1.文学フリマ東京41に新刊を出します
文学フリマ東京に今回も出店します。既刊2冊と新刊1冊を持って行きます。
イベント概要は以下の通り。
文学フリマ東京41
ブース番号:呉樹直己 さ41-42
日時:2025年11月23日(日) 12:00-17:00
会場:東京ビッグサイト(東京都江東区有明3丁目11-1)
東京臨海新交通臨海線ゆりかもめ 東京ビッグサイト駅より徒歩約3分
東京臨海高速鉄道りんかい線 国際展示場駅より徒歩約10分
イベント公式サイト:
Webカタログ:
既刊『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』は、過去記事でじっくり試し読みができます。通販ももうあります。
会場には、呉樹直己名義の本のほか、寄稿作品もいくつか並ぶ予定です。追って告知します。
そして、新刊のお知らせです。新刊タイトルは、『月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』です。
ご存じ、吾峠呼世晴の大ヒット漫画『鬼滅の刃』をクィアネスやフェミニズムの視点から読み解くもので、とりわけ、敵キャラの一人の黒死牟(こくしぼう)/継国巌勝(つぎくにみちかつ)に注目します。
画像1枚目、左から2人目の多眼の鬼が、黒死牟(人間時代の名前を継国巌勝)です
【グッズ情報】
— 鬼滅の刃公式 (@kimetsu_off) 2025年10月24日
「アニメイトガールズフェスティバル2025」
アニプレックスブースで販売する商品をを公開いたしました。
ufotable描き下ろしの鬼舞辻無惨と上弦の鬼たちがラインナップ。
事後通販からの新商品もお見逃しなく。
▼詳細はこちらhttps://t.co/WLOt3JPglM#鬼滅の刃 #AGF2025 pic.twitter.com/IrPOkWBCSq
『鬼滅の刃』は連載終了からすでに5年が経過しており、感想や評論はすでに数多く世に出ています。フェミニズム批評の層も厚いです。今さらなにを言うのかという感じですが、しかし自分が思い立ったときがベストタイミング。大人の遊びにおいて、車輪の再発明とのそしりは無作法というもの。自分が思う最高の車輪を作って楽しんじゃおう! ということで、生き恥を忍んでいかせていただきます。
本書の大きな特色は、批評エッセイと二次創作小説が並置されていることです。
わたしが本書で試みたいのは、継国巌勝の考察であるとともに、「正統」な批評的発想力と「邪道」な二次創作的想像力の境界の問い直しです。
『鬼滅の刃』を読んでいるほうが内容を理解しやすいのは無論ですが、未読の方でもなるべく楽しめるものを目指します(ただしネタバレには配慮しません)。
価格は現地価格2500円、BOOTHでの事後通販は2800円です。経費増大により、価格差をつけざるを得ませんでした。別記事でも説明しています。
前回・前々回同様、文フリ現地では障害者割引を実施します(文フリ公式とは無関係の、呉樹直己ブースのみでの試みです)。障害者手帳ユーザーは会計から500円引きになります。性善説運用の自己申告制とし、手帳の提示は不要です。
デザインは前作に引き続き、ライター/デザイナーのTakitoh Haruさんに作っていただきました。ありがとうございます。


執筆実績更新しました!!働かせてくださいhttps://t.co/3xP4XLXZgt pic.twitter.com/U864szVzlj
— Haru Takitoh / kani_pepsi (@kani_pepsi) 2025年10月8日
ちなみにこちらがTakitohさんにお渡ししたラフ。

それではさっそく、本文サンプルです。序文・目次、序章、第一章二次創作パート、第一章エッセイパート、第三章エッセイパートを全文公開しています。
序文・目次・第一章が、本書の序盤になります。
第三章のエッセイパートは、継国巌勝登場巻のあらすじに触れた部分が多いので、『鬼滅の刃』未読の方が読んでおくと参考になると思います。
2.本文サンプル
月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集
序文・目次
序文
継国氏之国 領主
産屋敷家当主指揮下 鬼殺隊 月柱
鬼舞辻無惨指揮下 十二鬼月 上弦之壱
父
夫
息子
兄
侍 そして剣士であった
継国巌勝氏に捧げる
目次
序章
第一章 継国巌勝と産屋敷家当主──職業殺人者による、最初ではない殺人としての父殺し
第二章 継国巌勝と妻──国家は嫡男の性を支配する
第三章 鬼舞辻無惨と黒死牟、継国巌勝と継国縁壱──ヤングケアラーの記憶
第四章 鬼舞辻無惨と黒死牟──鬼化と第二次性徴。あるいは炭治郎に並ぶ「ケアする長男」による、描かれなかったもう一つのケアワーク
第五章 鬼舞辻無惨と黒死牟──鬼というユートピアとネオリベラリズム
第六章 鬼舞辻無惨と黒死牟──嫡男の身体はトラウマを記録する
第七章 継国巌勝と妻、子──戦国武家のSRHR《性と生殖に関する健康と権利》
第八章 継国巌勝と継国縁壱──自己決定するからだ
第九章 継国巌勝と継国縁壱──嫡男の青春
第十章 鬼舞辻無惨と黒死牟──赤い月夜のあとに
第十一章 鬼舞辻無惨と黒死牟──身体性の喪失
第十二章 鬼舞辻無惨と黒死牟──ラストサムライ、豊臣氏滅亡を目撃する
第十三章 黒死牟と童磨──もし上弦の壱と上弦の弐が入れ替わりの血戦をしていたら
第十四章 黒死牟と童磨──身体性の回復
第十五章 鬼舞辻無惨と珠世──女鬼という境界人(マージナル・ウーマン)
第十六章 童磨と胡蝶しのぶ──偶像の初恋
第十七章 継国巌勝と妻、黒死牟と獪岳──愛について 剣鬼のアイデンティティと欲望
第十八章 黒死牟と獪岳──鬼として、地獄を尽きなく生きること
第十九章 継国巌勝と妻──戦国武家のPOTENTIA GAUDENDI《悦びの力》
第二十章 継国巌勝と獪岳、無惨、時透無一郎、妻、縁壱──鬼、そして男というアイデンティティ
終章
終式 月魄最佳
あとがき
奥付・著者既刊紹介
序章
本書『月魄最佳──鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』は、吾峠呼世晴による少年漫画『鬼滅の刃』の二次創作小説計二十本と、二次創作を起点とした批評風の文章からなるエッセイ集である。少なくとも体裁はこの通りである。キャラクター名をタイトルに冠した同人誌の前書きとして、筆者であるわたしの個人的なことを長々読ませるのはまったく求められていないことと承知しているが、書かねばならないので書く。
思えばわたしはずっと、誰に求められるでもなく書いてきたブログや自主制作本においても、ライターの名義で金銭と引き換えに書いた寄稿原稿においても、自分のことばかり語ってきた。それはおおむね「エッセイ」として分類・消費される形態であり、中央の「男性的」な価値基準を満たす「批評」と比べると、厳密な検討の俎上には良くも悪くも上らない、カジュアルなジャンルであった。そしてエッセイは、男性的でないからこそ、「男」ならざる者の手軽な表現手段として多く選ばれてきた。それこそ、近年は市場として飽和し、内容もマンネリ化しているほどに多く。現在、経済的価値においては、エッセイは批評の上を行く。批評は嫌われ者である。批評的な営みは、「考察」や「言語化」といった異なる語句での言い換えが試みられたり、それら異なる語句との差異が論じられたりしている。一連の議論もまた、批評の対象として共有され、批評される。本書執筆時点、二〇二五年十一月の文筆者コミュニティの様相は、このようなものである。
わたしが抱くエッセイなるジャンルへのアンビバレントな感情は、ここでは掘り下げない。しかし今回、自身三冊目となる自主制作本でわたしが二次創作小説という、オリジナルエッセイよりさらに劣る(とされている)、法的見地においてすらも後ろ暗くお天道様の下を歩けないようなジャンルを選択したのは、われながら必然的だったと感じる。高尚とされるものよりも、くだらないとされるものに惹かれる人生だった。くだらないとされるものがどうしようもなく内包する批評性・社会性・政治性を暴き立てることに、わたしはなによりも昂る。これは、「書きたい」という大概下劣な欲望の中でも、とりわけ野蛮な類いの欲であるが、実際湧いてくるのだからどうにかうまく付き合っていくしかないのである。太陽の下を歩けないわたしは、さながら鬼である。鬼は人間に劣る外道の罪人だが、鬼になったからこそ見やすくなる景色もあるはずだ。
では、早く継国巌勝の話題に移るためにできるだけ手短に、わたしの個人情報を語っていく。わたしの名前は呉樹直己という。一九九五年に女性として生まれた。阪神淡路大震災とオウム真理教地下鉄サリン事件でわが国が揺れ、海外においては北京でアジア初の世界女性会議が開催され、ヒラリー・クリントンが「人間の権利は女性の権利であり、女性の権利は人間の権利である(Human rights are women's rights and women’s rights are human rights.)」と演説して喝采を浴びた年である。そんな年にわたしは女性として生まれ、女性として育ち、典型的な女性としての性分化を遂げた。しかし、割り当てられた女性というアイデンティティをついにわがものとすることができず、二〇二二年三月、都内某所のGID科の門を叩き、テストステロン投与を開始した。テストステロンの注射は、一般的にはトランスジェンダー向けの男性ホルモン治療と呼ばれるものである。その薬効は、多彩な身体的・精神的変化をわたしにもたらした。しかしわたしは、自分を完全な男性だと思っているわけではなかった。男性に同化することを望まない、性同一性障害の診断書も取得しないままの、「曖昧な気持ち」でのホルモン治療は自己責任で、どのような結果になろうと誰も責められない。この病院は内科を標榜しているが、自由診療に力を入れており、提供メニューにはダイエット薬や水素水点滴などの胡乱な項目が並ぶ。ホルモン治療も、自由診療の一環として胡乱な治療に並んで提供される。カウンセリングなどの専門的なGID医療・ケアは提供されない。この病院で行われているのは純然たる、資本と薬効の等価交換であり、医師すらも治療の結果には責任を持たない。完全なる自己責任による身体改変を、本書執筆時点で三年八カ月続けていることは、わたしに自己責任論者としての性向を逃れがたく植えつけた。
男性ホルモン治療に踏み切った直接的な動機・目的は声の低音化であり、まもなくそれは叶った。ゆるやかな変化であったからはっきりいつとは明言できないが、遅くとも二〇二三年春、ホルモン治療を始めて一年を待たずして声は現在の低さで安定をみて、わたしは一応の満足を得た。しかしその後もわたしはGID科に通い続けた。テスチノンデポー125ミリグラム、持続型男性ホルモン製剤筋注。一本二二〇〇円を月二本。到底贖えぬほど高価というわけではないにせよ、交通費含めて安くはない金銭的コストを負担してでも(追記1)目的外の貪食を続けた理由は、ひとくちには説明できない。
ただ、知りたかった。
男とはなにか。
男として生きるとはどういうことか。
自分と男を隔てるものはなにか。
アイデンティティにおいても生活実態的な意味においても男ではない自分であるにもかかわらず、いや、男ではないからこそ、この問いは抗い難い吸引力でもってわたしの生に立ち現れた。三年八カ月に渡るホルモン摂取は声以外の部分をも変えた。性欲が昂進した。肌コンディションが格段に悪くなった。もとから整っているとは言いがたかったものの、おおむね二十代女性のものとして通ったであろう肌理と滑らかさを保持していた顔面の肌は、今や隙間なく吹き出物に覆われ、開ききった毛穴は赤らみ、皮脂でぬらついている。濃くなる体毛、強くなる体臭。それによって「男性的」な雰囲気に変化すること自体は喜びであるが、変化一つ一つのネガティブな面は、望んだものではない。
『鬼滅の刃』は、そんな男性ホルモン投与による変化がことさら動的な初期に近いころに出会った作品であった。『鬼滅の刃』は、勇敢な少年少女が、人を喰らう化け物である鬼と戦うアクションファンタジー漫画である。鬼は、元々は人である。人間が、始祖の鬼でありラスボス・鬼舞辻無惨に血を注入されると鬼に化生し、人肉を喰らうようになる。鬼は人より圧倒的に身体能力が高い。高位の鬼は血気術なる妖の術すら用いる。弱点は特殊な刃物で頚部を切断されることと、太陽光を浴びることのみ。そんな圧倒的強者の化け物に、主人公・竈門炭治郎をはじめとする少年少女が熱いバトルを挑んでいく様子は社会現象的なブームを引き起こし、コミックス累計発行部数は現時点で二億二〇〇〇万部を突破。アニメ化作品も、日本アニメ史上に残る記録的ヒットを叩き出している。そんな漫画をわたしは、二〇二一年末に読み、年明けて二〇二二年の三月に男性ホルモン治療を開始した。その過程で、いつしかわたしは以下のような解釈をするようになった。
鬼に化生するとは、男性性を纏うことである
この思いつきは、わたしのおかれている現実にあまりにもフィットしてしまった。わたしはテストステロンを喰らって、この社会においては「男性」に割り当てられる容姿その他の雰囲気にわが身を近づけている。それはさながら鬼に化生することと感じられた。女に生まれた身で男性ホルモンを喰らうことは、身体を「異形」に変貌させ生まれの器を遠ざける。しかし未知の領域に踏み込む活力にもなる。現行社会では明らかに悪に類する行動であり、当人以外には到底理解しがたいが、当人にとっては生存に肉薄したやむにやまれぬ行動である。あまりにも、鬼化のメカニズムと似ていた。なお、男性ホルモン治療が「現行社会では悪」であるといえる理由は、まずそもそも社会システムとしての男女二元論を脅かす背信行為であるということが一点。加えて、今やトランス医療は医療リソースの浪費および道徳的優位性の簒奪とみなされるということが一点。最後に、男のみを人間と認める社会では悪を為し得る主体性すらも男性に集約されているため、男性に近づくとはしばしば悪性(あくしょう)を纏うことと同義になるというのが一点である。
