はじめに
この文章は、2017年3月、わたしが21歳のときに行ったオーバードーズ(OD、過量服薬)の体験記である。軽症で済むことも多いというODだが、タイトルの通りわたしは劇症肝炎(急性肝不全)を発症して生存確率25%を宣告されたのち、生還した。そこそこ珍しいケースを体験した者として、当時のことを思い出しつつ記録に残そうと思う。なお、わたしは医学の素人なので医学的な記述の正確性は保証できない。
後遺症もなく生還できたのは医療従事者の方々のおかげである。今もCOVID-19への対処で忙しくされているであろう医療従事者の方々への感謝を込めて、前書きとしたい。
なお以下では、題材の性質上、自殺志願者の行動を克明に言語化している。さして生々しい心情描写などはないが、閲覧は自己責任でお願いいたします。
OD当日
死のうと思い、薬局へとある市販薬を買いに行った。
薬の名は伏せる。問い合わせも受け付けない。なぜその薬を選んだかとというと、OD経験が豊富な友人が、何気ない会話の中で「これは致死率高いと思う」と口にしていた名前だったからだ。それをわたしは記憶していたのだ。
彼とて、こんなことになるとは思わなかっただろうし、 責任を感じさせてしまうことがないように、このことは内緒にしていた。なぜ今ネットに書くのかというと、当の彼が2019年に亡くなって、読まれる心配がなくなったからだ。なお、彼の死因はODではなく縊死である。
わたしは生き延びて、彼は死んでしまった。 不思議なものである。
ODの話に戻る。薬局の帰りにラーメン屋に寄ってラーメンを食べた。空腹で薬を飲むよりも吸収がよさそうだと思ったからだ。また、胃内容量を多くして、嘔吐からの吐瀉物による窒息死の可能性を高めたかったのもある。
飲めるだけ飲むつもりで飲み始めて、最終的には約120錠を飲んだ。薬局で買った薬のほかに、手元にあった市販薬36錠もついでに加えて、最初は水で飲み、最後のほうは飽きて冷蔵庫にあった甘酒で飲んだ。これらの行動のせいで、後年わたしは甘酒とラーメンの匂いを嗅ぐと吐き気を催すようになる。
ベッドに横たわると、30分経たずに眠気が押し寄せてきた。吐き気も頭痛も、不快な症状はなにもなかった。安心して目を閉じ、意識を失った。2017年3月13日、14時ごろのことであった。
入院1・2日目 3月13・14日
ODから約5時間後の19時ごろ、当時の交際相手に発見され、近くの総合病院に救急搬送された。交際相手の話によると、救急隊員の問いかけ(名前・生年月日等)に不明瞭ながらも返答していたらしいが、一切記憶に残っていない。のちに目覚めたときに、枕元の名札に記されたわたしの生年月日が間違っていたのは、わたしが不明瞭な返答をしたからかもしれない。わたしは9月20日(はつか)生まれだが、名札には9月2日(ふつか)と書いてあったのだ。
救急隊員は交際相手から、わたしが精神科に通院していることを聞いて、わたしが普段飲んでいる精神科の薬を尋ねたという。しかし交際相手はそれを知らなかった。そこで交際相手は、わたしの元交際相手 ──われわれは一度だけ3人で食事したことがあった── にLINE通話をかけて尋ねた。交際相手は健常者であったが、元交際相手はわたしと同じ鬱病を患っていたため、薬の情報交換などもしているかもしれないと踏んだのだろう。結果、事態は元交際相手の知るところにもなった。
診療明細書には、意識を失っている間に胃洗浄が行われ、薬用炭30gとマグコロールP 50gが投与されたことが記録されている。胃洗浄とは、鼻からチューブを通して毒物を胃から直接吸い上げる処置をいう。OD経験者なら聞き覚えがある人も多いことと思う。友人にも体験者がおり、非常に痛く苦しいと聞いていたので意識がないうちに済んだのは幸いであった。通常は、服薬から1時間以内に行うのが理想的で、時間が経過するほど効果が下がるらしい。わたしは搬送された時点で服用後5時間以上が経過していたのだが、目撃者がおらず服用時刻が不明であるために施術されたのかもしれない。薬用炭には中毒物質吸着効果があり、胃洗浄ののちに投与される。マグコロールPとは緩下剤の一種で、便の排泄を促し、活性炭と結合した中毒物質の腸内滞在時間を短くするために投与される。
