敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

鬱やADHD対策として組み上げた生活スタイルが、COVID-19対策としても適合している件。

 

 

 

短い日記です。掘り下げようと思えば長文にすることもできるが、不毛な顰蹙の売買をしたいわけではないので、いまは日記の体裁にとどめておきます。いずれ適切なタイミングで掘り下げてみたい。

 

タイトルの通りである。適合しちゃっている。ノウハウを生かせちゃってる。

 

当たり前だが、これはべつにわたしの手柄ではないです。わたしが社会人ではなく大学生であることや、少なくとも餓死することはない経済状況にいることや、過去にリモートワーク・リモートスタディの経験を積んでいることや、感染者の少ないド田舎に住んでいることなども大いにプラスに働いている。さまざまな幸運に恵まれたというだけの話だ。しかし、わたしの半径50センチの極めて私的な「生活」領域においては、精神的弱者としてこれまで積み上げてきた工夫が功を奏した局面が非常に多い。これもまた、一市民としての率直な実感である。

 

 

いわゆるADHD的な性質は、現代社会において不利なものであり続けている。だからこそ、ADHDは障害と呼ばれる。よく言われている通り、発達障害を障害ならしめている原因は社会システムのほうにあるのだが、システムは簡単には変えられないので、発達障害(的と規定された性質に当てはまる)者のほうを変えようとする。通院や服薬を促したり、せめてもと自立支援医療制度や精神障害者保健福祉手帳の適応にしたりする。

治療は、本質的には、社会のほうからわれわれに請うているものなのだ。社会の至らなさをマイノリティに皺寄せて、ありとあらゆるコストを背負わせているのだ。

 

このCOVID-19禍が、一過性の災厄なのか、今後何十年もわれわれの生活を強力に規定して大きなパラダイムシフトをもたらすものなのかはまだわからない。おそらくは後者が正解なのだが、具体的にどの程度の変化を強いてくるのかはまだ不明瞭だ。いずれにせよ、これが荒療治となって社会がよりバリアフリーに、よりユニバーサルに進化して、精神的弱者にも住みやすいものになる―― などと考えるほどわたしは楽観的ではないです。少なくとも、わたしの目の黒いうちはそんな明るい未来は来ないだろう。弱者は社会の変化によって救われ得るが、変化の最中に折衝部分で身体を引き裂かれ、摩擦熱に焼かれるのもまた、弱者のほうなのである。マイノリティは、生存戦略として、マジョリティ側の価値観を少なからず内面化しているものなのだから(これも、具体例を書くと長くなるので、漠然とした表現にとどめておきます)。社会が変わるときには常に、弱いものからふるい落とされ、殺されていく。よりよく生きることすら、弱者には許されないこともある。なお、「よりよく」の「よく」の部分に含まれる文脈は非常に多岐に渡ります。「より正しく」とか「よりリベラルに」とか言い換えることもできるが、ここもあえて漠然とさせておきます。

 

 

それでも。それでも、いまわたしが、自分の半径50センチのごく狭い領域において、過去に培ってきたノウハウを生かしてささやかな満足感を得ているように。ほんの少し、ほんの少しは期待してもいいだろうか。社会が(“わたしたち” にとって)いい方向に変わると、期待してもいいだろうか。許されるだろうか。これはわたしだけの希望ではなく、わたしの大切な友人たちを想うにつけても願わずにはいられないことである。

 

 

社会がよりよい方向に進化することを、わたしは願っています。

わたし自身がその変化に救われるとは、必ずしも思っていませんが、それでも願っています。なんらかの期待もしています。

以上、曖昧な日記でした。

 

 

逆光のカメレオン。