そのような感想を抱いた以上は、わたしが継国巌勝という鬼に興味を持つのは当然の流れであった。
継国巌勝。最強の正義の剣士・継国縁壱(つぎくによりいち)の双子の兄でありながら、鬼舞辻無惨に下った裏切り者。無惨直属の幹部鬼の序列一番・上弦の壱の鬼「黒死牟」として四百年以上君臨し、無惨に次ぐ最強格の敵として主人公サイドを苦しめた鬼。彼は思えば、鬼になるまでもなく人であったころより、兄というアイデンティティを最もやり損ねた人物であった。
『鬼滅の刃』の世界において家族関係・血縁関係は唯一無二の尊い絆とされ、感動的なドラマを伴って描写されることが多い。しかし一口に血縁関係といっても、親子関係と兄弟姉妹関係では扱いが大きく異なる。親子関係においては、子を虐げる親の概念は普通に存在するし、接し方の不適切さの程度も、軽微な不人情から殺意を伴う暴力まで相当バリエーション豊かに描かれる。後述するように、兄弟姉妹関係がほとんど特権的に感涙のドラマのみを与えられているのとは対照的である。
『鬼滅の刃』における、子を虐げる親の例は枚挙にいとまがない。主人公(人間)サイドだと、たとえば栗花落カナヲの親と伊黒小芭内の親はそれぞれ、子の生命を奪う寸前まで苛烈な虐待を行い、子のパーソナリティにしっかり後遺症を残している。とりわけ栗花落カナヲの、「常時穏やかに微笑んでおり、およそ自分の意志や主体性というものがなく、なにも自分で決められないからすべての決断をコイントスに任せる」という性格描写には非常に痛ましいものがある。
不死川実弥・玄弥兄弟の父親も、妻子に苛烈な家庭内暴力を振るい、実弥は自身の暴力的傾向が憎い父親からの遺伝なのではないかと悩む。
虐待はしていなくても、親もまた完璧ではない一人の人間であるがゆえに、子に深い傷を残してしまう父母もいる。たとえば恋雪の母は、病弱な恋雪の介護に疲弊して入水自殺する。病児にとってこれほどつらいことはないだろう。そんな恋雪とのちに交情する少年・狛治もまた、自身の行動がもとで父親が縊死してしまった自死遺族である。孤独な少年少女は傷つき凍えた心身を温め合うように恋に落ちるが、やがて悲劇が二人を引き裂く。狛治・恋雪は『鬼滅の刃』の人気カップルの一つであり、かれらの恋愛模様を詳細に描いたパートを含む劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』は、本書執筆時の二〇二五年十一月時点で興行収入三七〇億円超の特大ヒットを叩き出している。
鬼サイドの親もさまざまな事情により、子どもを慈しめない者が多かった。上弦の陸・妓夫太郎と堕姫の母親は、吉原遊廓の遊女であったため、子どもは仕事の邪魔でしかなかった。上弦の弐・童磨の両親は新興宗教を営んでおり、童磨には宗教的行為の形式で虐待的な境遇を強いた。
一方、血の繋がった兄弟姉妹関係においてはいささか事情が違う。『鬼滅の刃』において、兄や姉と、弟や妹は、ほとんどの場合美しい絆で結ばれ、互いの人生にポジティブな影響を与え合うのである。上弦の陸・妓夫太郎と堕姫の兄妹は、先述のように親子関係には恵まれなかったが、兄と妹としては深い愛情で結ばれ、二人で一つの兄妹鬼として主人公サイドに立ちはだかる。主人公サイドもまた、感動的な兄弟姉妹エピソードには事欠かない。不死川実弥・玄弥兄弟は共闘をし、胡蝶カナエは妹・胡蝶しのぶを激励し、それぞれ強敵を撃破せしめた。兄弟姉妹が鬼殺隊士でない一般人の場合でも、冨岡義勇の姉・蔦子や時透無一郎の兄・有一郎のように、死してなお弟たちの心を温め励まし、原動力を与えている。極めつけは、主人公・竈門炭治郎の有名な台詞「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」(単行本3巻 p.163)である。父親の病死後は竈門家の大黒柱として家計を支え、鬼殺隊士として血塗られた道を歩みはじめてからも妹・禰󠄀豆子を守ることを信条としている少年(発言当時十五歳)のあまりにも健気な台詞は、読者に強いインパクトを与えた。物語の舞台は大正時代。令和の現在も残存する家父長制や長子相続の概念が、よりあからさまに人々を支配していた時代である。炭治郎のこの台詞は、大正の少年の言葉としてはさほど不自然ではないものの、平成末期から令和に連載された漫画に期待される「新しい時代の男性主人公」の台詞としては議論を呼び、ネットミームにもなった。『鬼滅の刃』は、たくさんの兄弟姉妹の愛の物語なのである。継国巌勝を除いては。
継国巌勝は、兄というアイデンティティをついぞ全うすることができなかった。継国巌勝が生きたのは、令和より大正よりさらに遡るところの室町・戦国の世である。男性の存在価値とタフネスが不可分に結びついていた時代に、武家の長子・嫡男として生まれたにもかかわらず、巌勝は剣才において双子の弟・縁壱の後塵を拝した。その事実は巌勝の自尊心を毀損し続け、強さへの欲望を植えつけ、ついには人倫すらも捨てさせ鬼とならしめた。最強の上弦の壱の鬼・黒死牟となってからも、巌勝は生涯弟に嫉妬し続け、憎み続けた。巌勝は立派な兄であれなかった。兄とは、強く、歳下の者を守る存在である。家父長である。つまり、当時の武家の価値観において兄になり損ねた継国巌勝は、ほとんど同時に「男」にもなり損ねたのである。
この一点をもってして、継国巌勝はクィアである、とまで言うつもりはない。クィアという語句をジェンダーアイデンティティにもセクシュアリティにもかかわらないところで単なる逸脱・非典型のニュアンスで用いるレトリックを、わたしは拒否する(追記2)。それはセクシュアルマイノリティが血を吐きながら紡いできた歴史への冒涜である。本書で試みたいのは、いわゆるクィアリーディングとは異なる。継国巌勝はシスジェンダーのヘテロセクシュアルであると、わたしは解釈している。その根拠は作中で妻帯・挙児の描写があるから、ではない。規範的な生と役割遂行を宿命づけられ、しかしそれに添えない、かといってほかの生き方も見つけられない身体は、正しくセクシュアルマジョリティであるほうが「美しい」からだ。もちろんこの解釈は物語上の都合であり、現実のセクシュアルマイノリティ(もちろんいつの世にも、戦国時代にもいたはずだ)の生の様相とは一切関係がないことは強調しておく。ある人のジェンダーアイデンティティ/セクシュアリティと、当該個人の思想信条生き方等が「保守的」だとか「リベラル」だとかは、一切関係がない。複雑な物思いを呑み込んででも、一切関係がないと不断の努力で言い続けなければならない。シスヘテロであれば「保守的」だとか、クィアであれば「リベラル」だとかは、ない。
しかしともかくわたしは、自分自身「男」であれなかった者として、「不具の男」としての継国巌勝に興味を抱くに至ったのである。
本書では、二次創作小説という形で、継国巌勝/黒死牟の原作では描かれなかった人生を想像・補完し、それを手がかりにキャラクターを解釈していく。黒死牟はラスボスの次に強い敵なのだから、それなりの重要キャラクターではあるが、登場シーンは決して多くはない。メインを張るのは単行本十九巻の終わりから二十巻にかけてのみであり、二十巻で退場してからは一切登場しない。人生模様は大半が謎に包まれている。それでも少ない描写からは、先述したように彼が戦国時代の武家の嫡男として生まれたことは最重要ポイントとして読み取ることができた。そんなわたしの解釈を反映して、収録されているほとんどの二次創作に「嫡男」という言葉が頻出している。本書では、二次創作小説パート/エッセイパート双方を通じて、継国巌勝を彼たらしめた時代に通底する封建制・家父長制・ジェンダー規範といった社会的要因を指摘することにまず力を入れている。いつの世も、社会構造による不可視の暴力こそが、鬼による食人などよりももっと陰惨なのである。
なお、構造的暴力に着目するのは、彼が人喰い鬼として行ってきた加害を擁護するためではない。むしろ加害性は、社会的観点を得ることによって継国巌勝に上乗せすらされなければならない。
日米文化史研究者の阿部幸大は著書『ナラティヴの被害学』において、暴力の加害者を他者化・切断処理するのではなく、加害性を社会全体に再分配し、「われわれ」の手に暴力を取り戻すことこその重要性を説いている。
ある複雑な事象を、加害者たる「やつら」と被害者たる「われわれ」という二元論によって単純化するナラティヴは、暴力は「やつら」の問題なのだとわれわれに教える。だが、暴力に反対する「われわれ」自身を加害者の立場に置いてみないかぎり、暴力の問題をラディカルに考えることはできない。暴力をふるうのは一部の異常者だけではなく、われわれ全員なのだから。われわれが抵抗すべきは、戦争や虐殺のような大規模で明瞭な暴力だけではない。全暴力である。いま、暴力を「やつら」の手から奪還し、加害性を社会全体に再分配せねばらない──まさしく暴力を回避するために。
──『ナラティヴの被害学』カバーより引用、阿部幸大、文学通信、2025年4月4日第1版第1刷発行
わたしは本書で、二十八万字をかけて継国巌勝を語ろうとしている。『ナラティヴの被害学』においてナラティヴという言葉は、「ある出来事に与えられる、『このような原因や動機や順序にしたがって、このような一連の出来事が起こりました』という説明」(p.10)であると意味づけられている。継国巌勝を語るにあって、ヴィランだけど哀しい過去を持つ被害者だった、というナラティヴではまったく足りないのは無論である。しかし、時代柄や男性性の規範の被害者でもあり大量殺人の加害者でもある二面性を持っていた、というナラティヴもまた、一個目のナラティヴよりははるかにましだが、まだ足りないとわたしは思う。継国巌勝の加害と被害は、なんらかの形で美しく統合されなければならないのである。まずはミクロに彼の加害を書き尽くし問い尽くし、被害を書き尽くし問い尽くし、そして加害と被害の二分を急かしてくるマクロの構造こそを書き尽くし問い尽くした最涯ての場所で、わたしは継国巌勝というキャラクターを再度等身大として顕現せしめなければならない。食事のためだけに留まらず殺生のための殺生をも繰り返していたことは、上弦の壱の鬼・黒死牟を考える上で外せない要素である。全生涯を剣に捧げた剣鬼の悦びも哀しみも、罪の中にこそある。
もちろん、このように多面的・複層的な事柄を語り尽くすのは、わたしの能力からすると非常に困難と感じる。批評という正統な形式ではなく、二次創作小説との抱き合わせという邪道の形式を必要としたのはそのせいでもある。難しいことは、多少は得意とするフィールドに引き込まねば手も足も出ない。慣れない批評的言語を行使するよりは、二次創作的想像力を行使するほうがわたしにとってはまだ多少(あくまで多少だが)楽なのである。わたしは二次創作小説の形式で、文学が持つネガティブケイパビリティ的な力を強引に借りて、継国巌勝の加害と被害、喜怒哀楽、生老病死の統合を試みた。
二次創作中で想像される人生模様の中には、性生活の様相も含まれる。成人向け相当の性描写を含む二次創作小説パートは、本文に直接印刷するのではなく、創作投稿サイトpixivのQRコードから遷移する形で掲載している。pixivのR-18リンクは成人でないと閲覧できない仕組みになっているので、これでゾーニングとさせてもらう。このような販売形態が法的・道義的に許されるのかは自信がない。しかし、近年とみに巨大化・商業化してきたとはいえ、良くも悪くも曖昧な部分を残している同人誌文化の懐深さを、とりあえずは信じる。
性描写が苦痛ではない成人しか完全版にアクセスできない本になど、もちろんしたくはなかった。しかし、わたしが思う継国巌勝の解釈を十全に表現するにはやはり、彼の性生活を具体的に描写したパートが必要と判断し、やむを得ずこのような仕様となっている。性描写を含む二次創作には詳細な概要を付記するので、読みたくない人や未成年の人はQRコードには触れず、概要だけ把握して読み進めてほしい。成人向け相当の性描写を含む二次創作は、小説全二十本のうち三本である。内容としては継国巌勝と妻、鬼舞辻無惨と一般人女性、鬼舞辻無惨と珠世という三組の男女のセックスの様子を描いている。今回は同性同士の性描写は含まれないが、これは鬼滅世界における同性同士の性的関係成立の可能性を否定するものではない。
性描写の有無にかかわらずすべての二次創作パートは、食人や流血など、原作程度の残酷描写を含む。
本書タイトルは、継国巌勝/黒死牟の剣技「月の呼吸」の、「伍ノ型 月魄災禍」をもじっている。
また、今さらだが、ネタバレには一切配慮されない。
本書の本編各章のあらましを述べる。章立ては以下の通りである。
序章
第一章 継国巌勝と産屋敷家当主──職業殺人者による、最初ではない殺人としての父殺し
第二章 継国巌勝と妻──国家は嫡男の性を支配する
第三章 鬼舞辻無惨と黒死牟、継国巌勝と継国縁壱──ヤングケアラーの記憶
第四章 鬼舞辻無惨と黒死牟──鬼化と第二次性徴。あるいは炭治郎に並ぶ「ケアする
長男」による、描かれなかったもう一つのケアワーク
第五章 鬼舞辻無惨と黒死牟──鬼というユートピアとネオリベラリズム
第六章 鬼舞辻無惨と黒死牟──嫡男の身体はトラウマを記録する
第七章 継国巌勝と妻、子──戦国武家のSRHR《性と生殖に関する健康と権利》
第八章 継国巌勝と継国縁壱──自己決定するからだ
第九章 継国巌勝と継国縁壱──嫡男の青春
第十章 鬼舞辻無惨と黒死牟──赤い月夜のあとに
第十一章 鬼舞辻無惨と黒死牟──身体性の喪失
第十二章 鬼舞辻無惨と黒死牟──ラストサムライ、豊臣氏滅亡を目撃する
第十三章 黒死牟と童磨──もし上弦の壱と上弦の弐が入れ替わりの血戦をしていたら
第十四章 黒死牟と童磨──身体性の回復
第十五章 鬼舞辻無惨と珠世──女鬼という境界人《マージナル・ウーマン》
第十六章 童磨と胡蝶しのぶ──偶像の初恋
第十七章 継国巌勝と妻、黒死牟と獪岳──愛について 剣鬼のアイデンティティと欲望
第十八章 黒死牟と獪岳──鬼として、地獄を尽きなく生きること