覚醒したのは3月14日の午後だったと記憶している。
医療ドラマの影響で、患者の意識が戻ると大勢が駆け寄ってきて「●●さん! 聞こえますか!?」などと騒がれたり、懐中電灯で目を照らされたりするイメージがあったが、そんなことはなかった。ぬるっと目覚めて、すぐ隣でなにかの作業をしていた看護師が驚くでもなくぬるっと話しかけてきたと記憶している。話の内容は詳しくは憶えていないが、この場所が、A総合病院のHCU病棟であることは告げられたと思う。HCU(High Care Unit、高度治療室)とは、ICU(Intensive Care Unit、集中治療室)よりも重篤度が低く一般病棟よりも重篤度が高い患者が搬送される場所であることをあとから知った。
目覚めたときの体調としては、とにかく吐き気が酷かったのを憶えている。経験したことのないレベルであった。体調の悪さと、死にきれなかったショックで、わたしは泣き叫んだ。殺してください、死なせてくださいと何度も叫んだのを憶えている。現代日本の病院においてそんなことが不可能であることくらいわかっていたが、叫ばずにはいられなかった。いくらショックだったとはいえ通常の精神状態であればそんなことはしないため、やはりまだ普通ではなかったのだろう。自分でも、声が普段の声ではなく、うわごとめいているのを感じていた。枕元に少しえずいた。看護師さんが慌てて盆を差し出した。
当時わたしは地元を出て一人暮らしをしていたが、県外に住む母が来ていた。交際相手はスマホのロック番号も知っていたので、ロックを解除して電話帳を見て病院の方に電話番号を教えたものと思われる。
マスクと帽子を身に着けた母が入って来た。わたしはただ交際相手の名を呼び、会わせてくれと叫んだ。看護師さんが困った顔をして、HCUでは本来は家族しか面会に入れないことを告げた上で、特別に、ということで交際相手が入って来た。わたしが目覚めるまで母とともにずっと待合室で待機していた交際相手は泣いていた。彼の涙を見てわたしも泣きじゃくった。「どうして私が帰るまで待てなかったの」と問われ(ODした当時交際相手は実家に帰省していた)、ごめんねごめんねと言うしかなかった。
その時点ではわたしはまだ肝炎を発症しておらず、重篤な状態ではなかった。わたしが意識を失っている間に母に対して行われたインフォームド・コンセントの記録には、次のように記載されている。
救急車で搬送 お薬を大量に飲んだ
【薬の名前】120錠、【薬の名前】12錠、【薬の名前】24錠
先立った物【薬の成分】
量的に多いが特異な治療法なし
対症療法、痙攣が起きれば止めるお薬、血圧が下がるならあげるお薬など
基本的には呼吸や血圧に気をつけて目が覚めるのを待つ
血液検査値の異常が出るかどうかを見ていく
精神や脳の働きに影響が出るかどうかは不明(医学的データーがない)
身体的な問題がなくなれば退院(当院で精神的治療は医師不在のため不可能)
経過が良く、問題がなければ1-2日で退院となります
3月13日時点の入院診療計画書にも、入院期間は2日と書いてあった。
わたし自身も、薬が身体から抜け次第退院だろうなとぼんやり思っていた。なお、意識を失っていた間の処置について特段の説明はなされなかったが、枕元に炭の粉のような黒い顆粒が付着していたことから、胃洗浄と活性炭投与が行われたことは察していた。ちなみに、数日後に排泄した最初の便は黒色をしていた。
身体はまったく動かせなかった。意識を失っている間に身体抑制がなされていたからである。母がサインした身体抑制の説明書・同意書によると、抑制帯・安全ベルト・ハンドグローブ・抑制着・4点ベッド柵・体動センサーが取りつけられていたらしい。また、導尿カテーテルも挿入されていた。
