敏感肌ADHDが生活を試みる

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父のこと

最終更新:2023.8.16

 

 

 

 

 

介護施設で暮らす父と最後に会ったのは2020年のことである。そのときすでに父の病状は悪く、ほぼ一日中人工呼吸器をつけていた。人工呼吸器を外して会話ができる体調である時間はごく短く、貴重だった。そんな一分一秒を争う時間、文字通り命を削って息をしている時間に、苦しい息の下から、父は、子にかける言葉として、「ご先祖様に感謝して生きろよ」という一言を選んだ。最期の対面になるであろうことは、父も勘づいていたと思う。それでも、命をかけて絞り出した最期の言葉は、おのれのことでも子のことでもなく、イエのことだった。3年後の2023年8月、父は死んだ。

 

 

 

父と同居していた18年間、ことばを発することを許されずに育てられてきた。

あの家で女として生まれたからには、意志を発露することは許されない。それでも、物心ついたわたしの頭は、一人前にものを考えはじめる。生まれ出でたわたしの思考を、創造主であるはずのわたしは常に押し殺し、無かったことにしてきた。そうしないと生きていけない場所だったから。家は、祖父と、祖父の忠実な下僕たる父の独裁政権下にあった。わたしの一挙手一投足はわたしが動かしていいものではなく、父の命令に従って操作するべきものだった。

 

わたしの鬱は、18年間そうやって脳に負荷をかけ続けてきたせいだと、今ならわかる。

あまりにも長い間、おのれの思考に蓋をしすぎた。無理な方向に負荷をかけられた脳は、今や傷だらけなのだろう。

 

 

 

しかし、家でこういう苦しみを抱えているのは、女性を割り当てられたわたしだけではない。生家とそれに連なる家々では、男性とて決して尊ばれているようには見えなかった。表面上は大切にされていても、それは「跡取り息子」「大黒柱」「家を繋ぐ種馬」としての厚遇であって、決して人格そのものを尊重されているわけではない。あのイエでは、男性には「父親の息子」としての生き方しか用意されていなかった。彼らは「愛する女性の夫」にも「子どもの父」にもなりきれない、ましてや一個人として意志を認められた人格でもない、ただ彼ら自身の「父親の息子」でしかなかった。社会的役割ばかり求められて人格を尊重されない苦しさは、決して女性だけのものではなかったのだ。女として生まれた苦しみと男として生まれた苦しみは切り離せるものではなく、ましてや対立するものでもない、同じ毒に根差した表裏一体の悲哀なのだと、今ならわかる。父だけではない。祖父や曾祖父も、そのまた父や祖父や曽祖父から不条理な扱いを受けてきたであろうことは、容易に想像がつく。

父はよい夫でもよい父でもなかった。われわれ3人家族は、とうの昔に「解散(これは母の言葉である)」していた。父の言動は、「夫」にも「父」にもなりきれず、徹頭徹尾「祖父の息子」としてしか生きられなかった男の、やむにやまれぬ悲鳴だったのだろう。

 

わたしは父を、「祖父の息子」であることを強制され続けた被虐待児として捉えてはじめて赦せた気がする。わたしは父を憎悪し、父も、思い通りにならないわたしを罵った。わたしが初めて殴った人間は父だった。わたしたち父子の仲はもう修復できないが、わたしは父を赦す。父を、祖父を、代々の「家長」たちを。彼らとわたしは、同じものに苦しんだ仲間だったのだ。

 

 

 

わたしにはことばが必要だ。

頭のなかに生まれた思考を二度と否定せず、自分で受け止めてあげるための、内なることばが。べつに誰に聞かせるためでもなく、わたしがわたしの想いを聴いてあげるための、わたしだけのことばが。

 

ことばが毎日溢れてくる。ことばに翻弄されている。溢れることばに溺れないように、今はただ、精一杯立ち続けている。