第十九章 継国巌勝と妻──戦国武家のPOTENTIA GAUDENDI《悦びの力》
第二十章 継国巌勝と獪岳、無惨、時透無一郎、妻、縁壱──鬼、そして男というアイデンティティ
終章
終式 月魄最佳
第一章では、戦国時代、鬼への寝返りを決意した継国巌勝が、お館様の首級を獲りに行くくだりを想像している。この場面を通じて、巌勝の生を決定づけた武家の嫡男という生まれを検討し、産屋敷家当主と巌勝という、生まれた家の宿命をそれぞれ背負った二人の当主を比較する。また、『鬼滅の刃』の世界観に通底するネオリベラリズム/新自由主義についても第一章で概説する。
第二章では、時間を少し遡って、巌勝が鬼狩りの月柱だったころのプライベートな性生活の様子と、継国家当主時代の妻との初夜の様子を想像する。一連のセクシュアルな空想には、巌勝の身体が家を出てなお社会的規範の支配下にあるとするわたしの解釈が反映されている。
第三章は、時系列でいうと第一章の続きである。無惨に寝返った巌勝が血を注入され、鬼の黒死牟へと生まれ変わるまでの三日間を想像する。回想では、弟・縁壱をケアしていたころの様子も描かれる。本章ではこれを通じて、幼少期の巌勝をヤングケアラーとして解釈していく。『鬼滅の刃』の中で、継国巌勝/黒死牟が担った重要なケアワークは二個ある。一個目のケアがこの、幼少期の縁壱の育児である。
第四章では、第三章の直後、無惨が縁壱に敗北して肉片と化したときの様子を描く。黒死牟は、死ぬ寸前だった無惨を献身的に介護する。これが、継国巌勝/黒死牟が担った二個目のケアである。奇しくも継国巌勝は、史上最強の正義の剣士・継国縁壱の育児と、史上最強の悪の鬼・鬼舞辻無惨の介護という、対極のケアに従事して、『鬼滅の刃』の根幹を成す重要登場人物二人を支えたのだ。本章では、継国巌勝/黒死牟を主人公・竈門炭治郎に並ぶ「ケアする長男」として解釈していく。また、併せて無惨が人間であったころの少年時代も想像し、鬼化と男性性を巡るわたしの解釈を示す。
第五章では、前章に引き続き、黒死牟が無惨をケアしていた時期を描く。無惨の人間時代についても引き続き想像する。それを踏まえて鬼世界のネオリベラリズム性に改めて注目し、そのような世界観において黒死牟のケアといういっそフェミニズム的な達成がどのように位置づけられるのかを検討する……予定であった。時間的余裕がなかったので、エッセイパートはなんと途中で中断する。二次創作同人誌であれば、このような自由勝手も許されてしまう。
第六章も前章に引き続き、黒死牟と無惨が二人暮らしをしていた時期の話である。ここでは黒死牟を、幼少期の心的外傷に由来するPTSD様症状の罹患者として想像する。それに対する無惨から黒死牟へのケアが描かれる。
第七章では、時系列を大きく遡り、巌勝の少年期~青年期の武家当主時代を想像する。巌勝の当主時代は、原作では「それから十年余り平穏な日々が続いた」「私は妻を娶り子供にも恵まれた」「長閑やかでどこか退屈な毎日だった 年月の流れが非常に遅く感じた」(単行本20巻 p.174)とのたったの三コマで回顧されている。これを二次創作的想像力によって大きく膨らませて、妻との関係や育児の葛藤、そして継国家を出奔するまでを描く。
第八章では、継国家を出奔して鬼狩りに加入した巌勝の日常生活を想像する。若殿として上げ膳据え膳の暮らしをしていた巌勝は、鬼狩り時代に初めて家政を経験し、日々の家事を通じて自己決定権をわずかに回復したとわたしは解釈している。巌勝と比較した弟・縁壱のパーソナリティについてもここで検討する。
第九章でも引き続き、鬼狩り時代の巌勝と縁壱の交流を描く。鬼殺隊の世界が封建時代には稀有な実力主義の場であったとするなら、巌勝の人生におけるビルドゥングスロマン的な青春時代はここであると想像する。
第十章では、時系列は前章から大きく飛ぶ。巌勝が黒死牟と化して六十余年経ち、老齢の縁壱と対峙したあとの話である。弟の死によって人生の目標を失ってしまった黒死牟に、無惨が喝を入れる。ここでは、無惨と黒死牟の、ホモソーシャルならぬホモエロティックな強い信頼関係を検討する。
第十一章もまた、黒死牟と無惨の二人暮らし時代の話である。黒死牟は第八章のような家事の習慣を反復しようとするが、鬼の身であるがゆえに失敗してしまう。回復したはずの自己決定権はもはや風化している。このエピソードを通じて、鬼の世界の、「マイボディ・マイチョイス」ならぬ「マイボディ・無惨ズチョイス」とでもいうべき特異なシステムを示す。
第十二章も、黒死牟と無惨の話である。二人は旅先で大坂冬の陣を目撃し、豊臣氏の滅亡に立ち会う。安土桃山時代の終わりは、武士階級が恒常的に武人であった時代の終わりでもある。一つの時代の終焉を目撃した黒死牟の感慨を描く。
第十三章は、前章から時代が進み、童磨が上弦の弐になってからの話である。黒死牟と童磨がもし入れ替わりの血戦をしていたらと仮定して、二人のバトルを想像する。
第十四章は、前章の直後、入れ替わりの血戦によって親しくなった黒死牟と童磨の会話である。ここで黒死牟は、第六章で描いたPTSD様の症状を再発してしまい、童磨がケアワーカーとしてアドバイスを与える。
第十五章では、時代を戦国時代に遡って、巌勝と出会う前の、無惨と珠世の淫靡なひとこまを描く。本章では、『鬼滅の刃』における男鬼と女鬼の描写の差異を取り上げる。珠世と禰󠄀豆子という二人の女鬼が、人と鬼、善と悪のあわいを往く境界人《マージナルマン》の役割を負っていることも検討していく。
第十六章では、番外編として、死後の世界での童磨と胡蝶しのぶの対話を描く。継国巌勝は登場しない。
第十七章では、前半で継国巌勝と妻、後半で黒死牟と獪岳のやり取りを描き、黒死牟と獪岳の歪な師弟関係・疑似父子関係について検討する。
第十八章でも引き続き、黒死牟と獪岳の関係を、無惨と黒死牟の会話を通じて想像する。ここでは獪岳を、近代都市の機能不全に翻弄された貧困者として解釈し、前近代を生きた継国巌勝と比較する。
第十九章は、時系列を大きく遡る。継国巌勝が継国家を出奔する前夜の、妻との最後のセックスを描く。ここで想像するのは、規範に縛られた身体の、最後の最後にあったかもしれない刹那の自由な時間である。
第二十章は、黒死牟の死後の話である。地獄へ向かう道すがら、巌勝は獪岳、無惨、時透無一郎、妻と対話する。本章では、時間不足などの不本意な理由ではなく、意図的な試みとして、エッセイパートをなくす。二次創作のみにおいて、継国巌勝の人生を語る。
終章と、終式・月魄最佳と題した最終パートでは、本書の総括を行う。
以上が、全章のあらましである。
『鬼滅の刃』の舞台は大正時代であり、状況証拠から一九一二年(大正元年)から一九一七年(大正六年)の間のどこかと推測される。平塚らいてうが日本最古のフェミニズム雑誌『青鞜(せいとう)』を主宰し、あまりにも有名な巻頭文〝元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である〟を発表したのが一九一一年は明治四十四年、明治最後の年のことで、わが国の女性解放運動はこのころから盛り上がりを見せる。大正とは、そのような時代であった。この、太陽と月を二元論としての男性性・女性性に当てはめる古典的比喩と、それを踏まえた日柱・継国縁壱と月柱・継国巌勝の関係については追々検討していく。『青鞜』巻頭文の〝病人のような蒼白い顔の月であった〟という一節からは、ラスボス鬼舞辻無惨初登場巻の彼の台詞「私の顔は青白いか? 病弱に見えるか?」「違う違う違う違う 私は限りなく完璧に近い生物だ」(単行本2巻 p.144)を思い出すことができる。彼は酔っ払いに「青白い顔しやがってよお 今にも死にそうじゃねえか」(単行本2巻 p.140)と絡まれて激昂し、先述の台詞を吐き、特段殺す必要もなかったその通行人を癇癪に任せて殺害するのである。前半で述べたようにわたしは、鬼と男性性を重ねた解釈をしている。先の場面において、顔色悪く病弱に見えることは女性的であることと重ねられ、女性的であり弱いことは鬼の世界においては恥・罪悪であると片付けられているのだ。総じて本書は、一種のフェミニズム批評の色合いを帯びるだろうが、二次創作と抱き合わせるという手法を取っている以上、事実と、意見や空想との区別がどうしても曖昧になるので、正当な批評や評論であるとはいえない。
本書で試みられるのは、継国巌勝の考察であると同時に、批評的発想力と二次創作的想像力の境界の問い直しである。わたしは本書執筆を通じて、この両者の差異を幾度となく考えた。思うことはさまざまあったが、明確な結論は未だ出ていない。
のっけから長くなった。第一章からはさっそく、継国巌勝の人生を、さまざまな角度から解釈していく。まずは小説を載せ、小説のあとにエッセイを載せる形式でいく。『鬼滅の刃』を未読でもなるべく楽しめるように心がけたつもりではある。逆に、『鬼滅の刃』のファンで二次創作に興味がある人は、二次創作パートだけ読むのも自由である。二次創作だけ読んでも、わたしの継国巌勝解釈はある程度は伝わるはずだ。しかし、明確な思想の表現としてフィクションを使う行為はしばしば、登場人物に筆者を口パクさせる陳腐なお人形遊びに堕す。鵜の吐き戻しのごとく未消化な思想を並べ立てたフィクションほどつまらないものはない。これは一次創作でも二次創作でもそうである。今回のわたしの二次創作もまた、登場人物がわたしの思想を適切に抽象化しないまま吐き戻す、退屈極まりないお人形遊びのレベルに留まるリスクを常に帯びている。わたしは継国巌勝を、わたしの支配下に押し込めたからくり人形ではなく、活き活きと自発的に動く生身の人間として描写しおおせなければならない。
継国巌勝について考える営みは最終的には、わたしの生涯の疑問として立ちはだかっている、「男とはなにか」という問いに応える糧となるだろう。作中で継国巌勝は、その四百年余に渡る生を、「ああ…何も 何も手に入れることができなかった 家を捨て妻子を捨て 人間であることを捨て 子孫を斬り捨て 侍であることも捨てたというのに ここまでしても駄目なのか?」(単行本20巻 p.188-189)「何故私は何も残せない 何故私は何者にもなれない」(p.190)というあまりにも重い悔恨で締めくくっている。その後悔にわたしが介入することは不可能だが、一つ確実に言えるのは、継国巌勝には呉樹直己が残ったということだ。継国巌勝の生を見届けたわたし、呉樹直己は、少なくない手間と金銭をかけて、このような大部の自主制作本を作った。継国巌勝の生が魅力的なものでなければ、こうはならなかった。継国巌勝と、吾峠呼世晴先生に深くお礼申し上げる。とはいえ、「継国巌勝氏に捧げる」とぶっ放した序文はちょっとしたカマしであり、本心ではない。二次創作的想像力とはつくづく手前勝手なものであるとはいえ、他者の性生活をも空想して書き下ろした本を本人に読ませるほど、分別を失ってはいない。
【追記1】
厳密には、わたしの医療費の一部は同居人の「先生」が支払っている。兼業小説家であり、わたしと同じく精神障害者である「先生」との共同生活については、過去作『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』で詳しく書いた。
【追記2】
個人的に例外はニック・ウォーカーが提唱するニューロクィアの概念で、これにかんしてはわたしもたまに自分で名乗ることがあるが、本書では掘り下げない。
【補足】pixivについて、本書の情報保障について
創作投稿サイトpixivのR-18リンクは、pixivのアカウントを持つ成人でないと閲覧することができない仕組みになっている。読者の中には、pixivアカウントを持っていない人や、pixiv社をボイコットしている人もいるだろう。しかし、成人向け相当の性描写を含む二次創作の扱いを巡っては近年、法的見地、表現の自由権、倫理的是非、ファンコミュニティのローカルな規範意識や道徳的好悪感情等、ありとあらゆる社会的領域にまたがる 膨大な議論がなされている。事態は、長期的な紛糾・錯綜状態にある。これらの議論の具体的内容については割愛するが、諸般の大変複雑な事情から、pixivのリンクを介さずに本書を販売することは不可能と判断した。本書は個人による自費出版制作物であるので、これ以上のアクセシビリティ向上は難しいことをご理解いただけると幸いである。
全年齢向け二次創作パートとエッセイパートにかんしては、テキストデータを提供する用意がある。本書をご購入いただいた方のうち、視覚障害・肢体不自由・発達障害等の理由で書字へのアクセスが困難な方には、本書のテキストデータを提供する。希望される方は、呉樹直己のSNSやブログ問い合わせフォーム等を通じて連絡してほしい。これらの連絡先等は、末尾の奥付に掲載している。
過去に販売した同人誌二冊にかんしても同様に、テキストデータの提供が可能である。
テキストデータの利用は、情報保障の観点のみにおいて認める。内容の改変・流用・転載や、その他営利目的等の利用はこれを禁止する。
第一章 二次創作小説パート
第一章 継国巌勝と産屋敷家当主──職業殺人者による、最初ではない殺人としての父殺し
満月だが、雲の多い夜だった。今この瞬間の月は、流れゆく雲と雲の間に輝くものが一つ、巌勝の足元の血溜まりに映るものが一つ。
事切れた産屋敷家使用人は、最期の表情のまま硬直していた。なにが起こったのかもわからぬまま死んだだろう。瞳には、月柱様がこのような夜更けに、訪いの知らせもなく急にお館様を訪ねてきたことへの困惑だけがあった。日輪刀を手に、巌勝は慎重に周囲を見回した。使用人はこの男で最後のはずだ。
離れにいた者を含めて男女八人を斬っていた。武の心得がある者もいたが、巌勝の敵では到底なかった。全員、呼吸術を使うまでもなく、ただの斬撃で一瞬で事切れた。鬼ではなく人間を斬るのは五年ぶりだったが心が波立つことはなく、おのれが武家の嫡男であったことに改めて思い至った。人の身のままで人を屠ることを教えられて育ったのであった。初めて人を殺めたのは初陣を飾った十三のときである。公家の家系である産屋敷や、鬼狩りに加わるまでは農夫をしていたという弟から見れば、おのれなど最初から鬼であったのかもしれぬ。
