敏感肌ADHDが生活を試みる

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オーバードーズ(OD)で劇症肝炎を発症して生存確率25%を宣告された話(2)入院生活編

 

 

 

夕方の空。

 

 

入院5~8日目 3月17日~20日

前回の記事の続きです。

 

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入院後しばらくは、母と交際相手が待合室に詰めていて、面会時間のたびに顔を出してくれた。交際相手は家族ではないので本来は入室できないのだが、特別扱いをしてもらっていた。家族だったら堂々と面会できたのにね、と話をし、彼はベッドサイドでプロポーズの真似事をした── 「私はあなたのことを一生愛すので、結婚してください」。

彼とは退院後も3年半付き合ったのちに、別離することになる。今はよい友人の一人である。

 

また、(1)に書いた元交際相手も駆けつけてくれた(面会はできず)。わたしはこの元交際相手を振って交際相手と付き合いはじめたことになるので、彼らは対立してもおかしくない立場であったが、わたしという存在を共通項として奇妙な友情を育んでいたようだった。母によると、二人は頭を並べて待合室で寝泊まりし、親しげに会話していたという。元交際相手はわたしがHCUにいることを知らず、見舞いの品として菓子折を持ってきていた。当然ながら食べ物の持ち込みは不可なので気持ちだけありがたくいただくことにして、母と交際相手と元交際相手の3人で食べてもらった。

元交際相手も、わたしから家族関係の悩みを聞き知っており、やはり母を糾弾した。なにを言ったのかは知らないが、交際相手よりもさらにきついことを言ったようで、母は面会時間にしょげていた。子どもが生命の危機に瀕している上に、見知らぬ男二人から過去の子育てを責められる初老女性、あまりにも可哀想である。

 

この数日間、母と交際相手と元交際相手は基本的に待合室で寝泊まりし、たまにシャワーを浴びに母はわたしのアパートへ、交際相手と元交際相手は自宅へ、時々帰っていたという。母が実家を離れている間、身体障害者の父は入院することになっていた。しかし、身勝手なところのある父は、「やはり自宅で過ごしたいから帰ってきてほしい」と母に電話をかけたらしい。それに対して母は、交際相手の談によると「病院中に聞こえるような声で怒鳴って」、子どもが危篤状態のときくらいおとなしくしろ、と父を叱ったという。父はいわば、都道府県の境を越えて「オレの飯は?」をやったことになる。母から話を聞いて、さすがあの人は期待を裏切らないと思ったものだった。彼はいわゆる毒親というやつである。

なお、これらの父の言動は、のちに母に別居を決意させる一因となった(1年後母は、嫌がる父を施設に入れて家を出ることになる)。

 

この間も血漿交換など諸々の治療は行われていたと思われるが、記憶は定かでない。高熱や吐き気が続いていて、身体があまりにもつらく、ものを考える余裕はなかった。簡単なメモだけでもいいから取っておけばよかったと、この記事を書いている今は後悔している。

この時期に起こった出来事を箇条書きで記録しておく。時系列は曖昧である。

 

・看護師による、OD時の心情・動機の聞き取り。医師にはすでに話していたが、再度話すように求められた。話しながらうっかり泣いてしまい、気遣われた。

・大学の担当教員の面会。休学届を持ってきてくれ、休学することになった。

・病院のカウンセラーとの面談。以降退院まで、1日1回面談の時間が設けられた。

・ベッドに横たわったままでの洗髪。

・肝臓食の開始。おかゆではなくいきなり白ご飯だった。

・食事開始に伴う、歯磨きの開始。

 

血液検査の結果は、3月17日AST582、ALT1557、LD373。3月18日AST228、ALT698、LD219。3月19日AST79、ALT331、LD193。

 

 

 

入院9日目 3月21日

熱と吐き気がましになって、ものを考えられるようになったのは、8日目か9日目のことだったと記憶している。当時のインフォームド・コンセントの記録にも、生命の危機を脱したことが記録されているので、体感とも一致する。

 

インフォームドコンセント。

 

肝機能 改善傾向

 

治療が随分辛かった 今本人に再度行動する気はないという

 

ステロイドの内服 まだそれなりの量を飲んでいる

外来通院にはまだもう少し

 

