敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

ツイートログ002

 

 

 

夜のビル。

 

Twitterで、思い出したかのように唐突に連ツイすることがあります。独立したブログ記事にできるほどはまとまっていないので、集めてひとまずストックしておくことにしました。自分用の思考メモです。Twitterのサービス停止に備えた手動ログ構築でもあります。

ツリーそのままの書き起こしではなく、若干の誤字訂正や加筆修正を加えています。

 

 

母の新聞投稿

母の投稿が新聞に載ったから見て。これが、生家の壮絶な虐待を生き延び、嫁ぎ先では30余年間「家」に虐げられても魂の自由だけは護り抜いた女性の文章だ。

 

映画「NY公共図書館」

 先日、■■にて「NY公共図書館 エクス・リブリス」というドキュメンタリー映画を見た。3時間余りの長丁場ながら、退屈なシーン皆無で、人間の息吹が感ぜられる内容だった。

 図書館の立ち位置や、いかに市民に還元できるか…を心砕きつつ熱いカンファレンスに、なるほどと思うこと多々あり。

 格差は図書館にもあるのだ! 誰もが自由にネットを操れるわけではないのだ(かくいう私もそのうちの1人)。

 ガルシア・マルケスの読書会の様子は殊に面白く、彼のファンである私は、一気に映画と自分との距離が縮まった。

 図書館はある意味、自分の年齢を忘れさせてくれるところではないかと思う。何の本を手に取っても誰もとがめはしない。大好きな場所でもある。

 今回、このような素晴らしい上映に携わった方々、図書館関係の方々に心から敬意を表したいと思う。ありがとうございました。

 

わたしの父は、母に、携帯メールアドレスを持つことも、運転免許を取ることも許さなかった。車社会の田舎で、これがどんなに個人の自由を制限することか!それでも、母が家事の合間に図書館に行くことは制限できなかったんです(長居すると激怒してたけど)。まさに、図書館は自由のための武器庫。

父は、身体障害者で半身不随だったんですね。身体が動かないからこそ、言葉の暴力でもって母を支配しようとした。決して悪人ではない、憐れむべき男でした。母は60歳を過ぎてからついに家を出て、今は自由を手にしています。本を読んでいた子産み女たちが、イモータンジョーから逃れ得たように。

 

元ツイ 2019年12月3日

 

 

 

共感

自分自身が生身の人間であると、生身の人間としてものを語っていいのだと気づかせない構造にはまっているのなら、苦痛を共有することで連帯するme tooの叫びは、うるさいワガママとしか感じられないだろうな。We are not things!  のweに含まれているのは決して女性だけではない。生まれながらに自由意志を抑圧され洗脳され、権力構造の意のままに使い捨てられる男性の悲哀も、『マッドマックス/怒りのデス・ロード』はちゃんと描いていたはずなのだが。一部の勇気ある男性によって、男→男や女→男のハラスメント等、男性が受ける被害や抑圧の実態が徐々に語られつつありますが、追随するのは簡単ではないはず。第一段階として口を開くこと自体へのハードルがいきなり高い。男性のジェンダーロールには、苦痛を表明するムーブが実装されていないのでは。
女性のme tooは、苦痛を知覚することができたならそれを共有し共感を得ることまでがスムーズなワンセットとして可能で、積み上げた連帯は抑圧の打破へ向かうエネルギーとなり得る。しかし男性の場合、連帯に至るまでに打破しなければいけないものが多すぎる。むしろそっちが本丸。

 

ちなみに、これはまた別次元の問題ですが、共感・連帯をエネルギー源とする一部のオンラインフェミニズムには個人的に危うさを感じる。一部界隈の排斥傾向は、シス女性への差別にはツルッと「共感」できたのにトランス女性へのそれには「引っかかった」から生じたんじゃないかと思うので。マイノリティであればあるほど、マジョリティはその実像を「知らない」し、当然「共感できない」。共感を旨とする運動は、共感できない対象に対して容易く排除へ向かう。人間の共感能力には限界がある。勉強は決して怠るべきではないが、個々のケースを知り尽くすのは実質不可能だからこそ、「多様性」という広義の概念に落とし込んで理解し、共感できなかったとしても尊重することを、マジョリティは知恵として持っていなければならない。

フェミニズムは女性間の共通性を示すものではなく、むしろ、女性一人ひとりが人格を持った個人であることを知らしめ、女性間の差異を示してきた、とは元来言われていますが。今この日本のインターネットで、隣国のベストセラーの主人公をもじって “私たちもキム・ジヨン” というハッシュタグが生まれた背景とは。

 

マイノリティは声を奪われてきた。だから、「わたしたちにはことばが必要」で、勇気をもって吐露された体験は貴重な「エビデンス」として伝播する。その「声」は個々人を奮い立たせ、結果的に連帯させもする。連帯は、差別構造を変える力になり得るけれど、ともすれば連帯できない者の排斥にも転ぶ。その果てにあるのは、女性蔑視と同性愛嫌悪で連帯してきたホモソーシャルによく似た荒野だ。

当たり前だが差別は構造が作るのであって、属性が作るのではないのだから。ある男性がセクシストだとしたら、それは筋肉やペニスがそうさせているのではなく、社会構造がそうさせているのだから。

 

元ツイ 2019年6月7日

 

 

 

他人事

人と人がわかりあえないのは、幸せなことだと思ってる。われわれが愚かであるばっかりに、わかりあえなさがトラブルを生んだりもするけれど、本来ならば、人のため社会のために必要なことだよ。

究極、自分ごと意外のことは全部「他人事」ですやん。他人事なのは悪いことではない。他人事だからこそ持てる勇気、他人事だからこそ回る知恵、他人事だからこそ生じる愛がある。でしゃばりと遠慮の狭間に生じた無責任な感情と行動の集まりが社会を作り、われわれ一人一人を支えている。

われわれはエスパーに生まれなかったね。クローンでもなかったね。どうしようもなく隔たった他者の集まりとして生まれてしまった。この動かせない事実を、不運として片付けるか幸福として有効活用するかは、われわれの生き方にかかっているんじゃないのか?