雲が満月にかかり、視界がわずかに暗くなった。屋敷の中の気を慎重に探る。生命の気配は一つしかないことを確かめると、巌勝は草履を履いたまま屋敷に上がり込んだ。
当主の寝所は、庭に面した一室であった。月光を背に、躊躇なく障子を開け放った。
使用人たちを斬ったとき物音は一切立てていないはずだったが、男は目を覚まし、上半身を褥の上に起こしていた。
病に爛れて盲いた目が、淡い月光に縁取られた人影を捉えた。
「巌勝かい」
返事の代わりに、ずいと距離を詰めて枕元に立った。抜刀したままの日輪刀から血が滴り、畳に落ちた。盲だが常人にはない鋭い感覚を持つ男にも、その水音と、饐えた鉄の臭いは届いているだろう。であれば、巌勝がこれから何をしようとしているのかもわかるだろう。
産屋敷煌哉、第-代産屋敷家当主。鬼狩り《子ども》の突然の裏切り──しかも巌勝は柱である。驚いていないはずはない。白濁した目は見開かれている。しかし気配はあくまで静かだった。
「お館様」
巌勝は口を開いた。日輪刀からまた血が滴って落ちた。
「今宵、お命頂戴つかまつる」
「うん」
日常の受け答えと変わらぬ声色だった。
「命乞いはなさらぬのか」
「君ほどの者がそうと決めたのなら、なにを言っても無駄だろう」
「おみ足が動かぬお身体でも、声は出せよう。叫んで助けを求めぬのか」
「屋敷の者は全員斬ってしまったのだろう? 可哀想なことをした──可哀想なことをさせてしまった。よしんば誰か来たところで、君なら容易く殺せよう。であれば、これ以上殺されるのはせめて私一人にしておきたい」
常と変わらぬ、穏やかな笑みが巌勝を見上げた。
「それよりも、私に話があるのだろう。聞いてあげるから、話してごらん」
「なぜそう決めつける」
「君は無益なことはせぬ性質だ。首級を取りたいだけなら、とっくに私の命はない」
実際、その通りだった。巌勝は、主と最期の会話をしなければならなかった。
枕元に片膝をついた。少し迷ったが、礼儀作法の通り、刀の構えも解いた。この身はまだ鬼ではないが、柱の腕前を持つ身。万が一なにかあっても、刀を掴んで斬撃を繰り出すまで自分であれば一刹那もかからぬ。相手は武の心得のない病者一人である。
「二つ、御礼を申し上げたく」
「うん」
「まずは──これまで私を鬼狩りでいさせてくださったことに、限りない感謝を」
「それは、礼を言われることではないよ。鬼狩りに加わったのは、身命を賭して戦ったのは、またたく間に柱にまで登り詰めたのは、君自身の力だ」
「私は鬼になります」
「うん」
「ですが、鬼狩りとしてあれた五年の月日は、わが人生の春でございました」
嘘ではなかった。強くなることのみに邁進した日々は充実しており、剣鬼の心をたしかに慰めていた。限りない怨毒に身を焼かれる痛みはあれど。
「そしてもう一つ、継国の家を気遣ってくださったことも、感謝申し上げます」
「それも、君の親なれば当然のことだ。気にする必要はないよ」
公家の名家であり、顔が広いお館様は、継国家の名を知っていた。弟に連れられて初めてお館様に挨拶したときに、次男に次いで長男まで出奔し当主を失った領地領民のことを心配された。産屋敷家の権勢を利用してそれとなく援助することを提案されて恐縮した。継国の家は日柱である縁壱の家でもあるのだから当然のことだよと微笑まれ、深く深く頭を垂れた。鬼狩りとしての給金の一部を、巌勝からとわからぬ形で定期的に送ってもらえることも決まった。
こっそり人をやって妻子の様子を知らせることもできるが、と提案され、それは断った。縁壱はともかく自分はまだ柱でもない新参者であるからそこまで労力を割いてもらうには及ばぬ、と遠慮の体裁を取ったが、本音は違った。家のために添うた妻、家のためにもうけた子に、そこまでの興味がなかったのが本当のところだった。金子を送るくらいはするが、捨ててきた家のことよりも、思うさま剣技を磨くことができるこれからの日々への期待で頭がいっぱいだった。
「妻子といえば、私も君に礼を言わなければならないね。子どもたちを見逃してくれて、ありがとう」
「……」
「あやめが明輝哉とゆりなとききょうを連れて里帰りしている日を、わざと選んでくれたのだろう」
「……強いて見逃したわけではありませぬ。生きていようがなにも成し得ぬ、力弱き童など眼中にも上らなかっただけのこと」
「それは君らしくない言葉だ。明輝哉は童ではない。もう六つだよ」
「童ではないか」
「うん、世間並みでは、そうだろうね。でもあの子は産屋敷家の男子なんだ。童でいることなど私が許さない。早く大人並みになるよう、私とあやめとで、この上なく厳しく育てている。産屋敷の血でなければ、幼い柔い心が壊れてしまってもおかしくないほどに。私がいなくなっても、一人前の男として当主を務めてくれよう」
「……」
「君も武家の嫡男として育てられたならわかるはずだ。六つや七つの歳でも、君は童ではなかっただろう?」
流れる雲はまた月を隠し、寝所には一時的な闇が降りた。
常に強く勝ち続けるようにと、父がつけた名前、巌勝。その名を背負い、嫡男たるよう育てられた。強さへの期待のままに暇さえあれば刀を振るったのは六つのときだったか。しかし弟に剣才及ばぬことを思い知らされ、廃嫡の予感に怯えて眠れなかった夜、あれは七つのときだったか──
「さあ」
育った身の丈は実に六尺三寸(約一九〇センチ)。二十四になる剣鬼は、今はまだ二つである目をわずかに細めた。
「そのような昔のこと、忘れ申した」
開け放した障子から吹く夜風が涼やかだった。
闇の中で、同い年ながら父子の契りを結んでいる二人の男は、しばし黙って見つめ合った。
「なぜ鬼になることに決めたのかは、訊いても答えないだろうから、訊かないよ」
「ではこちらも、お館様のお命を奪うこと、親の大恩に仇なすことは詫びれど、鬼に堕ちることは謝らぬ。人を護るべき身で人を喰らう化け物に成り下がるわが所業、わが選択、どのような詫びの言葉も届かぬであろう」
「鬼舞辻無惨に出会ったのだろう」
「……」
「君ほどの者を翻意させることができるのは、始祖の鬼、最強の鬼よりほかにはない」
「……」
「君はさっき、自分の選択と言ったね。鬼になることは、君の意に反した係累や、脅しによるものではないのだね?」
「……」
「であれば私は、親として、子の選択を止めることはできない。子はいずれ親から離れるもの。これは避けられぬ、世の理だ。もちろん、決して選んで欲しくない道であったのは残念でならないが──私を殺したあと、君が心弱りして腹を切ってくれたらどんなにいいか──しかし君ほどの者は、決めた道を往くのだろうね」
雲が途切れた。いつしか天頂に達していた満月が、二人を明るく照らした。
「思う道を往きなさい、巌勝。鬼と化したお前は必ず、明輝哉が倒す。明輝哉の代には間に合わずとも、明輝哉の子か、孫か、その先か、何十年何百年何千年かかろうとも、産屋敷の子孫と鬼狩りの子どもたちが、お前を必ず討ち倒す。今日より先、お前に安息の日は二度と訪れぬ。何十何百何千の目が、お前の命を狙っていることを、ゆめ忘れるな」
父の最期の命令を、子は静かに受け止めた。
「御意に」
病の男は、不意に咳き込んだ。巌勝は動かない。背を撫でて気遣うことも、側仕えの者を呼んで看病させることも、もはやない。
咳が治まると、男は顔を上げ、巌勝をまっすぐに見た。
「月柱・継国巌勝」
それは、死にゆく者の声とは思えないほど朗々と響いた。
「長きに渡り身命を賭して、世のため人のために戦っていただき尽くしていただいたこと、産屋敷家一族一同、心より感謝申し上げます」
巌勝は沈黙を続ける。この礼に応える言葉も資格も、もはやない。
「地獄で待っているよ。なるべく早くお前も来なさい」
「……鬼から人を救ってきたお館様が、なぜ地獄に行かれる?」
「私は地獄行きだよ。産屋敷家の当主は全員そうだ。武に長けるが食い詰めている者や、鬼に家族を殺されて心弱りしている者につけ込んで、高給や仇討ちの甘露をちらつかせ憎悪を焚きつけ、実態なき親子のくびきで縛り、修羅の道を往かせる。賤の中の賤、最も下劣な人買いの一族が、産屋敷家なんだ。代々そのように大勢の民を苦しめ、わが子にもその業を引き継がせる。ああ、可哀想な明輝哉──産屋敷の男子に生まれたばかりに、あの子は童らしくあることも許されなかった」
「……そう卑下なさるな。この乱世、鬼狩りに加わるよりも悲惨な境涯に落ちることなど容易い。鬼狩りとして、最期は鬼に殺されるとしても、束の間充実した生を掴んだ者もいよう。それもまた人生」
「でも事実だからね。ありがとう。巌勝は優しいね。君が鬼狩りとして過ごした日々にも、少しでも幸せな瞬間があればと願ってやまないよ。討伐の手柄とは別にも、君の評判は私に届いている。強く、凛々しく、自分に厳しく、他人に優しい。非の打ち所がない人格者。教養高く、序列にはうるさいけれど、侍の身分を鼻にかけることは決してない。農奴出身の者にも、もっと卑しい出自の者にも隔てなく、誰にでも公正な月の柱。皆君が大好きだったよ。苦しみに満ちた現し世の闇を慈しく照らす、まさしく君は皆の月だった。君はそのことに、きっと気づいていなかったのだろうね。ああ、これは父《わたし》の落ち度かもしれない。もっと早くなんとかしていれば、あるいは──」
「お館様」
巌勝は刀を取り、立ち上がった。
「無駄話が過ぎようぞ。私は、お伝えしたき儀は伝え申した。お館様はいかがか」
「──そうだね。もう十分だ」
男は褥の上で姿勢を正した。巌勝は刀を構えた。
「姿勢はこれでいいかい? 怖くはないよ、痛まぬようにやってくれるだろうから。先ほど斬った屋敷の者たちにも、きっとそうしたのだろう」
「お館様」
両の目はすでに安らかに閉じられていた。
「参る」
ことは刹那に遂げられた。
斬られてなお、首は胴に乗ったままだった。両の手が胴から持ち上げるまで、血すら流れなかった。切断面が離れて初めて、鮮血は勢いよく四方八方に溢れて褥を汚した。刀を収めた剣鬼は、首を風呂敷に包み、屋敷を出て、二度と戻らなかった。
第一章 エッセイパート
時は戦国時代、継国巌勝がまだ人間だったころの話である。鬼への裏切りを決意した巌勝はまずは産屋敷家当主を殺害するが、これは彼にとってはべつに最初の殺人などではなかったことに着目したい。人を殺めることは、生まれ落ちた家と時代とに要請された彼の生業であり、鬼殺隊士として鬼だけを斬っていた数年間がむしろ例外なのである。
鬼殺隊のリーダーを代々務める産屋敷家の当主は、鬼殺隊士を子どもたちと呼ぶ。これは当主と隊士の年齢差を問わない風習で、のち大正時代では、九十八代当主産屋敷輝利哉が齢八歳にして隊士たちをやはり子どもたちと呼んでいる。鬼殺隊士はお館様と擬似的な父子の礼を取って、父の指揮の下で命をかけて戦うのである。
継国巌勝はそんな父を裏切って、鬼殺隊士の立場から鬼へと一八〇度の寝返りをしている。その際には、父の首を持参して鬼舞辻無惨の下に馳せ参じた(単行本21巻 p.192 巻末作者コラム)。その具体的な様子は作中では一切描写されない。二次創作中の戦国時代の産屋敷家当主の名前と年齢はわたしの想像によるものである。妻と子の名前も同様に捏造である。当主死亡後、六歳の嫡男が新当主となったことだけが、原作中で描写される事実である(単行本21巻 p.183)。巌勝が強いて見逃したという事実はない。また、巌勝が鬼狩りの給金を継国家に残してきた妻子に送金していたという事実もない。
そもそも巌勝が任務中に無惨と出会ってからの、鬼化と当主殺害の時系列は曖昧であり、ここに二次創作的想像力を発揮する余地がある。無惨に鬼に勧誘されて承諾し(単行本20巻 p.182)、その日のうちに血を注入された可能性もある。その場合、当主殺害は鬼の身体で行っている。しかしわたしは、巌勝なら人間のままお館様の首を獲りに行くほうが彼らしいと解釈した。となると、一旦は口約束のみで無惨の下を離れたことになる。そのときの無惨の思惑と、黒死牟が鬼になるまでの三日間の様子は、第三章で想像している。黒死牟が無惨に血を注がれてから肉体変化が完了するまで三日かかったことは黒死牟本人の口から語られるが(単行本17巻 p.51)、こちらも具体的な様子は作中では一切描写されていない。
剣技向上を欲して武家当主の地位を捨て、双子の弟・縁壱を追って鬼殺隊に加入した巌勝は、ひたすら剣技を磨き鬼を斬る生活をしていた。鬼殺隊士であったのは十七歳から二十四歳までのどこかであり、わたしの二次創作では十九歳加入・二十四歳鬼化と想定している。五年間鬼を斬ってきた刀で、この度人を斬ったわけだが、これは巌勝にとってはかつての日常茶飯事である。上弦の壱である黒死牟は、無惨に次いで大量の人間を殺戮・捕食していることは確実なのだが、人間時の殺人数もまた、継国巌勝が桁違いに多いことは特筆せねばならない。巌勝は戦国の武家の当主の立場にあった。つまり、戦場で自ら刀を振るったのはもちろんのこと、兵を指揮して権力の刃でもって無数の人間を殺傷していたのは間違いないのである。室町時代後期、応仁の乱(一四六七年開始)に端を欲する戦国時代とは、人が、鬼になるまでもなく、人のまま人の命を獲りあう時代である。一二二〇年ごろの軍記物『保元物語』には、「武士たるもの、殺業《さつごう》なくては叶はず」との言葉が残されている。殺しをしなければ武士は務まらない、とは、現代の目からは非常に過酷な世界観と映る。しかし時代も、時代に伴う死生観・倫理観も、かけ離れすぎているのだ。現代人の安直な同情は及ばないであろう。巌勝は鬼の頚を斬るよりも先に、敵将の首級を斬って三方に乗せたことがあったかもしれない。二次創作中の、十三歳で初めて人を殺したというのは原作情報ではなくわたしの想像だが、当時の慣わしから判断して十五歳前後で初陣を飾っていたのは確実である。