一般病棟 監視の目が減る 行動を起こす可能性

状態的にはお母さんは【実家のある県】に戻っても良いのではないかと考える

 

どこでもう少し管理を続けるか

 

血液検査の結果は、AST21、ALT212、LD157。

このころには、体調の悪さよりも退屈に苦しむようになっていた。HCUはもちろんスマホ等は持ち込み禁止である。できれば一般病棟に移りたかったが、結局最後までHCUにいた。医師からは、ステロイドの副作用として免疫力が下がっていて易感染状態にあるからHCUにいたほうがよい、との説明を受けた。真実は、インフォームド・コンセントの記録にある通り、再び自殺行動を起こすことを懸念されていたのだが。

 

交際相手は、このころに面会を禁じられた。元々家族以外の面会は禁止であったところを、わたしの命が危ない間は特別扱いで面会を許してもらっていたわけで、病院の方々には感謝しかない。

面会ができなくなった代わりに、母を介して手紙のやり取りをするようになった。ODから退院までの出来事を、わたしはおおむね平常心で思い出すことができるが、一連の手紙だけは今も平常心で見ることができない。

手紙の一部を、交際相手の許可を得て引用する。

 

手紙。

 

もう貴方に多くは望みません。貴方が無理だと言ってくれたら諦めます。ただただ、貴方には生きて欲しい。うつのまんまでいてもかまいません。ただ私のご飯を美味しいと笑ってくれる。それだけで私は幸せなのです。

今回、貴方が苦しみながらも生きたいと言ってくれた、それが唯一の救いです。

 

手紙の内容は、他愛もない日常の報告から、互いの心の内をさらけ出したものまで、多岐に渡った。彼には深く感謝している。

 

退屈を紛らわせるために、母に頼んで本の差し入れをしてもらった。選んだのは、漫画の『シグルイ』全15巻と、北方謙三版の『水滸伝』全19巻である。既読なのであまり頭を使わずに気楽に読めて、かつ暇を潰せる程度に長編ということで選択した。最初から最後までなるべくゆっくり熟読し、さらに自作小説に使えそうな語彙をメモしたりして(当時わたしは大学の文芸部で時代小説を書いていた)、暇潰しにいそしんだ。

 

 

 

このころ、母や看護師さんから、実は死にかけていたことを明かされた。看護師さんいわく、「血液検査の数値が悪すぎて二度見した」「癌の人の数値かと思った」「もはや死んでた」そうだ。

ベッドサイドにテレビが設置されたのもこのころだったと記憶している。とくに頼んでいないので、看護師さんが気を利かせてくれたのだと思われる。HCUでもテレビが見られるとは知らなかったので驚いた。大部屋だが、周囲の誰もテレビなど見ていなかったからだ。

 

 

 

HCUの愉快な仲間たち

ここで、わたしが退院までを過ごしたHCU病棟の様子について書いておきたい。

A総合病院のHCUは16床の大部屋である。わたしはナースステーション正面の、部屋全体を見渡しやすい位置にいたのだが、見たところベッドは常時ほとんど埋まっていた。1日2日滞在してすぐ出ていくのは若い人が多く、ずっと同じベッドで入院しているのはお年寄りがほとんどだった。

 

ベッドの左隣には、認知症の高齢女性がいた。もちろん、正式に認知症であると聞いたわけではなく、わたしが勝手に認知症っぽいと思っただけだが、仮にそう書いておく。この女性は、ある日の昼食時に、「夢の中でさわらとわらび餅をいただいたからお昼はけっこうです」と言い張って看護師さんを困らせていた。「でも●●さん、それは夢の中でしょ」「はい、お昼はけっこうです」「だから、夢の中なんでしょ。お昼食べなきゃだめよ」「はい、さわらとわらび餅をいただきました」……延々と要領を得ない会話が続いており、正直面白かった。とはいえ看護師さんの苦労は察するに余りある。

 

右隣の高齢男性もまた、認知症のようだった。男性は、ある夜「財布が盗まれた」と騒ぎ出し、暴れて看護師さんの脇腹を蹴り、身体拘束をされた。拘束されてからも、深夜3時ごろまで「警察を呼んでくれえ」「泥棒がいるぞ」と叫んでいた。また、わたしがナースコールを鳴らすと、ナースコールの音をパトカーのサイレンと勘違いしたのか、「おーい、こっちだぞ」「ここに泥棒がいるぞ、早く来てくれえ」と叫ぶので、なるべくナースコールを鳴らさないようにした。