入院1日目はこんな感じで過ぎていった。食事は出なかったが、吐き気で食事どころではなく空腹感もなかった。熱も出ていた。なお、どこかのタイミングでお茶を飲んだこと、酸素吸入がなされたこと、鼻から管を通されて胃液を吸引された(胃洗浄とは別に)ことを憶えているが、時系列が判然としない。単に4年前のことなので記憶が薄れているというよりは、錯乱していて記憶が混濁したような感覚がある。とにかく泣き叫んでいて、過換気にもなった。死なせてください、と何度も叫び、看護師さんが困ったように笑って「そんなことしたらうちらこれ(両手に手錠がかかっているポーズ)になってしまうわ」と言ったのを憶えている。迷惑な患者だったことだろう。
夜は吐き気でほとんど眠れなかった。時折飛び起きて、枕元の盆にえずいたが、なにも出てこなかった。
入院2日目 3月14日
一晩明けて、また血液検査が行われた。その結果に基づいて、母に対して再びインフォームド・コンセントが行われた。記録には以下のように記載されている。
自己での過量服薬翌日
目は覚めてきた ほぼ覚醒状態
肝機能の悪化(別紙の如く) 薬剤の影響と考える
特異的治療ない 安静と経過観察しかない
データーの経過を見るためまだ少し入院が必要
データーが改善の傾向が見られれば退院は考慮できる
対症療法継続 起こってくる症状に対して現在の医学で対処
その血液検査の結果というのが、以下のようなものであった。
いくつかの数値が正常値より低く(L)、いくつかの数値が正常値より高い(H)。わたしは医学の素人なので詳しくはわからないが、肝機能の悪化を示していると思われる。
なお、上記のうちAST・ALT・LDの3つの数値が、翌日に跳ね上がることになる。
この日も、母と交際相手が見舞いに来た。交際相手には、当時のバイト先と、数日後に遊ぶ約束をしていた友人への連絡を頼んだ。
母と交際相手は今回が初対面だが、それなりに意気投合して会話をしているらしかった。交際相手はわたしが実家との関係に苦しんでいることを知っており、わたしが打ち明けた悩みの一部を母にぶつけたらしい。子どもが自殺未遂をしたと聞いて駆けつけてみたら、見知らぬ男に過去の子育てをゴリゴリ責められる初老女性、あまりにも可哀想である。この日の夜、母はいったん実家に帰っていった。
相変わらず食事は出なかったが空腹感もなかった。飲み物も禁止され、湿した綿のようなものを口に含ませられるのみだった。
大量の点滴と導尿カテーテルは継続していた。身体抑制は解かれたが、点滴が数カ所に刺さっていたので相変わらず身動きは取れなかった。
このころ一番つらかったのは、足(膝下)が異常に重だるかったことである。なんとも表現しがたい不快感が膝下に充満していた。喩えるなら、足から吐き気がする状態であった。これが非常につらく、ベッド柵に足を打ちつけていた。痛みのほうがはるかにましであった。ナイフが手元にあったら躊躇わずふくらはぎを切り裂いていたと思う。ベッド柵に足を打ちつけていると看護師が来て、音が周囲の迷惑になるからやめてね、と言った。それでもやめられず、頻度と強さを落としてこっそり打ちつけ続けた。
ここまで、痛みらしい痛みが一切なかったのが印象に残っている。頭痛も腹痛もなかったし、肝炎を発症してからも最後まで出ることはなかった。それでも吐き気や足の吐き気(?)は十分につらく、痛みがなくても人は死ねるのだと思った。
この日最初の排便があったと記憶している。ベッドの上で金属の便器をあてがわれる方式であった。わたしは父親が重度の身体障害者で、おむつや尿瓶の世話なども経験して慣れていたためか、さしたる羞恥心はなくスムーズに排泄できた。ちらっと見た便は黒色をしており、活性炭が投与されたことに確信を深めた。
看護師さんはさすがプロフェッショナルで、わたしが自分でトイレで肛門を拭くときよりも少ない手数で拭き終わっていた。
入院3日目 3月15日
高熱と吐き気が継続していた。朝目覚めたものの、意識はやや朦朧としていた。何人もの医師と看護師がわたしを囲んでなにごとかを話し合っていた。母がまた呼ばれたらしく、「お母さん、今高速バスで●●(実家がある県と病院がある県の間らへん)だそうです」と看護師が言うのを聞いた。
母がまた呼び出されたのは、わたしの状態が急変したからであった。この日の血液検査の結果と、インフォームド・コンセントの記録は以下の通りである。