人間時の殺人数は、ラスボスの鬼舞辻無惨(平安時代生まれ)ですら一人である(無惨のモラルハラスメントによって自死した妻たちをカウントしても二、三人程度)。上弦の参・猗窩座(江戸時代生まれ)は、人間時に一晩で六十七人を撲殺した伝説的逸話を持つが、これもしょせん個人による一過性の激情の産物でしかない。人間時にすでに殺人歴を持つその他の上弦の鬼たちの事情も、あくまで個人の悪行の範疇に留まっている。時代に要請された職業殺人者だったのは、上弦の鬼の中では黒死牟だけである。大正時代の産屋敷家当主は鬼殺隊士を、鬼に家族を殺されることさえなければ一生安らかに眠っていたはずの龍虎であるとたとえている(単行16本巻 p.82)(追記1)。そのような大正の少年少女たちからみると、継国巌勝は鬼化するまでもなく鬼のような男と映っただろう。巌勝だけではない、当時の武家の男性は皆鬼である。時代が数多の少年たちを鬼にしていた。それはきっと、鬼舞辻無惨が人を鬼にした数よりもずっと多い。
いつの世も、最も陰惨な暴力は個々人の殺戮などではない。それは時代によってか、社会によってか、国家によってか、構造的に仕込まれ、不可視のうちに個人の尊厳を蹂躙するのである。不可視の構造的暴力に襲われた人間は、自身の傷を自覚することもできないまま苦しみ続ける。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の概念は元々、ベトナム戦争(一九六五年-一九七五年)に従軍した米軍兵士が帰還後に呈した尋常ならざる心身不調を定義するために、一九八〇年にかけて見出された概念である。わが国でもまた、第二次世界大戦の帰還兵の相当数がPTSDの症状を呈していたことが近年の研究で判明している。旧日本軍兵士の男性たちは、その言いしれぬ苦痛を加害性として発露することもあった。「酒に溺れ妻子を殴打する」「雷親父」などとしてイメージされる昭和初期の暴力的な男性像は、一つには精神疾患症状でもあったのだ。二〇二四年、わが国は旧日本軍兵士の精神疾患にかんして、旧軍病院や日本傷痍軍人会に残るカルテや体験記を収集して初の調査を実施している。戦後八十年の節目である二〇二五年には、それらの調査結果を元に、国立の戦傷病者史料館である東京都千代田区・しょうけい館にて、小展示「心の傷を負った兵士」が開催された。精神疾患の兵士約一万人を収容していた国府台陸軍病院や、傷痍軍人療養所の様子が紹介されたほか、精神疾患となった戦傷病者が作った作品などが展示された。わが国における、旧軍兵士のメンタルイルネスにかんする研究調査は、ほんの最近に始まったばかりなのである。
言うまでもないことだが、大日本帝国軍兵士が経験した苦痛は、個々の戦争犯罪・性犯罪などの加害行為や、大日本帝国の植民地主義的暴力自体を免責するものではない。まずは個別に、加害は加害として、被害は被害として解き明かしていく必要がある。しかし最終的には必ず、必ず、加害と被害はなんらかの形で統合をみなければならない。そもそもすべての生身の人間は加害者性と被害者性の両方を持つからだ。しかしこの真理を、ただ文章として並べたところで、加害者の前に歴として存在する被害者の深い痛みの前ではなんの説得力もない。継国巌勝が産屋敷当主殺害を皮切りに数限りなく犯していくことになる殺生目的の加害でも、あるいは原始の世から令和の世まで絶えず頻発している性暴力加害でもそうで、そこには一人一人顔のある被害者の限りない痛みと無念がある。わたし自身も、性被害と総称されるであろう被害の欠片程度であればこれまでの人生で覚えがある。第一章でも述べたように、わたしが生まれた一九九五年は、北京でアジア初の世界女性会議が開催された年である。同会議で採択された北京行動綱領は、女性の人権にかんする当時最も包括的な国際文書であり、十二の重大領域の一つに「女性に対する暴力」が独立して設定された。国連安全保障理事会が旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所を設置したのが一九九三年、ルワンダ国際刑事裁判所を設置したのが一九九四年で、それぞれ紛争下での性暴力が追訴された。本邦では一九九五年に、沖縄で米兵三名による小学生女児への集団強姦事件が起こり、八万五〇〇〇人が沖縄県民総決起大会に集って抗議した。一九九〇年代に、世界は女性に対する暴力に声を上げはじめたのである。
なお、世界が女性に対する性暴力に「気づいた」(前から当然把握してはいたが、その存在が周知の前提として共有されるようになり、決定的なパラダイムシフトへと動きはじめた)のが仮に一九九五年だとすれば、わが国が男性に対する性暴力に「気づいた」のは二〇二三年ではないかとわたしは考えている。男性の性暴力被害にかんして、二〇二〇年代にかけて特筆すべき出来事はいくつかあったが、一番に挙げるべきは、旧ジャニーズ事務所創設者のジャニー喜多川が多数の男性への性加害を長期的・組織的に繰り返していた一件である。喜多川は二〇一九年に死去し、その後二〇二三年に元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトが実名顔出しで被害を告発して大きな話題を呼んだ。しかし喜多川の性加害が取り沙汰されるのはこれが初めてではなく、散発的な告発は以前からあったが、社会問題として取り上げられるには至っていない。わたしを含むほとんどの「一般大衆」が喜多川の所業を噂レベルでは耳にしつつ、深く思案することはなく、ジャニーズ事務所は維持され、事務所が提供するエンターテインメントは女性をボリューム層として数多の老若男女の夢を彩ったのである。カウアン・オカモトおよび彼に続いた告発者には、SNS上で苛烈な二次加害が行われた。これにも老若男女が等しく加担したが、少なくない割合が女性であったと考えられる。構造的な性被害とバッシングに男女の本質的な別はないことを、わが国は二〇二三年に決定的に知ることとなった。
このような過酷極まりない現実の厚みを前にして、「すべての人間は加害者性と被害者性の両方を持つ」というただの言葉に説得力を与えるのは容易ではない。まずは、思考放棄としての浅薄拙速な一般化・相対主義とは限りなく距離を取らねばならない。その上で、加害者性・被害者性の峻別できないあわいを余すところなく言葉で掬わねばならない。そしてそもそもの、加害者性と被害者性という二項対立的なナラティヴを要求してくる構造自体を検討していく必要がある。そのような根気強い知的営為を、SNS発信のインターネットフェミニズムがほとんど放棄してしまったことはわが国のフェミニズムの歴史の汚点であろう。しかしこの汚点はSNSというプラットフォーム自体の咎でもあるし、学術的・運動的な失敗というよりは、誇りとか矜持とかいう曖昧な言葉で説明したほうが個人的にはしっくりきてしまう。なので、矜持では腹は膨れないのだと言われてしまえばそれまでである。生計が立たず飯が食えないという意味であっても、精神的飢餓が癒えないという意味であっても。
第六章と第十四章では、二次創作的想像力によって、黒死牟を幼少期のトラウマに由来するPTSD様症状の罹患者と想像して二次創作を行う。しかしこの解釈は、大量殺人者としての黒死牟の加害性を擁護・免責するものではない。黒死牟の悪行は悪として、悪のまま語っていく必要がある。これは倫理的エクスキューズのためではない。自ら悪を選んだこともまた、継国巌勝というキャラクターの重大要素だとわたしが考えているからである。
今回第一章の二次創作小説では、継国巌勝の悪行を二つ提示した。一つはもちろん、産屋敷家当主へのシンプルな殺人罪である。そしてもう一つは、そもそも意識明晰なまま自ら選択して鬼化したことである。黒死牟以外の上弦の鬼は、鬼と化す際に選択の余地が皆無だった者もいる。上弦の参・猗窩座は、無惨に出くわすなり即座に頭部を破壊され、強制的に血を注入されている。上弦の陸・妓夫太郎堕姫兄妹も、幼い身で人間に殺されかけて二人して死ぬ寸前に童磨と邂逅して、わけもわからぬまま血を注がれた。上弦の肆・半天狗と上弦の伍・玉壺は、上弦の鬼の中ではいわゆる「泣ける過去」を与えられていないが(だからドラマ性の不足を補うためか、半天狗と玉壺は刀鍛冶の里編で二人セットで討伐され、個別にフューチャーされることはなかった)、彼らですら鬼化は目前に迫った死の回避のためでもあった。半天狗は多数の前科のせいで死刑執行前夜、玉壺は殺した子どもの親に報復されリンチ死寸前という、自業自得のニュアンスを与えられた事情とはいえ。
巌勝も、「痣の呪い」による寿命制限という死は迫っており大いに焦ってはいたものの、ほかの上弦の鬼のケースに比べると判断の猶予はあった。なにより、鬼討伐の専門職であったため鬼という生き物を熟知しており、人を捕食する化け物であることを含めた鬼の生態を詳細に把握している(無惨が一般人を鬼に勧誘する際に、鬼の生態を丁寧に事前説明しているとはとても思えない)。
瀕死状態だったためでなく。鬼に無知だったためでなく。すべてを理解した上で選択して、継国巌勝は黒死牟と化したのである。
武士が時代に要請された職業殺人者であるという話に戻る。一方、同じ武家の継国家に生まれはしたが、双子の弟・縁壱は職業殺人者ではない。縁壱は七歳で継国家を出奔して、のちに最愛の伴侶となる農民階級の少女と出会い、ともに十年を農夫として平和に生きている。殺人数は当然、生涯を通じてゼロである。巌勝・縁壱兄弟のディスコミュニケーションは物語上の重要要素だが、彼らは会話が不十分だっただけではなく、支配階級の武士と被支配階級の農民という身分と、身分に伴う役割からして隔たっていたのである。
見てきた景色の差異により、死生観も違っていただろう。縁壱は鬼舞辻無惨を討伐寸前まで追い詰めた際、「命を何だと思っている?」と問うている(単行本21巻 p.177)。縁壱は猗窩座などとは違って、戦闘中の会話を好むタイプではまったくない。しかしこの問いは縁壱にとっては、とどめを刺す手を止めてまでわざわざ訊きたい重大事であったのだ(結局、この一瞬の隙をついて無惨は逃走してしまう)。しかし、「命を根本的には特に何とも思っていない(可能性が高い)」点にかけては、おのが双子の兄もそこそこ怪しかったのではないだろうか。
思えば戦国時代の鬼殺隊は、一国の領主だった者と農民だった者が同じ柱として肩を並べる、当時としては稀有な場であったと解釈することができる。いかに下剋上の時代とはいえ、農民と武家には身分の隔たりがある。江戸時代のわが国の身分制度を示す言葉としては「士農工商」がよく知られているが、近年の研究では問い直されつつあり、令和現在の歴史教育では士農工商という言葉は用いられていない。戦国時代の身分制度はその江戸時代よりももっと曖昧で、豊臣秀吉による刀狩令(一五八八年)・兵農分離政策より前の話であるので、農民から下剋上を果たした例はある。しかしいずれにせよ、武家生まれの者が一応の支配階級であったことは間違いない。継国兄弟の同僚の柱たちのパーソナリティは一切描写されないので不明だが、二次創作的想像力によって、多様なバックグラウンドを持つ者が実力主義で集い、そこに身分の隔ては薄かったと解釈している。鬼殺隊で肩を並べて戦っていたころの継国兄弟の様子は、のち第九章で想像する。
鬼殺隊のこのような実力主義の気風は、大正時代にも引き継がれていると解釈できる。大正時代(一九一二年−一九二六年)は、明治維新(一八六八年開始)によって旧時代の身分制度が一応撤廃されている時代である。士農工商という用語は、前近代の社会を旧弊であると否定するために後世で恣意的に要請された語でもあったのだ。とはいえ、出自の違いによる暗黙の分断は令和の現在よりは著しかったであろう。しかし鬼殺隊内においては、都市部富裕層の「良家の子女」育ちと推測される恋柱・甘露寺蜜璃と、島嶼部の異常な風習を持つ家に監禁され虐待されていた蛇柱・伊黒小芭内という隔てられた二人が柱として並び立つ。彼らは鬼殺の技術ただ一つによって同等の地位を得て、恋情を育み、結婚の誓いを立てるのである。伊黒小芭内と甘露寺蜜璃もまた、ファンの間で不動の人気を誇るカップルである。
とはいえ、鬼殺隊の世界を一歩出るとそこには、家や生まれの性の隔たりが厳然とある。たとえば、甘露寺蜜璃には参政権がない。伊黒小芭内には二十五歳になれば自動的に与えられたはずのものが、ない。蟲柱・胡蝶しのぶにもない。わが国において婦人参政権の導入は、第二次世界大戦後を待たねばならない。いかに鬼殺隊内で柱として尊崇を集めていても、外の世界では彼女たちは二級市民扱いだったのである。
さて、そんな多彩な顔ぶれの柱たちと全鬼殺隊士を束ねる「父」である産屋敷家当主は、F分の一(1/F)揺らぎと呼ばれる特殊な周波数の声を持ち、聞く者に安らぎを与え、陶酔させる。しかしその陶酔の結果少年少女が放り込まれるのは、殉職率が尋常ではない鬼殺の現場で死闘する毎日である。有り体に言うと洗脳めいたシステムであり、指示を出す当主本人は過酷な現場には一切行かないことからも、旧日本軍の特攻をどうしても連想させる。
『鬼滅の刃』アニメ版においては、大正時代の産屋敷家第九十七代当主・産屋敷耀哉のキャラクターボイスを担当する声優は森川智之である。『ジョジョの奇妙な冒険』においては吉良吉影、『FINAL FANTASY VII』においてはセフィロスなど、かっこいいアニメのかっこいい男性メインキャラクターや、ハリウッド映画の二枚目スターの吹き替えを数多く担当している大ベテラン声優だ。ボーイズラブ作品への出演も多く、「帝王」の異名を持つ。文句なしに、この国で最も「イケボ」な人物の一人だろう。産屋敷家当主(以下、イケボ柱と呼ぶ)はそのような声を駆使し、本人は戦闘にまったく従事しないにもかかわらず、子どもたち=鬼殺隊士の尊敬を集め、癖の強い面子が多い柱すらも心酔させるのである。
戦国のイケボ柱が、代々少年少女を洗脳し特攻させていることの悪性を認識していたかは定かではない。今回第一章では、二次創作的想像力により、自ら口に出してもらった。
継国巌勝が嫡男であったように、戦国産屋敷家当主も嫡男であった。二人の男はそれぞれの役割を果たすために、手を血に染めてきたのである。