男性は1週間ほどでHCUを出て行った。暴れていたのは最初の数日だけで、最後のほうは静かだったので、男性なりに自分の状況を把握できたのかもしれない。

 

認知症の高齢男性のあとに入って来た高齢女性も認知症のようだった。この女性は、声だけ聞くと非常に元気そうだった。お習字やお茶の厳格な師匠を思わせる、実にしっかりした明瞭な発声で、「こんなところに閉じ込めて! 人権侵害ですよ!」「こんなことが許されるんですか!」「患者にだって権利があるんです! 今すぐ出してください!」「家で息子が待っているんです!」と、看護師さんに訴え続けていた。しかし、看護師さんの話を聞くに、彼女はその息子の勧めで入院してきたのだというし、息子はとっくに独立して家を出ているというではないか。女性が消灯時間を過ぎても叫び続けるので、まず主治医が呼ばれたが、主治医の話にも耳を貸さないようで、ついに息子に電話がいった。電話越しに息子と話した女性は、不承不承に入院を承知したようだったが、0時を過ぎるとまた「帰らせてください、出してください」と叫びはじめた。わたしにお茶を持ってきてくれた看護師さんの話によると、息子と電話したことはもう忘れてしまった様子だという。

その後も女性が「帰らせてください」と叫び続けていると、なんと、わたしの左隣の女性(夢でさわらとわらび餅を食べた人)が、「どうぞ、お帰りください」と返事をしはじめたではないか。「帰らせてください」「どうぞ、お帰りください」「帰らせてください」「どうぞどうぞ、お帰りください」……これには看護師さんも笑っていた。看護師さんが左隣の女性に「●●さん、返事しなくてもいいのよ」と言うと、女性は、「だって、誰かお返事してあげないと気の毒じゃない」と返答していた。「帰らせてください」「お帰りください」の応酬は深夜2時ごろまで続いた。

そんな右隣の女性も、2、3日後にはすっかり静かになっていた。叫ぶのをやめたばかりか、看護師の問いかけにも返答しないようになっていた。わたしがCT検査のためにベッドごと移動したときにそっと覗いてみると、声の若々しく矍鑠とした印象に反して、ごくごく普通の小柄な老女が鼻に管を通されて死んだように眠っていた。あるいは、諦めが彼女の最後の気力を奪ったのかもしれない。

さわらとわらび餅を食べた左隣の女性は、ある日点滴を勝手に引き抜いて出血を起こして看護師さんを慌てさせていた。

 

叫んだり暴れたりしないほかのお年寄りたちも、皆それぞれに老いによる不具合を抱えているようで、食事の介助が必要な人もたくさんいた。昼間寝てしまう人が多く、看護師さんはベッドを巡回しつつ「昼寝ちゃうと夜寝られないでしょ」と起こして回っていた。これではHCUというより介護施設だ。

 

そんなわけで、わたしはほぼ唯一の、長期入院かつ意識がしっかりしている患者のようで、看護師さんたちには特別親切にしてもらった。看護師さんの手が空いているとき(もちろんそんな時間はごくたまにしかないが)は話しかけてもらい、映画や本の話で盛り上がった。採血ついでに世間話をしていく人、ほかの患者さんの愚痴をこっそり言ってくる人もいた。周りの人が叫ぶから夜寝にくいでしょう、と気遣われ、本当は21時消灯なのに、24時まで枕元の電気をつけて本を読んでいいことにもなった。これは非常にありがたかった。なにもお返しできないがせめて手のかからない患者でいようと思い、お茶を要求するタイミングは手の空いているときを狙うなど、なるべく気を遣うようにした。

なお、別の病院のER(救命救急室)に勤務している医療従事者の友人いわく、「自殺未遂者は、余計な仕事を増やしたということで影でボロクソ言われる」らしい。わたしだって影ではなにか言われていたのかもしれないが、表面上親切に接していただけたらそれで十分である。