 

元ツイ 2019年7月11日

 

 

 

自分の鬱

わたしは、自分の鬱が個人的なものだとは思っていない。個人の感情はしばしば、社会全体の課題と地続きだ。非・個人的な、いっそ政治的なものだ。そこにおいてのみ、わたしがわたくしごとを記述することには意味がある。連帯と治癒を目的とした自己開示は、もう必要としていません。

ライフヒストリーや属性が、ものを語る「資格」として作用する向きには反対ですが、語りたいことの前提条件として自己開示が必須な局面が多々あり、難しいところですね。

 

元ツイ 2019年8月17日

 

 

 

希死念慮

じゃあ、低気圧が去ってお腹いっぱい食べてぐっすり寝ても消えないわたしの「死にたい」は何なんですか、あの人の「死にたい」は何なんですか、とは常に思ってるよ。希死念慮を器質の問題に収束させる考え方ってね、誰かを救う裏で必ず、別の誰かの心を土足で踏み荒らしてしまうんです。必ず。

他人様のもやもやしたネガティブな気持ちを、論理っぽいもので掻っ捌いて因数分解して筋道つけちゃう話法、じょうずな人はほんとじょうずですよね。わたしも、別にうまくはないですけど使ったことがあります。オフラインでもオンラインでも。でもこれって本当に傲慢で、暴力的な所業なのよ。誰かを勇気づけるまじないになったわたしの言葉は、その裏で、べつの誰かへののろいになっているはずです。

低気圧が去ってお腹いっぱい食べてぐっすり寝ても消えない「死にたい」を抱えて生きている。原因がわからないことは、当人の怠慢や自己理解不足のせいなんかじゃない。当人にわからんのだから他者には当然わからんし、そこを他者がむやみに腑分けするべきではない。これをすべての前提にしたい。つらいときに頭痛ーるを勧められて目から鱗が落ちるか、ぶん殴りたくなるか。もうそれはその二人にしかわからんのよ。その二人の問題なんよ。

希死念慮とか大抵はただの空腹感とか寝不足だしww 人間はしょせん肉体とかホルモンに振り回される生き物だしww 悩んでも無駄!服薬して寝ろ!!💪みたいな断定的な物言いはねえ、ある種のイキりだと思ってますよ。生きづらい生を生きることに慣れて、振る舞いが多少こなれてきた人間特有の。

言うまでもないことですが、誰の悩みが一番高尚か選手権をしたいわけではないです。

 

元ツイ 2020年10月8日

 

 

 

自立

「自立」できる額(仮に都内一人暮らしできる額としましょうか)を稼ぐことなんか、それを可能にしてくれる会社に入ってしまえば一瞬だったし、アルバイターだったわたしと今のわたしに「能力」差なんかあるはずもなく、運でしかないと堂々と言えるようになったから就職してよかった。

 

※もちろんわたしの状況だとまだ留保は必要。わたしは先生の広く快適な家に住んで、3口コンロの台所で自炊のモチベーションを保って健康的な食事をし、諸々セルフケアのインフラが整っているからこそこの額を稼ぐ力を保っているのかもしれない。1LDKに住んでいたら違ってくる可能性は大いにある。わたしの場合は「先生の家」が一番大きなアドバンテージだが、他にも「すぐ遊びに行けて英気を養える近場の都会」「メチルフェニデート処方可能な近場の精神科」「自立支援医療制度」「障害者控除」「友人・恋人の存在」などの恩恵も受けており、はて「自立」とはそもそも何なのかという気持ちになる。

さらに書いておくと、「先生の家」に住むなら精神疾患を抱える先生への感情労働は必須だし、「都会」に住んでいると満員電車や人混みなどは感覚過敏者には甚大なストレスだし、「精神科」はメチルフェニデート以外なんもいいところがないヤバ医だし、「自立支援医療制度」も「障害者控除」も手続きの煩雑さに比べると多額とは言えないし障害年金は貰えそうにないし、「友人・恋人」との関係を維持するのにも人付き合い特有のコストがかかる。生とはなんと多義的であることか!

 

元ツイ 2022年12月11日

 

 

書き手としてのプロフィール

書き手としてのプロフィールの類いを書くときにいつも思うことだけれど、メンタルヘルス分野に知識と経験があるとしてアピールポイントとしたいが、メールの返信が遅かったり締め切りを破ったりする人間ではないと思ってもらう必要もあるんですよね。

 

 

さまざまな葛藤の末に、今のわたしは、「持病に関しては、標準医療による投薬治療を受けており、ある程度は自己コントロールが可能です。お引き受けが難しい状態のときは自己申告できるので、遠慮なくご連絡ください」という一筆を選択しています。これが適切な文章なのかはわからない。レスポンスが遅かったり音信不通になったり締め切りを破ったりする「迷惑な」精神障害者と自分は違う、と言外にアピールしなければいけないんですね。これも、toxicな土俵に乗る行為ではあると思う。降りることはしない。

 

元ツイ 2023年2日