鬼殺隊が、戦国時代には稀有な、身分の隔ての少ない場であったとすればそれは、社会維持のための非人道的なイデオロギーなど入り込む隙がないくらいにすでに非人道的な組織だからであろう。隊士たちは父たるイケボ柱の指示一つで、個人の剣の技量だけを頼りに、なんの保障もなく人喰いの化け物に挑み、少しでもミスをすれば鬼の餌食として死あるのみ。福祉的な救済は存在しない。この冷酷無残な平等性は、鬼殺隊を封建制の時代における仮初めの桃源郷ならしめている。
そして、『鬼滅の刃』の世界において、鬼殺隊よりもなお強く個人主義・実力主義で、人倫すら遵守する必要はなく極限の自由勝手が許されているのが鬼の世界である。しかし矛盾するようだが、無惨に思考や位置情報を常時把握されているのは自由とはほど遠い。始祖鬼に逆らえば問答無用で死あるのみなのは幹部である十二鬼月ですらも同じで、ここには平等性が保障されている。不自由の由縁たる無惨の支配力は、配下の脳内読み取り能力という完全なるファンタジーの異能で説明されている。これは、イケボ柱の求心力がF/1ゆらぎというこれまた理屈外の異能に拠ることと似ている。鬼殺隊の世界と鬼の世界は、目指すところは正反対でありながら、強い類似性を持つ。
大正イケボ柱の産屋敷耀哉は、病によって顔面が爛れて容姿が崩れる前は、鬼舞辻無惨と「双子のように瓜二つ」であった(単行本16巻 p.87 巻末作者コラム)。無惨はイケボ柱の血縁とはいえ、千年以上も経っているにもかかわらずである。やはり無惨と産屋敷家当主は、同種の業を背負った毒父のつがいとして猫写されているのだ。
継国巌勝の人生を決定付けた、武家の嫡男という生まれについては、次章以降でも重要要素として解釈していく。また、鬼殺隊にその萌芽があり、鬼舞辻無惨が決定的に体現するネオリベラリズム的世界観についても、引き続き検討していく。
ネオリベラリズムは、『鬼滅の刃』を読み解く上で重要な概念であるので、取り急ぎ定義を示しておく。わたしもライターの名義を持つ人間として、わがこととして痛感するが、ネオリベラリズム/新自由主義という言葉は、批評「風」の文章(本書も批評「風」の同人誌である)においては非常に使い勝手がよい。それなりの歴史を持つ概念であるので、ラフな語り口の中に散りばめることで雰囲気を引き締めて、適度な権威性を演出することができる。しかし、語句の指し示す内容は近年とみに広範であり、具体的文脈の中で意味を特定できないことさえある(近年同じような空虚な運用をされている言葉にはほかにも、「資本主義」「クィア」「ケア」「政治的」「都会と地方」「障害」などがある)。
ネオリベラリズムをこれと示すのは、厳密に取り組めばわたしの手に負える範囲をはるかに超える。しかし具体的定義を抜きにして権威演出のアクセサリーとして散りばめるわけにもいかないだろう。ひとまずわたしは、ネオリベラリズム/新自由主義という言葉を、自由競争を至上のものとし、可能な限り多くのものを市場に委ねることを是とする論理であると、基本に忠実に定義して運用する。この論理のためには、競争を緩和するために設けられた社会的な仕組み──福祉や公共事業──や、特定の領域・階層を保護する制度は敵視される。加えてこの論理の根本には、ある人が生きる現実を、すべて個人に内在する要因によって競争を通じて決められたものであるとし、それゆえ個人が生きる現実は個人それぞれが責を負うべきであるとする人間観がある。ここにネオリベラリズムと自己責任論は手を結ぶ。
ネオリベラリズムの世界において貧困は、あくまで自己責任の帰結であり、財政的にも社会的にも足を引っ張る罪悪である。ジグムント・バウマンは、ネオリベラリズムが席捲した社会において、貧困であることがあたかも犯罪であるかのようにみなされることを「貧困の犯罪化」と呼んだ(註1)。貧困は福祉の庇護を必要としてしまう。守られなけば生きてゆけないもの、すなわち弱者である。弱者といえば『鬼滅の刃』の鬼の世界では最も忌み嫌われる存在であるが、実のところこれは、読者が生きる現実世界でもさほど変わりはしない。わが国は福祉国家を標榜しながらも、弱者を犯罪者同然と扱っている。以下に引用するのは、二〇一五年五月七日の衆議院憲法調査会における、自由民主党・佐藤ゆかり議員の発言である。
戦後、ある意味行き過ぎた個人主義に対して、年金や生活保護の不正受給の問題しかり、個人の権利主張の裏側にあるべき自助の精神の教え、こういうものが欠けてきた結果、さまざまな国民生活の側面で、自助努力をする国民がきちんと報われないという社会的な新たなひずみも生じていると思います。公共の利益と個人の利益のバランス、個人の権利と個人の義務の関係、特にこの義務の記載、こうしたものをより明確に概念上記述するような憲法の改正、これが重要であると考えております。
この発言がなされたのは二〇一五年五月であり、わたしがこれを執筆している時点(二〇二五年十一月)からは実に十年を遡る。激動の現代社会において十年の月日は決して短くはないはずだが、上記発言は昨日や今日の一般市民のX(Twitter)投稿だと言われても完璧に通用するであろう、生々しい現代性を備えている。 「行き過ぎた個人主義」なる問題意識は非常に広範で壮大なものだが、その代表として挙げられる「年金や生活保護の不正受給」とは、それが生じる社会的領域においても財政上の金額においても限定的な事例である。遠いものを拙速に結びつけるにあたっての飛躍はここでは無視され、ただ弱者の権利を疎む心性だけが剥き出しとなっている。
鬼の世界がネオリベラリズムを極めていることを端的に示すのが、死の自己責任化である。弱さの究極の形は、生命維持すら不可能になること、すなわち死であると(ひとまずは)いえるが、『鬼滅の刃』の鬼の世界において、死は鬼個人の落ち度でしかあり得ない。鬼は基本的に不老不死なので、死因は太陽光を浴びることと、鬼殺隊が使う特殊な刃物(日輪刀)で頚部を切断されることと、鬼舞辻無惨の逆鱗に触れて粛清されることの三つしかない。うっかり太陽光を浴びてしまうのはミスであり、落ち度である。日輪刀で頚を斬られるのはすなわち鬼殺隊士に敗北したということで、弱さであり、落ち度である。上司のご機嫌を損ねるのもミスであり、落ち度である(無惨は短気な暴君なので、かなり理不尽な理由で殺しにかかってくるとはいえ)。鬼と化しては、死すら自然の摂理ではなく、自己責任の咎であり、弱さの証明であり、罪悪なのだ。
継国巌勝は自発的に武家当主の地位を捨て、鬼狩りとなり、さらには鬼となった。自己責任論がより濃い世界へと、自ら望んで突き進んだ。当然それは容易ならざる修羅の道であったが、巌勝の人生にとっては封建社会からの解放であり、喜ばしい道であったと評価することは、可能である。しかし同時に、解放ではなかったとする正反対の評価も可能である。この二律背反を示すために、第一章の最後では、継国巌勝と宇髄天元の繋がりを検討して終わりにする。
大正時代は職業殺人者たる武士がすでにいない世の中である。士族という元武家専有の階級は存在したが、特権は時代を追うごとに縮小されていたし、当然殺人も許されない。であれば主人公・竈門炭治郎と共闘する大正の柱たちは全員殺人数ゼロの無辜の善人かと思いきや、実は例外が一人だけいる。それが、音柱・宇髄天元である。
宇髄天元は忍を営む一族に生まれ、厳格な父親の命で、兄弟姉妹九人のうち七人が死亡するほどの過酷な戦闘教育を受けて育った(単行本10巻 p.156)。訓練の一環として兄弟姉妹で殺しあっていたと強く推測される。天元はごく若いころから忍者として仕事をこなし、任務で人を殺めることも一度ならずあった。天元と三人の妻(妻たちも女忍者のくの一である)は、今でもその罪を悔やんでいる。妻の一人の雛鶴は、「上弦の鬼を倒したら一線から退いて 普通の人間として生きていきましょう 忍として育ち奪ってしまった命がそれで戻るわけではありませんが やはりどこかできちんとけじめをつけなければ 陽の下を生きて行けない」と語る(単行本11巻 p.37-38)。柱でありながら殺人歴を持つ(追記2)職業殺人者であるという点で、継国巌勝と宇髄天元は共通しているのである。
宇髄天元はおのれの境遇に疑問を持ち、妻たちを連れて郷里を出奔して抜け忍となる。一方、天元の二歳下の弟は天元曰く「親父の複写だ 親父と同じ考え 同じ言動 部下は駒 妻は後継ぎを産むためなら死んでもいい 本人の意思は尊重しない ひたすら無機質」(単行本10巻 p.156)といった冷酷な性格をしており、確執があった。序章で述べたように、『鬼滅の刃』の世界にはいわゆる毒親の例は相当数あるが、兄弟姉妹は美しい絆で結ばれて、喧嘩や行き違いがあったとしても最終的には和解し感動のフィナーレを迎える例が圧倒的多数である。実の兄と弟が最後まですれ違うのは鬼滅世界では稀なことで、その点においても宇髄天元は継国巌勝と共通点を持つ。しかし天元の弟は天元の回想にさらっと一度登場するのみで、結局名前すら出てこなかった。兄と弟双方がネームドキャラクターで、双方に厚い人物描写があり、その上で弟と最後まで行き違ったのは、やはり継国巌勝だけなのである。
天元は弟を見て「俺はあんな人間になりたくない」(単行本10巻 p.156)と感じ、抜け忍となり、鬼殺隊に加入する。加入の詳細な経緯は描かれないが、兄弟姉妹を鬼に殺されたからではないのは確かである。加入動機が仇討ちではないのも、巌勝との共通点だ。そんな天元と妻たちに、大正の産屋敷家当主の産屋敷耀哉は、「つらいね天元 君の選んだ道は 自分を形成する幼少期に植え込まれた価値観を否定しながら 戦いの場に身を置き続けるのは苦しいことだ 様々な矛盾や葛藤を抱えながら君は 君たちは それでも前を向き戦ってくれるんだね 人の命を守るために」という言葉をかける(単行本10巻 p.157)。この言葉に天元は深く感じ入り、「俺の方こそ感謝したいお館様貴方には 命は賭けて当然 全てのことはできて当然 矛盾や葛藤を抱える者は愚かな弱者 ずっとそんな環境でしたから」(単行本10巻 p.158)とのモノローグで応え、深い忠誠を誓うのである。
しかし思えば、必要とあらば親兄弟とも骨肉相食み、部下は駒、妻は産む機械と扱い、命は賭けて当然で、矛盾や葛藤を抱える者を弱者とみなす価値観は、一般的な戦国時代の武将の考え方だと思えば特段の違和感はない。宇髄天元は大正時代の、忍という役割が衰退しつつある時世に生まれた。天元の父親が異常に厳格だったのは、「一族が衰退していく焦りから」(単行本10巻 p.156)であった。天元は移りゆく時代の波を乗りこなし、矛盾や葛藤を抱えつつも、新しい人生を掴むことができた。
一方の継国巌勝は、「自分を形成する幼少期に植え込まれた価値観」に、彼なりに抗いはした。「父」たるお館様を子の立場から殺すというのも、自発的抵抗の一つである。しかし、父殺しをしてまで鬼化した動機の一つは、「兄/嫡男」は弟に優れなければならないとする価値観であろう。であれば巌勝は人道を捨ててなお、幼少期の価値観から自由になっていないと評価することは、可能である。
彼が執着した侍というアイデンティティもまた、鬼としての長い生の中で時代とともに変化していったのだが、黒死牟は一貫して刀で闘う武人としての侍/剣士にこだわり続けた。巌勝が人間として生きたのは十五世紀と推測されるが、ここから大正時代までに、武家の様相はかなり変貌している。まず、戦国時代に続く織豊政権時代(安土桃山時代)の終わりは、武家が恒常的に武人であった時代の終わりでもあった。織豊時代の終わりをいつとするかには諸説があるが、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した一六〇〇年か、家康が江戸幕府を開いた一六〇三年ごろであるとされている。江戸時代に入ると、大きな戦はなくなり、武士階級の武人としての側面は次第に形骸化していく。そして一八五三年、ペリー率いる黒船、すなわちアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航する。ここから江戸は幕末の動乱期に突入し、一八六七年、最後の将軍徳川慶喜が大政奉還をするに至って、武家政権としての江戸幕府は滅亡する。朝廷による王政復古の大号令を経て、時代は明治に突入する。封建社会から近代国家への大転換である。武士階級による反発や武力衝突はあったものの平定され、四民平等政策や廃刀令(一八七六年発布)が浸透するに至って、ここに武士階級は武人としての側面を完全に喪失するのである。
戦国時代から大正時代までを生きて、黒死牟はこれらの変化を目の当たりにしていたはずである。それでも彼は四百年余、侍であるというアイデンティティを彼なりに信じ続け、長髪羽織袴帯刀の出で立ちを変えることはなかった。これを哀しく虚しいとみるか、気高く美しいとみるかは読者によって解釈が分かれるところであろう。それに、これらの感慨は両立も可能である。
以上第一章では、殺生を生業として育った継国巌勝が、五年の例外的なブランクを経て、また殺生を重ねる暮らしに戻った場面を示した。次章以降でも、巌勝が戦国武家の嫡男であることは、彼を彼たらしめた重要な要素として解釈していく。
【追記1】
虎の比喩から一般的に連想されるのは、中島敦の有名作品『山月記』であろう。巌勝の姿は、虎と化した李徴の苦悩と重ねることが可能である。しかし、理想と現実のギャップに苦しんで人外に堕ちたという点では共通しているが、巌勝の失敗は「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」ゆえではないので、根本的には異なるだろう。継国巌勝は生涯通じて努力の人であった。剣技のためであれば上流階級の身分を捨て、憎い弟に教えを乞うことも厭わなかった。それでも理想には届かなかったのである。
【追記2】
柱の殺人歴といえば、厳密には大正の風柱・不死川実弥もかつて母親を手にかけている。しかしそれは母親が鬼になったためやむなくであり、殺「人」ではない。不死川実弥は、大正時代に黒死牟を討伐した四人の鬼殺隊士のうちの一人である。巌勝と同じく長男で、兄弟隊士の兄でもある。ここには、母親の異変に気づいて精一杯の対処と看取りができて、弟とも最後には和解できた実弥と、母親の病に気づくことすらできず、弟とも最後まですれ違った巌勝という対比をみることができる。不死川実弥が黒死牟の人生に果たした役割については、のち第十二章でも検討する。
