敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

家父長制の加害者側であった日々のこと

 

 

 

原初の記憶において、わたしは家父長制の加害者側であった。少なくとも意識の上ではそうだった。

 

最初の加害者意識は母に対してであった。物心ついたときから、母はわたしがいるせいで家を出ることができずに父に虐げられているのだと思っていた。母は男と結婚して子どもを産むことを義務として内面化していたが、内面化していただけで、明らかに本位ではなかった。母は、母というペルソナをついに習得することができないまま子どもの巣立ちを迎えたようにわたしには見える。母とわたしや今や親友のように文学の話や映画の話で盛り上がることができるが、一つ屋根の下で暮らしていたときはそうではなかった。母もまた若かった。当時40代の母を、今20代のわたしが若いと評するのはおかしいかもしれないが、当時の母は若かったと、今となっては思わざるを得ない。時代に影響され、自分のために使える時間などただの1秒たりともないような状態で(これは比喩ではない。田舎の、閉鎖的な気風の家に嫁いで、自営業をやり、半身不随の夫を介護するとはこういうことである)、ただただ日々のタスクに押し流されていたから、母は、さまざまなエピソードから垣間見える生来の明晰さからすると不思議なくらいに、自分自身の感情に向き合うのが下手だった。わたしは物心ついたときから、母はいずれ家を出ていくだろうと確信していたが、母自身がおのれのその欲望に気づくのはもっとずっとあとのことだったと後年知る。わたしが、母は本当は今すぐにでも出ていきたいけれど子がいるから当面は我慢して将来的には出奔を計画しているに違いないと思い込んでいた間、母自身はとくに将来のことなど考えずなんとなく家事をしていたそうだ。であればわたしはべつに加害者でもなんでもなかったことになるが、仮に母が自分の欲望に早く気づいていたとしたら、まさにその状態(子どものせいで家に縛られる状態)になっていたであろうことは事実なので、やはりわたしは加害者なのだ。だから、わたしとフェミニズム的概念との出会いはひどくアンビバレントなものであった。物心ついたときには、母がひどく理不尽な生活を強いられていることは理解できたし、その理不尽が母が生まれた女という性や母親という役割に因することも肌でわかった。わたしは母を愛していたから、母を解放したかった。家に縛られずに自由に生きてほしかった。しかし、母が家を出るということは、父をわたしが一人で介護することを意味していた(未就学児のわたしの中ではそうなっていた)。わたしは父とは本当に反りが合わず、父と一緒に過ごすくらいなら自分が死んで楽になりたくらいだったから、それはとても耐えられないことだった。よって、母が鎖に繋がれ続ける状態を是認するしかなかったのだ。父の介護をあれこれ手伝いはしたが、あくまで「お手伝い」の域に留まるものだったと思う。母を解放することと、父を介護することは、わたしの中では交換条件であって、わたしは後者を選ぶことはとてもできなかった。父の近くにいるだけで全身がやすりがけされるような強烈な違和感が生じ、動悸がし、喉がつかえ、呼吸が浅くなり、凍りつき、希死念慮に支配されるほど、父とは相性が最悪だった。今思えば、さまざまな要因で、PTSDのようなことになっていたのかもしれない。ガス抜きのような僅かばかりの「お手伝い」をしながら、白々しい「お母さん、いつもありがとう」の言葉をかけ続けるしかなかった。労わったところで代わってやる気もないくせにどの口が言うのだと内心思っていた。わたしは家父長制にあぐらをかいて母を虐げる罪人だった。なにをしていても、わたしの幸福の裏には母の犠牲があるのだと思っていた。

 

 

 

母がついに家を出て一人暮らしを始めたのは2018年のことである。揉めた、という言葉ではとてもとても表現しきれないほど揉めに揉めたあと、介護施設に入所することを父が了承したのである。介護を専門家に任せることは、母の負担を劇的に減らしたのはもちろんのこと、父の容態にもポジティブに作用した。父は最後の最後まで在宅介護を望んでいた。それは単なる病人の我儘ではなく、家父長としての生き方しか知らない父のアイデンティティはまさに家そのものであったからで、父は父で被虐待児同然であったのだと今なら理解できる。しかし父の気持ちはともかく、疲弊しきった素人である母のケアよりも、専門家のケアを24時間体制で受けたほうが身体にいいのは当然である。父と母はそれぞれに精神的な余裕を取り戻し、夫婦仲は改善した。少なくとも一時期のように、母が父を殺して自殺するかといった状況ではなくなった。

 

 

 

2018年に、母を見殺しにしていた幼いわたしはその罪ごと死んだのだと思う。身体まで死んでしまわなかったのは運と巡りあわせである。

2019年以降、わたしはケアとフェミニズムについて新たな知見を得る。今は、介護が必ずしも抑圧的な営みであるとは思っていない。母が一方的に気の毒なだけの無力な存在だったとも思っていない。2020年にひょんなことから「先生」の家に流れついてからは新たな実践と書物による理論的支柱も得るが、それはまたべつのお話。今日のところはここまで。

 

 

 

2023年8月、父が亡くなったときの話はこちら。

 

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