薬物過量服薬 昨日肝機能が少し悪いお話をしました
今日になってさらに悪化 10000を越える数字です
急性肝不全 劇症肝炎 重症
肝臓、意識障害、他臓器不全他
肝臓に対する治療 肝庇護剤 免疫抑制剤(ステロイド)
血漿交換 他
肝臓内科、腎臓内科など協力して集学的治療
生命の危険
医師は母に、「助かる確率は4分の1です」と告げたという。
以上のことは、当時わたしには知らされなていなかった。自殺が成功しかけていたことをわたしが知ったのは、生命の危機を脱したあとのことになる。
劇症肝炎を発症したわたしに施されたのは、血漿交換療法なる治療であった。
血漿交換とは、血液を血漿分離器で血球成分と血漿成分に分離した後に、病気の原因物質を含む血漿を廃棄して、それと同量の健常な血漿(新鮮凍結血漿)を入れて置き換える治療法である。診療明細書から察するに、わたしが受けたのは中でも単純血漿交換療法(PE)と呼ばれる療法で、体外に取り出した血液を血漿分離膜により血球成分と血漿成分に分離した後、分離した血漿を全て廃棄し、代わりに新鮮な血漿もしくはアルブミン溶液を補液として補充するものであった。
わたしは、肝臓内科医からこれらの説明を受けた。
肝臓内科医「肝臓の数値が13000で、かなり高いです」
わたし「(数値だけ言われても素人だからわからんなあ)正常値はどのくらいですか?」
肝臓内科医「知りたいですか?……30くらいだよ」
わたし「ワロタ(それは高いですねえ)」
本当は肝移植をしたほうがいい状態だが、自殺未遂者にはできない決まりになっているとも言われた。
この日から、今まで診てくれていた救急科の担当医だけではなく、肝臓内科医も主治医のような形で毎日来るようになった。
血漿交換療法を行うにあたって、中心静脈カテーテルと血液透析用カテーテルが挿入された。それぞれ導入にあたっての同意書が残っている。記憶の中でも、このとき、首・鼠径部・足首・腕の実に4カ所になんらかの管が刺さっていたのを憶えている。首のカテーテルによって、寝返りが不可能になったのが苦しかった。下手に動くと大出血しますよと注意されていた。
1回目の血漿交換では、アレルギー反応が出た。まず、猛烈な寒さ。毛布をかけてもらっているのに、歯の根が合わないほどの震えが止まらなかった。布団乾燥機のような器具が足元から差し込まれ、温風が送り込まれた。次に、膝下に蕁麻疹のような発疹が生じた。痒みは酷くはなかったが、これほど広範囲に一気に生じるのは初めてで不気味だった。これには特段治療法がなかったようで、ヒルドイドローションを塗ってもらった(なお余ったヒルドイドローションは退院時に進呈されたので顔に塗って消費した)。
血漿交換は、時間を置きつつ計4回行われたと記憶している。
入院4日目 3月16日
相変わらず血漿交換を行っており、身動きすらままならない状態が続いていた。また、足に血栓防止のためのマッサージ器具のようなものを取りつけられた。足を包んでいる布が、血圧計のように膨らんだりしぼんだりして、足に定期的に圧をかける仕組みである。なお、入院2日目に起こった足のだるさはこのころには消えていた。
当時のインフォームド・コンセントの記録は以下の通り。
重症急性肝炎 劇症肝炎
血漿交換を行っています
ステロイド療法を行っています
全身状態を整えるべくいろいろな事を行っています
今日の検査値は昨日より良い傾向です
血漿交換:輸血でアレルギーが出ました
アレルギーを抑える薬を使いながら血漿交換を行っています
昨日お話ししたように中止にせざるを得ない場合もあります
本人共々良くなるように頑張っています
血漿交換療法に加えて、どこかの段階でステロイドの内服が始まったが、記憶は定かではない。なんだかんだで毎日10錠以上は薬を飲んでいたと思う。
血液検査の結果は、AST3209、ALT4749、LD1822。
次の記事に続きます。
※参照したウェブページ
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