【註1】出典:『人間にとって貧困とは何か』西澤晃彦、p.51、放送大学教育振興会、2019年3月第1刷発行、2020年7月第2刷発行
第三章 エッセイパート
第三章 ヤングケアラーの記憶
『鬼滅の刃』は家族の絆の物語である。主人公の竈門炭治郎は、第一巻第一話で早速家族を鬼に惨殺され、唯一生き残ったが鬼化してしまった妹を人間に戻したいという一心で鬼殺隊士の修羅道を歩みはじめた。そんな炭治郎の前に立ちふさがった最初の十二鬼月(無惨直属の幹部の鬼)は、下弦の伍・累である。累は、群れない習性を持つ鬼の中では非常に珍しいことに、配下の鬼を操って「父」「母」「兄」「姉」の役割を与え、疑似家族コミュニティを形成して暮らしている。家族を鬼に殺された少年と、家族に歪んだ執着を持つ鬼の対決が、序盤のクライマックスを担う。鬼は群れない生き物だが、鬼が強くなる方法の一つは始祖鬼の鬼舞辻無惨からたくさん血を貰うことである。「親」の血が濃くなるほど強くなるというシステムには、やはり血縁の絆が連想される。
加えて、『鬼滅の刃』は、男の生き方の物語である。炭治郎の台詞「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」(単行本3巻 p.163)は有名で、ネットミームとしても流通し、議論を呼んだ。しかし最も強烈なのは、炭治郎の兄弟子・冨岡義勇の親友であり、死後も霊魂と化して炭治郎にアドバイスを与えた少年・錆兎の台詞である。錆兎は炭治郎に対面するなり、「男が喚くな見苦しい」(単行本1巻 p.127)「どんな苦しみにも黙って耐えろ お前が男なら 男に生まれたなら」(p.128)「鈍(のろ)い 弱い 未熟 そんなものは男ではない」(p.130)といった強烈な台詞を放つ。このパンチラインの数々は、作中で直接的に反論されることはなく、炭治郎に喝を入れてその場はそのまま終わる(追記1)。
本書で注目する継国巌勝もまた、家族の絆と、男の生き方に翻弄される人生を送る。巌勝にとって最も大切な家族、生涯をかけた愛憎嫉妬の相手は、弟であった。『旧約聖書』によると、人類最初の殺人は、兄カインが弟アベルを嫉妬から殺したことである。継国兄弟の物語もまた、一家族間の私情を超えて、『鬼滅の刃』の世界を貫く原始の神話として発展していく。第三章では、幼少期の巌勝が双子の弟縁壱に行っていたケアについて掘り下げていく。
第二章で言及した「『元始女性は太陽だった』のか?」展の展覧会タイトルは、序章でも触れた平塚らいてうの言葉〝元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である〟に由来する。平塚らいてうは日本の先駆的フェミニストの一人で、雑誌『青鞜』において、女性の生活と権利を男性中心のイエの維持に奉仕させる「良妻賢母」イデオロギーに異を唱えた。男性を太陽、女性を月にたとえるのは、陰陽五行思想を踏まえた古くからある発想である。
継国兄弟は日の呼吸使いの弟・縁壱が太陽のイメージを、月の呼吸使いの兄・巌勝が月のイメージを、それぞれ象徴的に付与されている。であれば縁壱が「男性的」な性格で、巌勝が「女性的」な性格かというと、もちろん違う。事態はそこまで単純ではない。
縁壱は幼馴染の妻を心から愛し愛され、争いごとを好まずおっとりしていて、動物にもまとわりつかれるような純真素朴な性格であったとされている。そこからは戦国武将として生きていた兄とは正反対の、優しく穏やかなパーソナリティが読み取れる。であれば弟のほうが「女性的」かもしれない。しかし縁壱の言動をよく読むと、純朴さと表裏一体の幼さや無神経さ、独特のバウンダリーの弱さのようなものも読み取れる。これは、彼が肉体的には比類ない強者の男性として生きたからこそだとわたしは解釈する。継国縁壱のパーソナリティについては追々検討する。
巌勝にしても、彼が男性として生きた人間ならではの視野の狭さのようなものを発揮しているのは、霞柱・時透無一郎に対する言動であろう。無一郎がおのれの子孫であることに気づいた黒死牟は、無一郎の剣技を「流石は我が末裔」(単行本19巻 p.102)と褒め称える。そして「己が細胞の末裔とは…思いの外しみじみと…感慨深きもの……」(p.113)と感慨に浸りつつ、「我が末裔よ あの方にお前を 鬼として使って戴こう」(p.110)と、鬼として配下に引き入れようとする。継国の家と妻子は自ら捨てているのに、育ててもいない子孫が強くて喜ぶのは男親にありがちな身勝手さという印象は否めない。時透無一郎がここにいるのは、巌勝が捨てた妻が、巌勝の知らないところで必死で子どもを育て上げたからである。その子もまた、巌勝が捨てた人倫のしがらみの中で生きて命を繋いだ。そのようなまさしく人間的な営みが四百年繰り返された末に生まれた、無数の命の結晶こそが、時透無一郎なのである。この一連の営みにかんして、巌勝は完全に蚊帳の外である。『鬼滅の刃』において永遠の象徴として尊ばれ繰り返し言及される概念であるところの、「想い」がそこには存在しない。子の顔も憶えていないのに、子の子孫になど思いを馳せたことはないはずだ。今さら成果だけつまみ食いするわけにはいかないのである。結局のところ、黒死牟が無一郎に親戚のおじさんよろしく絡んだのは、縁壱と同じく血を分けた存在だからであろう。本質的には弟への執着の延長線上なのである。
長くなったが、縁壱も巌勝も、そのパーソナリティは当然多面的・重層的であり、「男性的」「女性的」というただでさえ瑕疵の多い二元論でたとえるのは難しい。であるからして、継国巌勝/黒死牟の人生における重要エピソードとして、育児と介護という二つのケアワークが挙げられることは、巌勝が「女性的」であることを必ずしも意味しない。二つのケアワークにおいて巌勝は、兄であり武家嫡男→武家当主かつ剣士→鬼殺隊士→剣士かつ鬼というロールから特段逸脱しないまま、「男」のままで、自然にケアに従事している。らしくもない気遣いを唐突に発揮した、わけではない。第三章・第四章・第五章では、「ケアする男」として継国巌勝/黒死牟を解釈していく。
さて、第三章の二次創作小説は、時系列でいうと第一章の続きである。鬼舞辻無惨の視点から、黒死牟が鬼化するまでの三日間を描く。黒死牟が血を注入されてから鬼化完了までに三日かかったことは原作情報であり、強者ほど鬼化に時間がかかるそうである(単行本17巻 p.51)。しかし黒死牟鬼化の具体的な様子は一切描かれないので、最初から最後までわたしの想像である。
無惨の血は人間にとっては猛毒でもあり、鬼化には甚大な苦痛を伴う。無惨は苦しむ黒死牟の脳内を、始祖鬼の能力で覗き見する。そこには、双子の弟との、一見仲睦まじく微笑ましい記憶ばかりが渦巻いていた。
戦国時代、双子は跡目争いの原因となるため不吉とされていた。巌勝の弟・縁壱は顔面に不気味な痣もあったため、忌み子として冷遇され、十歳になったら寺へと厄介払いされることが決定していた。縁壱は齢二歳にして父親から、「お前は忌み子で、生まれてきてはいけなかった、不吉な子どもだ、継国家に災いをもたらすだろう」と面と向かって言われている(単行本21巻 p.191 巻末作者コラム)。嫡男の巌勝と忌み子の縁壱は、衣食住から教育まで、すべてに差をつけて育てられた。巌勝はそんな弟を気遣い、父親の目を盗んで会いに行って話しかけたり、ものを与えたり、凧揚げや双六をして遊んだりしている。こっそり交流していたころの兄弟の年齢は明記されないが、七歳以下なのは確実である。幼い巌勝はすでに、歳の変わらぬ弟を思いやる兄心を立派に持っていたのである。
幼い弟を慈しんだ記憶は、長じた巌勝にとっては今や、自分より強い者をそうと見抜けず見当違いな憐れみをかけていた恥辱の記憶である。兄弟が七歳のときに、縁壱が巌勝をはるかに凌駕する剣才を持っていることが判明した(単行本20巻 p.160)。日本一の侍になるという夢を抱いて刀の鍛錬に励んでいた巌勝の自尊心は破壊され、縁壱のほうが嫡男に相応しく自分こそが要らぬ子だったのだと思い詰める。縁壱が自主的に継国家を出奔したことで廃嫡にはならなかったのだが、巌勝の弟への劣等感・嫉妬・憎悪は以降生涯を通じて持続することになる。
口を利かないので聾であると思われていた幼い弟の世話を焼いた心情を、長じた黒死牟は思い上がった憐憫であると片付けて、自虐的に回顧している。しかし、立場の差に伴う多少の上から目線はあったかもしれないが、五歳や六歳の子どもが親に殴打されても自主的にいたわりを与え続けたのだから、それはシンプルに愛と呼んでも差し支えないのではないかと思う。
継国兄弟の兄弟愛を象徴するエピソードが、笛の授受である。ある日巌勝は、忌み子の弟にかまっていることが父親にばれてその場で折檻され、顔が赤紫に腫れ上がるほど殴打される(単行本21巻 p.159)。翌日巌勝は縁壱に、手作りの木彫りの笛を渡し、「助けて欲しいと思ったら吹け すぐに兄さんが助けにくる」と明るく笑う(単行本21巻 p160.)。この笛を縁壱は生涯懐に持ち続ける。八十代の老人となり、黒死牟と化した兄とついに再会したときも持っていた。縁壱は悪鬼に成り果てた兄をわが手で討伐しようと涙を流しつつ刀を構えるが、とどめを刺す直前に老衰で死亡してしまう。黒死牟は弟の亡骸の懐から、あの日の笛を見つけて、今や六つある目のうちの、人間であったころの位置の二つから涙を流す(単行本20巻 p.185)。人間時代・鬼時代合わせて、継国巌勝が落涙するシーンは唯一ここだけである。それから数百年後の大正時代、黒死牟は鬼殺隊についに討伐される。死んだ黒死牟の懐にもまた、あのときの笛があった(単行本20巻 p.190)。
以上のエモーショナルな伏線回収は、継国巌勝/黒死牟の人気を縁壱ともども不動のものにした。継国兄弟もまた、恋愛のカップルではないが、ファンに人気の二人組である。二〇二五年七月公開の劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』では、狛治・恋雪の人気カップルの哀切な恋愛模様が描かれ、観客の感涙を誘っている。本書執筆時点ではまだ影も形もない来たる無限城編 第二章・第三章では、継国兄弟の物語が相当の尺を取って描かれることだろう。
七歳以降の巌勝の、弟への重たい感情に、愛情をどれだけ勘定するかは読者によって解釈が分かれるところである。兄弟愛があったのは間違いないが、嫉妬や憎悪はそれ以上にある(巌勝自身は「怨毒」という単語で表現している)。愛多めで解釈して二次創作として出力すると、兄のほうは多少腹に一物ありつつも、互いに慈しみあう兄弟が完成する。弟のほうが積極的に兄に愛情表現をしていたと解釈すると、兄の態度は「ツンデレ」と形容されるようなものになるかもしれない。さらにそこに恋愛感情・性的慕情を想定すると、それはBLカップリング二次創作と呼ばれる。二次創作の文化において継国巌勝/黒死牟が誰かと恋愛関係・性愛関係でカップリングされるとき、相手は無惨・童磨・猗窩座・鳴女・獪岳など多彩だが(わたしは本書では妻とのカップリングで二次創作を行っている)、やはり不動の人気なのは弟縁壱とのカップリングである。
長じてからの愛の量は確定できないが、幼い日の巌勝の行動が弟へのケアとして機能したことはひとまず間違いがない。継国巌勝/黒死牟の人生において、また『鬼滅の刃』という物語全体においても重要なケアワークは二つある。一つがこの、弟へのケアである。
縁壱は七歳まで発話がなく、聾であると思われていたが、初めて口を開くなり多語文で流暢に喋った。刀を初めて握った日には巌勝をはるかに凌駕する剣才を発揮した。長じても基本的には無口無表情、しかし素直で素朴な性格で、妻やのちに出会う竈門家の人々に親しまれた。コミュニケーション能力には乏しいが、一つの物事に圧倒的な才能を持つ純真無垢な青年の姿には、フィクションでしばしば(都合よく)利用されるサヴァン症候群的キャラクターの系譜をみることができる。圧倒的天才だが社会的能力にはやや欠ける彼らには、パートナーの支えが必要である。サヴァン症候群の人物を描いた最も有名なフィクションの一つが映画『レインマン』(1988)であるが、『レインマン』のダスティン・ホフマンには、弟トム・クルーズが寄り添い世話を焼いた。継国巌勝もまた、ある面では天才児をケアする兄弟だった。しかし巌勝はトム・クルーズとは違って兄(しかもただの兄ではない、戦国武家の嫡男)であったこと、弟の才能を知らずに世話していたこと、弟が持つ能力と同じものを欲しがっていたことなどが、事態を複雑にしたのである。
加えて、巌勝のケアは、ヤングケアラー的立場からのケアであったことも重要である。ヤングケアラーとは、ケアが必要な家族の世話をしている十八歳未満の子どもと定義されている。病気・障害・高齢・幼齢などの理由で、家族の誰かが見守りや世話を必要とし、それを支える人手が充分でないときは、未成年の子どもであっても、年齢の割に重い責任を負い、要ケア者を支えることになる(註1)。当時の巌勝はヤングケアラーとして捉えることができる。巌勝の慈しみは、父からは得られなかった無償の愛として縁壱に降り注ぎ、孤独な忌み子を温かく慰撫した。縁壱を狭い三畳間から物理的にも精神的にも連れ出して、世界の広さ美しさを教えたのは兄である。長じた縁壱は世の中のことをしばしば「美しい世界」と表現するが、最初にそれを教えたのは兄なのだ。巌勝のケアは、縁壱の情緒的発達に大きく寄与しただろう。それは育児さながらの働きであった。しかし兄自身もまた、時代と家とに要請された役割に幼くして縛られ、父親には殴打される、孤独な童であった。巌勝は弟に無償の愛を与えていたが、巌勝自身もまた無償の愛を注がれて然るべき年齢であったのだ。
