお声がけをいただくまで思いもよらないことであった。わたしは先生の家で、ワンルームではない住居の扱い方を学び、二人分の家事の御し方を知り、スキルをさらに深化させることができた。一番の収穫は料理である。元いたアパートの簡易キッチンよりはるかに充実した設備を得て、ウィークポイントであった料理を研究する機会を得た。大したものは作れていないが、少なくとも毎日継続して自炊をすること自体に苦労はもうなくなっている。

 

共同生活契約を締結したあと、実際に引っ越す前に、先生がわたしに「役割は与えられるが、意味は(あなたが)自分で見い出すしかない」と仰ったのを憶えている。先生が負担している金銭的コストに見合うだけの価値がわたしにあるのかは甚だ自信がないが、少なくとも、この言葉には応えることができているのではないだろうか。意味は、ある。他者のためではなく、わたし自身にとっての意味が。

 

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2.ひとは誰に見せるでもなくても実に豊かな表情をあらわすこと

先生と暮らすまで、わたしは家族以外の人間と共同生活をしたことがなかった。一人の人間を長期に渡って定点観察するのは初めての経験である。だから、ごくありふれた日常においても人はこれほど表情豊かなのかと驚いた。先生の精神状態が、ありありと伝わってくるのである。朝起こしに行って「おはようございます」と言われたときの顔色ひとつ、夜「ただいま」と言われたときの声色ひとつで、疲弊の度合いを推測できるようになった。労働で疲労困憊しているときと、疲労困憊している上に精神状態も著しく悪いときは、様子がまったく違うのである。念のため書いておくが、疲れているからといって先生がわたしに当たり散らしたりしているわけでは決してない。そんなことは一度もなさっていないが、ただ、わたしから自然に察せられるというだけの話である。

もちろん、察せられた内容が的中しているかはわからないし、察せられたからといってなにか気の利いたことができるとも限らない。気の利いたことをするのはまた別のスキルである。そういうことは置いておいて、わたしはただ、人間が平時においても実に表情豊かであることを発見して驚いたのである。

 

3.気は、遣うより遣わないほうが難しいということ

上記の項目に関連する話だが、気遣いとは、するよりもしないほうが難しいということを知った。家事のような物理的なタスクとは違って、気遣い、つまり感情労働は、しようと思えば過剰なまでにできてしまうのがネックなのだ。先生の疲弊が伝わってくると、わたしは習い性のようになにかできることはないかと探してしまうが、先生としてはそっとしておいてほしいだけであろう。上記の通り、わたしが先生の精神状態をキャッチしてしまうのはもう仕方がないのだ。りんごが赤いことを知覚するなと言われても、りんごが隣にいる限り見えてしまうのと同じだ。シグナルをキャッチしてもあえて行動には反映させない、つまり、望まれていない感情労働をセーブするスキルが必要だと感じた。このスキルは、まだ完全に習得したわけではない。いまだ試行錯誤の途上にある。

 

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4.他者について書くことは暴力であるということ

この半年間、わたしは同居人に「先生」という、日常生活においてはそのようには呼んでいない仮の名前をつけて、たびたびブログ記事に登場させてきた。しかしこれは結局のところ同居人の二次創作のようなものであって、同居人の生身の姿とは似て異なるものだ。なにを書いてなにを書かないかの取捨選択はわたしの一存において行っているが、書かないと判断して切り捨てた部分もまぎれもなく同居人の一部なのである。わたしは同居人の一部を、たかが文章表現としての面白さのために排除しているのだ。他者について書くことは、ありのままの他者を受け入れる態度とは正反対の、暴力に等しい消費行為であることをつくづく実感した。もちろん、先生について少しでも触れた記事はすべて先生に検閲していただいているし、先生が書かないでほしいと言ったことは書いていないし、できる限りの筋は通しているつもりだ。しかし、書くことの特権性・暴力性が歴然とある限り、先生の許しは本質的な「許可」にはなり得ず、「黙認」の意味しか持ち得ないと思っている。

それでも、罪悪感に押し潰されそうになりながらも、わたしは「先生」について書いてきたし、これからも書くと思う。わたしは物心ついたときから文章を書くことで自分の精神を慰撫してきて、それ以外の方法を持たない。これからもわたしは、先生の黙認に甘えつつ、細心の注意を払って書きながら、自分の中の化け物を御していくつもりだ。好き勝手書かれてもスルーしてくださっている先生には感謝しかない。

 

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5.愛と敬意が必要であること

愛というと語弊があるが、情というのももっと違う気がする。人と人が近しい距離で生きるにあたって必要な、友情なり恋情なり親子愛なり夫婦愛なり同士愛なり、なんでもいいが、なんらかの形の通じ合いのことを、仮に愛と呼ぶ。ノワール映画のバディみたいなドライな関係性であっても、最低限の信頼のようなものは必要だろう。そういう、広くポジティブな感情のことだ。これが必要であることは過去の人間関係の経験からして容易に予想がついていた。しかし、先生と暮らして初めて実感したのは、愛と同じくらい敬意も大切であるということだ。足りない能力を補いあう関係性は、ともすれば互いに搾取し搾取されるlose loseの関係性に成り下がるが、お互いへの敬意があればwin winに保っていられると知った。わたしは先生の人間性――能力、ではない。当然能力も尊敬しているけれど―― に敬意を払っているつもりだし、先生もおそらくはそのようにしてくださっている。広義の愛と、敬意あってこそ、われわれの関係は搾取的なものになってはおらずwin winを保っていられるのだと、わたしは感じている。

 

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6.愛と敬意があってもどうにもならないものがあること

これに関しては多くを語る必要はあるまい。当たり前だが、これさえあればやっていけるなんて魔法のようなものは存在しない。困難はただ困難として容赦なくのしかかってくる。乗り越えられるかはわからない。

 

 

 

7.先のことはわからないということ

この文章を書いている今は、2021年2月8日の深夜。耳を澄ませると、別室で寝ている先生の寝息が聞こえてくる。今日は眠れているようだ。静かな寝息を聞いているこの瞬間ばかりは、未来の夜もこのように穏やかであるようにと願わずにはいられない。せめて、夢の中くらいは。

先生は生存している。一寸先のことはわからないから、この言葉は、文字通り以上の意味を持たない。

まさしく、いきている。息をしている。ただひたむきに、日々を過ごしておられる。

 

先生は生存している。わたしも生存している。

わたしたちは生存していく。そうしていられる限り。

 

 

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