入院中、看護師さんの態度で悲しい思いをすることは一度もなかった。

 

 

 

入院10日目~

入院10日目を過ぎたころから、身体はめきめき回復に向かっていた。まず導尿カテーテルが外れ、ベッドサイドの簡易トイレを使えるようになった。まもなく、HCU内のトイレに歩いて行く許可が下りた。2週間近く寝込んでいた脚は、ちょっと歩くだけで小鹿の足のようにぷるぷるした。筋肉が減ったことを実感し、ベッドの上でせめてもの筋トレとして足の曲げ伸ばしや上げ下げなどをするようになった。

食事は肝臓食が出ていた。おかゆでなく最初から白ご飯であったが、咀嚼がややつらく、相談しておかゆに変えてもらった。

食事にはメニュー表がついており、一部を持ち帰っていたので、参照しながらメニューの一例を記録しておく。

 

朝 おかゆ・みそ汁・かぼちゃ煮付・たいみそ・ヤクルト

昼 おかゆ・てり焼魚・おろし大根・菜の花の酢みそ和え・フルーツ・デザート

夜 おかゆ・回鍋肉・ポテトサラダ・デザート

 

朝 おかゆ・みそ汁・山芋の煮つけ・味付のり・ヤクルト

昼 おかゆ・豚肉ソテーきのこソースかけ・添野菜・かぼちゃ煮付・フルーツ・デザート

夜 おかゆ・煮魚・つけ合せ・酢のもの・デザート

 

朝 おかゆ・みそ汁・酢のもの・ふりかけ・ヤクルト

昼 魚のバター焼・添野菜・和風春雨の酢のもの・デザート・おやつ

夜 おかゆ・若鶏の塩麹漬焼き・添野菜・ラタトゥユ・フルーツ

 

ざっとこんな感じである。味についてはコメントを避ける。一番美味しいのはおかゆでした。

また、朝は希望すればパン食に変えられることを退院3日前に今更知り、最後の2日間はパンにしてもらった。

 

導尿カテーテルが入っている間はベッドの上で洗髪と清拭をしてもらっていたが、カテーテルが外れてからは別病棟の風呂に入ることができた。

 

HCUを出て少しだけ歩くことも許可され、看護師さんについてもらいながら院内を散策した。車椅子の高齢女性と一緒に屋上に出て陽の光を浴びたこともある。その日は比較的忙しくない日だったのか、看護師さんが3人ほどついてきて、小一時間ほどベンチで雑談をした。看護師さんは女性にも話しかけていたが返事はなかった。この女性も長期入院患者で、「ずっと長男のお嫁さんが見舞いに来てる。長男さんは全然顔を見せない」のだという。

 

 

 

退院

退院日が決まったのは、入院16日目のことである。その週の末の、4月1日と決まった。入院期間は計19日間。生命の危機があった割には早い。

入院前半は身体のつらさで、後半は退屈で、早く退院したいとばかり思っていたが、いずれ、病院にいたほうがましだったと思うことになるのだろうなと予感していた(実際、その通りになった)。病院では自分の身体のことだけ考えていればよかったが、外の世界ではそうもいかないのだ。

退院日はよく晴れていた。入院したころはトレンチコートを着ていたのに、もう半袖Tシャツでもいいくらいだった。月日の流れを実感した。

支払いは、高額療養費制度を利用したことで非常に安価に済んだ。5万円程度だったと記憶している。

 

死にかけたからといって人生観が激変するわけでもなく、ぬるっと入院してぬるっと退院した。現実なんてこんなものであろう。

人生観は変わらなかったが、人生は変わった。母は、交際相手たちの話を通じてわたしの悩みを初めて知ったことで、父との関係性を再考しはじめ、ついには別居を決断するに至った。「こう言うと語弊があるけれど、あんたが倒れてくれていいきっかけになった」そうである。父母の別離はわたしにとってなによりも喜ばしいことなので、思わぬ僥倖であった。母が決断したことで、わたし自身も退院後、父に立ち向かう勇気を持つことができた。

 

以上が、わたしのODの顛末である。

改めて、わたしを救命してくれ、そして今なおCOVID-19への対処に尽力しておられるであろう医療従事者の方々に感謝申し上げます。

 

 

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