本来は大人が担うべきケアを引き受けて苦しむ子どもは昔からいたが、近年に至ってヤングケアラーと名指されたことで、その存在は一気に可視化された。ヤングケアラーが抱える問題は、幼少期に年齢不相応の重責を負わされ時間を奪われることに留まらない。成長してからも進学・就職の選択肢を狭められたり、精神的問題を発現したりなど、その困難は非常に多岐に渡る。よって、ヤングケアラーという語が行政・福祉の文脈で持ち出されるときは、子への支援の不足や、子が世話している家族への支援の不足が問題視される。ここでのヤングケアラーは「かわいそうな存在」であるとされ、「過酷」「厳しい現実」「閉ざされた未来」といったセンセーショナルな語句で表現される。
しかし、ヤングケアラー体験が当該個人の人生にどのような影響を与えたのかの私的な語りにおいては、ヤングケアラーは必ずしも悲惨なばかりの存在ではない。家族をケアした日々を振り返って、困難ではありつつも意義のある時間であったと自分なりに捉え直している当事者はいる(わたし自身も、そのような元ヤングケアラーの端くれである。わたしの亡父は半身不随であった。母もまた、父よりは格段に元気だが身体障害者手帳取得者であった。第二十章の二次創作には、無惨が人間時代の病苦を吐露するシーンがあるが、ここでの描写には、指定難病であった亡父を身近で観察した経験が反映されている)。やはり、なんにせよ物事はそう単純には捉えられないのだ。巌勝の縁壱への感情と同じくらいには複雑で、一筋縄ではいかないのである。作中で黒死牟は、縁壱を直接的に慈しむ言葉を発さない。「頼むから死んでくれ お前のような者は生まれてさえ来ないでくれ お前が存在しているとこの世の理が狂うのだ」(単行本20巻 p.172)と拒絶するばかりである。老いた縁壱の死体の懐に、かつて自分が与えた古ぼけた笛を見つけたときも、落涙しつつ「私はお前が嫌いだ」(単行本20巻 p.185)と明言する。しかし、黒死牟が弟への慈愛を持ち続けていることは、読者には火を見るよりも明らかである。捨てきれない愛は黒死牟にとっては歓びなどではなく、忌むべき呪縛であったとしても。
本章の二次創作小説中で、寒い日に兄弟が一つの布団で寝たというのは、最初から最後までわたしの空想である(追記2)。七歳以前の継国兄弟は、おおよそこのような交流を行っていただろうと、想像している。
冬なのに縁壱の身体が温かいのは、先天性の痣者で体温が高いからだが、当時の巌勝はまだそのことを知らない。結局のところ、特異体質の縁壱には、毛布も温石もさほど必要ではなかったのだ。長じた巌勝はそれに気づいているからこそ、この思い出は恥辱の記憶として分類されているのである。
巌勝は幼少期より、「この国一番の侍になる」という夢を持っていた。そのために剣技を磨き続け、痣の呪いの寿命制限で鍛錬の時間が残り少ないと見るや、鬼になってまで時間を確保して、実に四百年余も夢を貫き通した(し、これ以上は侍でないと悟ったところで自裁に近い形で死におおせた)。彼が思い描く「日本一の侍」が具体的にどのようなものか、はっきりとは語られないが、剣技だけの話でないのは作中から読み取ることができる。縁壱への嫉妬が生じたのは縁壱の圧倒的剣才を見てのことだが、決定的に「嫉妬で全身が灼けつく音を聞いた 縁壱という天才を心の底から憎悪した」のは亡母の日記を読んで、自分が気づかなかった母の病に縁壱が気づいて身体介助していたことを知ったときである(単行本20巻 p.170)。つまり、縁壱の人格面・ケア能力にも嫉妬している。巌勝が思う理想の侍像には、刀の腕が立つことは当然第一に大事だが、人格に優れることも含まれていることが察せられる。
だから鬼殺隊は剣技向上目的で入ったとはいえ、入ってしまったからには個人的な鍛錬だけに耽溺することはなく、それなりの責任感をもって任務に当たっていたとわたしは解釈している。周囲の隊士たちとも不仲ではなかったはすだ。元来お喋りな性格ではないだろうが、話芸の一つもなければ武家の当主は務まらない。信望はそこそこ厚かったのではないか。そんな解釈は第一章の二次創作小説にも反映させて、お館様の口から巌勝を褒めさせてみた(しかし巌勝はそれを「無駄話が過ぎる」と遮ってしまうのである。やはり、まずは弟以上に刀の腕が立たなければ、巌勝は自分自身を認めることができないのである)。
黒死牟となってからも、無惨の配下の序列壱番として鬼たちを取りまとめるのは性に合っていただろう。『鬼滅の刃』において黒死牟の初登場シーンは単行本十二巻九十八話で、上弦の弐・童磨と参・猗窩座の小競り合いを、序列の乱れに繋がるとして諌める姿が描かれる。のちに鬼舞辻無惨に次ぐ強敵トップ三として鬼殺隊を苦しめる上弦の壱・弐・参が一堂に会するのはこの場面が初めてで、ほんの短いやり取りに三人の個性が見事に凝縮されていて深い印象を残す。黒死牟は元武家嫡男として序列に厳格である。「序列の乱れ……ひいては従属関係に皹(ヒビ)が入ることを憂いているのだ…」(単行本12巻 p.31)と重々しく告げ、上の立場の侍たる威厳を発揮する。上弦の弐・童磨もまた幼少期から新興宗教の教祖として崇められてきた身であり、人の上に立つことに慣れているが、信者をケアする役割を担ってきたので態度は柔らかい。「上に立つ者は下の者にそう目くじら立てずゆとりを持って」(p.32)と、威厳よりも寛容でもって応える。そして上弦の参・猗窩座は、江戸時代の町人の貧困家庭出身であり、立場も礼節も知ったことではない。丁寧語も使わず、参の立場から弐の童磨を殴りつけ、壱の黒死牟には「俺は必ずお前を殺す」(p.34)と吐き捨てる。黒死牟は、猗窩座の童磨への態度は諌めるが、自分への態度には寛容で、「そうか…励む…ことだ…」(p.34)と期待を込めた言葉をかける。ここは無礼云々より、威勢のいい若い強者に挑まれる喜びが勝つ。黒死牟はやはりどこまでも剣士なのだ。
一連のやり取りを経て童磨は、「何だか俺は会話に入れて貰えなかった気がするのだが」(p.35)と苦笑する。この疑念は的中しており、実は一連の流れは童磨の台詞を全部無視して読んでもそこそこ会話が成立してしまう。表層的な物腰こそ柔らかいが得体の知れないところがある童磨は、上弦の同僚たちからは敬遠されているのだ。無惨も童磨を気に入っておらず、公式ファンブックでは「あんまり好きじゃない」(p.123)と低評価である。しかし、壱弐参のやり取りの直前の、上弦の鬼五人が無惨に説教を食らうシーンを振り返ると、童磨がいてくれたことで多少空気が柔らかくなっているのがよくわかる。仮に童磨がいなかったとすると、空気は本当に最悪である。無惨はおかんむりだし、黒死牟は訥弁で、猗窩座は戦闘時は饒舌な気質だが「無限城にいるときは基本的に無口」(公式ファンブック p.103)である。半天狗は自分の世界に入り込んで無闇に怯えるばかりで、気遣いある立ち回りなど期待できない。玉壺は余計なことを言って無惨の機嫌をさらに損ねている。元より説教のために招集されているので明るい空気になるはずはないのだが、せめて童磨がへらへら笑っていてくれないと、本当に目も当てられない雰囲気になっていたはずだ。やはり童磨はこの場に必要な人材であったのだ。童磨がここまで読んで意図的にラフな態度を取っていたのかは、定かでない。
すでに述べた通り黒死牟は「ケアする男」であるが、童磨もまた、新興宗教の教祖として悩みを抱えた信者の話を傾聴するという、実質的なケアワークを長年務めている「ケアする男」である。そして猗窩座も、幼少期は病身の実父を、青年期にかけて恋人を献身的に介護し、人間時代の時間の大半をケアワークに捧げた「ケアする男」である。上弦の鬼トップ3が全員「ケアする男」であることと、その上に立つラスボス鬼舞辻無惨がケアなしでは生きられなかった病者であることについては、追々検討する。
なお、この黒死牟初登場話での黒死牟の初台詞は、「私は…ここにいる……」である(第12巻 p.17)。I am here. 、これは、最もシンプルな存在意義《レゾンデートル》の名乗りとも捉えられる。思えば継国巌勝は、四百年余の人生を存在証明にかけてきたのであった。人間はアイデンティティの束である。望ましくないアイデンティティを返上し、望ましいアイデンティティを獲得しようとする普遍的な人間心理を存在証明といい、社会学者の石川准は〝proving self-worth〟と英訳した(註2)。自己価値を証明する、と直訳すれば、その重みがわかる。継国巌勝は、弟に剣才劣ったことで、この国一番の侍という憧れのアイデンティティへの道を齢七歳にしてくじかれた。そこから紆余曲折の四百年余が始まるわけである。巌勝はその後、「継国家当主」「妻の夫」「二児の父」からの「鬼狩りの月柱様」などのアイデンティティを(決して楽々とではなく、それなりの努力を積み重ねて)獲得する。戦国の武家当主は下剋上にてそのポジションを狙われるくらいには価値あるアイデンティティであるし、妻子からもそれなりに慕われていたことは原作から読み取れる。鬼殺隊の月柱もまた、非常に誉れ高いアイデンティティである。それでも巌勝は満足することができなかった。剣技において縁壱を超えられていないからである。縁壱を超えなければ、この国一番の侍にはなれないからである。
ここでもやはり、継国巌勝を考えるにあたって避けられない疑問に立ち返ることになる。継国巌勝が、この国一番の侍というアイデンティティただ一つに最期の最期まで執着したのは、そもそも彼の自由意志だったのかという疑問である。武家の男性のレゾンデートルとタフネスが不可分に結びついていた戦国時代に、武家嫡男という立場で弟の後塵を拝したことで、こじらせて執着してしまっただけではないかと。この疑問には、巌勝自身を含め、もはや誰も答えられないだろう。本書の二十八万字はすべて、この答えられぬ問いにわたしなりの答えを叩き出すために捧げられている。
鬼狩り時代の巌勝と縁壱は、むしろ縁壱のほうが、剣技にはめっぽう強く好青年でもあることは間違いないものの、組織全体を見る目を欠いていた(能力自体がないわけではないが、発想に至らない)のではないか。これも兄弟の、成育環境の差に伴う役割意識のすれ違いである。のち第九章の二次創作小説ではそんなわたしの解釈を反映して、柱としてのふるまいがこなれない縁壱と、本当は弟の顔を見るのも嫌だが兄としての義務意識から説教してやる巌勝を描いている。
『鬼滅の刃』の中で、継国巌勝/黒死牟が担った重要なケアワークは二個ある。一個目のケアが本章で示した、幼少期の縁壱の育児である。そして二個目のケアは、無惨の介護である。奇しくも継国巌勝は、史上最強の正義の剣士・継国縁壱の育児と、史上最強の悪の鬼・鬼舞辻無惨の介護という、対極のケアに従事して、『鬼滅の刃』の根幹を成す重要登場人物二人を支えたのだ。
二個目のケアは次章にて扱う。奇しくもこれもまた、ヤングケアラー的な立場からのケアであった。
【追記1】
錆兎の台詞は直接的に・言語による・即座の反論はなされなかったものの、作中で間接的に批判的検討・相対化されているとする読解は可能である。よって、この台詞のみを根拠に『鬼滅の刃』の世界観を旧弊であるとするのは拙速である。鬼滅世界のジェンダー観については、河野真太郎や杉田俊介など、男性学の専門家による論考がすでに蓄積されている。
【追記2】
現実の日本史で綿入りの布団が普及したのは江戸時代以降だが、作中では巌勝も縁壱・うた夫妻もふかふかの布団で寝ているので倣っている。『鬼滅の刃』は時代劇漫画だが、あくまでファンタジーであるので、史実と齟齬があるのは当然のことである。とりわけ戦国時代パートは、大正時代パートよりも著しく史実と乖離している。たとえば、中世の日本には装身具の文化がほとんど存在しない。よって縁壱がピアスをつけているのは完全なるフィクションである。ほかにも、痣者が二十五歳までに死ぬ呪いにかんして、現代人は柱たちが誕生日前後に急死する光景を想像してしまうが、当時の加齢の概念は満年齢方式ではなく数え年方式である。近代的な戸籍制度もないので、そもそも自分の生年月日を把握している者がほとんどいないはずだ(誕生日を祝う風習も定着していない時代である)。そんな中で、鬼狩りたちが「二十五歳で死ぬ」という法則を見つけ出すのは現代人が想像するよりも困難と思われる。まさか、数え年方式における加齢のタイミングである正月に一斉に死んでいたわけでもあるまい。
【註1】出典:『ヤングケアラー わたしの語り 子どもや若者が経験した家族のケア・介護』p.3、澁谷智子編、生活書院、2020年10月初版第1刷発行、2021年2月初版第2刷発行
【註2】出典:『アイデンティ・ゲーム 存在証明の社会学』p41、石川准、新評論、1992年7月第1版第1刷発行、1997年11月第1版第4刷発行
鋭意作成中!
ご期待ください!!
次の文フリ東京に間に合わなくても次々回には出したいです!
収録予定の二次創作作品の一部は、pixivでも読むことができます。性描写を含むR-18作品については、未成年は閲覧禁止です。
本についてや文学フリマ東京41について、最新情報はSNSで随時更新しています。
🌙『月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』
— 呉樹直己🐢さ41-42 (@GJOshpink) 2025年11月13日
鬼滅の刃の鬼・黒死牟を、批評的言語と二次創作的想像を横断して語り尽くす28万字
2025年11月23日(日) #文学フリマ東京 41
【さ41-42】にて販売
予定価格2000円・障害者割あり
デザイン @kani_pepsi pic.twitter.com/pQVZUau02l
『月魄最佳 鬼滅の刃・黒死牟/継国巌勝批評×クィア男性学エッセイ×二次創作小説集』#文学フリマ東京 #文学フリマ東京41
— 呉樹直己🐢さ41-42 (@GJOshpink) 2025年11月13日
人気漫画『鬼滅の刃』の敵キャラの一人である上弦の壱・黒死牟/継国巌勝を、フェミニズムの視点から検討する批評エッセイ。筆者の男性ホルモン治療の経験を切り口の一つと
して、作中屈指の「“男” をやり損ねた男鬼」であり、主人公・炭治郎と並ぶ「ケアする長男」であった継国巌勝を多様な角度から読み解く28万字です。
— 呉樹直己🐢さ41-42 (@GJOshpink) 2025年11月13日