元ヤングケアラーだった、らしい。
ヤングケアラー、というアイデンティティを自らに見い出したのは、つい数カ月前のことである。歳上のお友達とお茶をしていて、流れでわたしの過去の話になって、その方の口からこの単語がまろびでたのだ。「そうか、呉樹さんはヤングケアラーだったんだね」と。
言葉としては、もちろん知っていた。
「ヤングケアラー」とは、慢性的な病気や障がい、精神的な問題などを抱える家族の世話をしている、18歳未満の子どもや若者のことである。
家族の誰かが病気や障がいのために、長期のサポートや看護、見守りを必要とし、そのケアを支える人手が十分にない時には、未成年の子どもであっても、ケアの役割を引き受けて、家族の世話をする状況が生じる。
しかし、自分に当てはめて考えたことはなかった。意識して、当てはめないように気を配っていた、と言ってもいい。
理由は二つある。
まず一つには、一般的なヤングケアラーの事例よりもわたしの負担はずっとずっと軽かったからだ。義務教育修了後、高校にも大学にも行けた。生きていくのに足りるだけの金銭的投資を受けた。恋愛や結婚の選択肢が狭まるような体験はしていないし(就職に関しては多少揉めたが、押し切ることができた)、これからすることもないだろう。
もう一つの理由。わたしが生家で得たトラウマの根本的な原因は、介護の苦労それ自体ではなかったからだ。
我が家の要介護者は父であった。彼の病名をここに書くことはしない。たしか、今も昔もネット上に書いたことは一度もないはずだ。重度の身体障害者であったとだけ言っておく。とはいえ、父と母とわたしの三人が別居を選択し、(母親の言葉を借りるなら)「家族解散」をするに至った原因は、父の病それ自体ではなく、彼の人格的な問題点にあった。もちろん父だけではなく母にも至らない部分はあったし、わたしたち三人はどうしようもなく不完全な人間たちで、どうしようもなく相性が悪かった。水が油をはじくように、わたしたちは生活共同体であることをやめたのだ。
わたしたち家族が抱えていた問題は父の病のせいであると、事情を知らない他人に思われるのが嫌だった。わたしがそう思っていると思われるのも嫌だった。本当に、身体障害それ自体のせいではなかったのだ(ではなんのせいだったのか、なにが悪かったのかは、今は書かない)。身体と精神の違いはあれど、わたしもまた障害者として生きているのだし、そんなわたし自身の実存にかけても、心身健常でないことそれ自体が短絡的に諸悪の原因にされるのは許せなかった。他者に介助されて生きる生の在り方を貶めるような言説には、絶対に乗りたくなかった。だから父の病名は滅多に他人には明かさないのだ。わたしの語り口の未熟さ迂闊さのせいで、ただでさえマイノリティである●●病患者自体が白い目で見られるようなことは、万が一にも起こってほしくなかった。
とはいえ。
父の精神面が問題だったとはいえ。介護自体の苦労も、それはそれとしてたしかにあって。数カ月前のあのとき、自分で思うのではなく他人の口から聞いたこの単語は、思いのほかスムーズに、初めて聞いた言葉みたいに、わたしをやわらかく貫いたのだ。
そうか、わたしはヤングケアラーだったのか。
家族は結局ばらばらになってしまったけれど、過去のわたしは、わたしなりに頑張っていたのか。そうだったのか。
***
一昨日の夜、久々に父親の声を聴いた。
幻聴とは違う。実際に声が聞こえるのではなく、いま父親に呼ばれた、父親のそばに行かなければ、という義務感だけが脳裏に閃くのだ。生家で実際に父親に呼ばれたときそのままの、強烈な生々しさで。
初めての現象ではない。生家を出て一人暮らしを始めたばかりの頃は、何度も体験した。
久々だったので、叫び声を噛み殺すのに失敗した。
別室にいた先生が気づいて、わたしの部屋に来て、黙って手を握ってくれた。
以上、脈絡のない自分語り。今はまだ、わたしによる、わたしのためだけのことば。いずれ、ケア労働をすることされることの考察に繋げて、もっと拓けたことばで捉え直すつもり。共有する意義がある情報として書き直すつもり。それを見据えて、前準備としてこうやってインターネットの海に放流しておくわけだけれど、これ単体では、単なる昔話。今はまだ。
結論も書かないまま筆を置く。自分語りには結論など必要ないから。