参政党による「発達障害は存在しない」との言説は、深刻な無知に基づく暴論ですが、問題はそれだけではありません。この言説は、奇しくも同じことを血反吐を吐きながら思索してきた当事者・支援者たちの蓄積を軽んじるものであるという点で、人文社会科学の根幹を否定する暴挙であるといえるでしょう。「発達障害は存在しない」とは、ある面においては、まったくの誤謬であるとも言い切れません。なぜなら、発達障害とはそのすべてが生得的に固定された不変の「病名」ではなく、社会的・文化的文脈の中で形成され意味づけられてきた側面があるのは事実だからです。現代において発達障害と診断される人々は、脳に多数派とは異なる神経発達をきたしています。神経発達多様性それ自体には善悪も優劣もありません。しかしその特性が社会環境とミスマッチを起こしたときに、初めて「障害」として顕現します。持って生まれた認知的・行動的特性が社会という場と噛み合わなかったときに、人は「障害者」として名指されるのです。このような障害理解は「社会モデル」と呼ばれ、日本においては法的にも明文化されています。2004年に超党派の議会立法によって制定された発達障害者支援法には、発達障害が環境との相互作用の中に現れるという原則が明記されています。
第二条 この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。
2 この法律において「発達障害者」とは、発達障害がある者であって発達障害及び社会的障壁により日常生活又は社会生活に制限を受けるものをいい、「発達障害児」とは、発達障害者のうち十八歳未満のものをいう。
3 この法律において「社会的障壁」とは、発達障害がある者にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。
(平成十六年法律第百六十七号 発達障害者支援法 第一章総則より抜粋。太字は引用者による)
発達障害とは、静的な病名ではありません。発達障害は、われわれの社会が誰を「正常な者」とし、誰を「逸脱した者」とするか、その基準を写し出す鏡のような概念なのです。
人類の歩みの中で、制度としての障害は常に社会との関係において定義されてきました。たとえば18世紀西洋では、自慰行為を行った者がべドラム(王立ベスレム病院/イギリスにある世界最古の精神病院)に収容された例があります。当時「狂気」は不道徳の結果であるという価値観に基づき、無職者や浮浪者などもべドラム送りにされて懲罰的な扱いを受けていました。言うまでもなく、現在では自慰行為を行うことは病とはみなされません。あるいは、かつては弱視の視覚障害者であったであろう人々が、眼鏡という技術の普及によって障害者とはみなされなくなった例を思い返すこともできます。昔も今も、障害とされる概念は多かれ少なかれ社会的文脈によって定義されており、現代において発達障害はその歴史の最前線を往く例の一つなのです。
発達障害が社会環境に左右される概念である以上、ある環境では発達障害者として困難を抱える人が、別の環境では支障なく生きられる可能性はあります。環境次第で、個人のレベルでは「発達障害が存在しなくなった」と感じられることもある──こうした可変性・相互作用性は、発達障害の定義の一部であり、また本質でもあるのです。発達障害を語るとは、社会そのものを問う行為です。人を「障害者」にするのはなんなのか。その環境とは、社会とは、どうあるべきなのか。この社会は一体誰のためにあるのか。ままならない現実に轢き潰されながら、「狂っているのはおのれか社会か」と、一度ならず考え込んだことのある当事者は多いはずです。この国で発達障害者として生きるとは、社会そのものを問い直すことにほかなりません。個人の状態を固定的に「障害」とラベリングするとき、それは社会的規範への無自覚な合意を前提としていますが、発達障害者の苛烈な語りは時にその無自覚さ、暴力性を浮き彫りにします。現実問題、発達障害の概念は当事者の困難を可視化し、社会的支援の根拠となり、制度的な保障を提供する役割を担っており、当事者にとっては切実に必要なものです。その上で「発達障害は存在しない」と当事者や支援者の口から語られることがあるとすれば、それは自己否定でも、生ぬるい楽観でも、科学・医学の否定でもなく、この社会に対する痛烈な皮肉であり、問いかけなのです。
狂っているのは発達障害者か、それとも社会か。この問いに明確な答えは出ていませんが、発達障害と社会を巡る知的営為は、長年に渡って分野を横断して積み上げられています。医学、心理学、教育学、社会学、哲学といった諸領域に蓄積されてきた思索と実践を踏まえず、発達障害の存在そのものを否定することは、ただの暴言に留まりません。それは、数限りない過ちから学び続けてきた人類の歴史に反旗を翻す行為であり、いずれは発達障害者だけではなく、すべてのマイノリティに、すべての人々に牙を剥くでしょう。
【補足 サムネイルについて】
この記事のサムネイルは、現代アーティストのキャサリン・ジウォン・ギムの作品で、海外で用いられているADHD治療薬「アデラルXR」の写実画である。2025年4月に訪れた個展で撮影した。


2025年現在、キャサリン・ジウォン・ギム(Catherine Jiwon Ghim)の日本語情報は多くはない。前回の個展の関連記事やフライヤーによると、1983年生まれ、ロサンゼルス在住でソウル・メキシコシティ・ニューヨークを拠点に活動する独学のビジュアルアーティスト。多文化的バックグラウンドとジャーナリズムや経済学の経験を基に、アイデンティティ、欲望、消費文化などのテーマを親しみやすくも挑発的な視覚言語で表現する。
2025年3月から4月に開催された個展「禁じられた存在(CONTRABAND EXISTENCE)」展は、日本では未認可のADHD治療薬「アデラルXR」の写実画からなる。ニューロダイバーシティ(神経多様性)を祝福し、その「解決策」たる薬物による対処療法を批判的に捉え、生産性・同調性・達成という資本主義の規範に縛られた現代人の存在意義を問い直すもの。作家自身もADHD、ニューロダイバージェンスの当事者だそう。発達障害を障害たらしめる社会を生きることの葛藤と相克は、社会学や障害学の文筆としては頻繁に表現されているが、現代アートで真正面から取り上げたものに出会うのは初めてで感動した。2025年秋にも日本で個展が開催されるそうなので、必ず行くつもりだ。この国の政治状況は2025年4月の時点よりも悪くなっているが、それでも日々を生き延びていかねばならない。
キャサリン・ジウォン・ギム「禁じられた存在」展についてはYouTubeでもレポしているので、興味のある方はご覧ください。
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