敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

近況:孤独について。書けなくなった記事について。

 

 

 

幼いころは、人間関係が楽しいものであるという発想がなかったから、友だちが少ないことやいじめや両親の不仲は、わたしの内的世界を乱すストレス要因ではあったがそれ自体を嘆くことはあまりなかったし、一人で本を貪って音楽を聴いて映画を観ているのがなによりも幸せだった。しかし、10代も半ばを過ぎると、行動範囲が広がって友だちが増えてきて、心底楽しいと思える出会いも得て、わたしは初めて孤独を知った。人と深く繋がる喜びは常に、相対的な寂しさとともにある。おのれの寂しさの解像度は、幸福な邂逅を得るごとに上がっていった。親友と言葉を交わしながら、恋人をかき抱きながら、わたしはかつての孤独を見い出し、弔う間もなく失っていた。心底嬉しい言葉をかけられて初めて、ああ自分はずっとこう言ってほしかったのだと気づき、あたたかな皮膚に頬をうずめたとき、ずっとこうしたかったのだと気づく。わたしに気づかれることなく孤独に耐えていたかつての自分は、泡雪のように消えていく最後の姿しか、今のわたしに見せてはくれない。目の前の友によって、恋人によって、それは報われたのだから。もちろん、満たされるのも報われるのもしょせん幻覚ではあるが、人間関係によって得られる幸福な幻のひとつであろう。

 

なお、このように他者の存在でかりそめ癒される孤独もあれば、そうではないものもある。しかしこの内なる孤独は、わたしという人間の奥深くに不可分に在るものであって、いかなる外部刺激にも左右されないぶん、かえってつきあいやすいとも言える。薬物治療の対象であったり、認知の歪みとして矯正すべきものであったりするわけではない(と思っている)。寂しさに言い換えられる孤独は人と繋がりたいという欲望を生み、行動を起こさせ、結果的に解消されることもある。しかし、表面的な友人の有無等に左右されない、根本的な孤独感、疎外感はそうではない。なにがあっても消えることはない。とはいえ、捨て去りたいとは思わない。少なくとも、今のわたしは。

 

 

 

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引っ越したことで、近所に友達がいなくなった。同じ都道府県内で少し足を伸ばせばいるけれど、自転車で気軽に行き来できる距離ではない。また、それができる社会情勢でもない。COVID-19の流行以来、人と会うという営みは、防疫を考慮して厳戒体制で敢行する一大タスクとなった。今のわたしはそのような一大事に耐え得る精神状態ではないので、自発的に人を誘うことはなく、先方からの誘い(ありがたいことである)も一旦断らせてもらって、進んで沈黙に身を置いている。同居人の体調がいいときは同居人との間に会話が発生するが、そうでないときは、一日のやり取りが十往復程度に収まることもある。掃除や洗濯などは同居人の意向を問う必要がないので、わたしの裁量で勝手に行う。食事ができそうなら用意をする。食後、同居人が服薬するのを目視確認する。風呂を沸かし、わたしが先に入っておく。同居人が入るかどうかは、基本的には同居人任せだ。もちろん、毎日欠かさず入るのが望ましいが、それは当人も重々承知しているだろうし、わたしがせっついたところで負担が増すだけだろう。わたしの役割は、いつでも入れるように浴室を掃除して湯を張って準備をしておいて、入浴のハードルを少しでも下げておくことまでだと認識している。

 

 

 

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わずかな会話と会話の間にある時間を使って、自分の勉強をしている。今季はすべてオンライン授業である。ひたすら聴講し、テキストを読み、メモを取り、調べ、参考文献を読む。もちろん自分の趣味の本も読む。この家に来てから読書量が増えた。自分の孤独と向きあう時間が増えた、と言ってもいい。

最近のアウトプット(ブログ記事もその一部だ)の様子が少し変わった。具体的にいうと、私的な心情を綴ったものが増えたと思う。実用的な生活改善の記事は、書けなくなった。なぜかというと、今やわたしの生活は同居人のものでもあるので、生活状況を文章化する作業において同居人の存在を切り離せなくなったから。あえて曖昧な言い方に留めておくけれど、円滑なルームシェアを維持するのに不可欠な「適度な距離感」が崩れかねない気配を感じたのだ。よって、今は無理にアウトプットするのをやめておくようにしている。生活改善自体は、今まで通り行っている。先生と相談しつつ、あれこれ試行錯誤している。それはそれで大いに楽しい。ただ、それを文章の形で再構築する作業だけが、今まで通りとはいかなくなった。これはわたしの心の問題なので、いずれわたしの中で落としどころが見つかるだろう。急ぐことはないので、待っている。

 

他者とわたしは、独立した存在二つとして助けあうことができる。逆に言うと、それ以外の形で一緒にいるのは難しい。

わたしはもっと自己完結したい。孤独はわたしを研磨して、硬質な球体にしてくれるだろうか。

 

 

青い鉱石。

 

 

秋晴れの土曜日、ふと思い立って家を出て、近所の喫茶店で、オンライン授業の休憩時間にこれを書いている。そろそろ18時になるので、スーパーに寄ってから帰る。先生が待っている。今日の夕飯は、鶏肉のバジル焼きである。昨夜の残りの、鱈のトマト煮込みと、サラダをつけるつもりだ。