敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

今・そこにある・抑鬱

 

 

 

 曇り空と丘陵。

 

 

抑鬱とはなにか。どんな感覚か。人によると思うが、わたしのそれは、骨がばらばらになりそうな激しい疲労感として顕現する。

 

身体が動かなくなる。手が、足が、わたしの意志の制御下から外れたがる。わたしの身体以外の、もっと適切な場所に収まりたがっているかのように、抗いがたく、離れていこうとする。当然、わたしはそれを許さない。肉体の構造上、許すことはできない。相反する力が絶えず身体を引き裂き、わたしはいま・ここに・じっと・いるだけで消耗していく。積極的な希死念慮とは別に、この疲労感から逃れるためならば容易に死ねるだろうなという確信が脳をのっぺりと覆い、それ以外の思考を妨げる。

生きているだけでいい、というフレーズが色彩を失うのはこんなときだ。生きているだけでいいのは本当だとしても、生存につきまとう義務は誰も代わってくれない。

 

疲れをいっとき忘れていられる瞬間はなくもないので、その隙を狙って日々の義務を果たしたり、楽しみを享受したりする。いっとき忘れていられるだけで、消えることはない。もう何年も。

疲れていないころの感覚はもはや思い出せない。わたしが生み出した幻なのかもしれない。桟橋の突端に輝く緑色の灯火、ゆがめられた記憶、いつわりの希望。であればなにと比べて、いつと比べて、わたしは疲れを感じているのか。思い出せないくらい昔の感覚にまだしがみついているのか?

 

壊れた脳は戻らない。らしい。

それはもうわかったから、諦めたから、せめていまの脳に適合させてくれ。疲れを疲れと感じさせないでくれ。これがいまのわたしの限界であるなら、それを10割の力だと思っていたい。あったかもわからない昔のわたしを10割であると感じて、いまのわたしは5割・6割・7割であると、うっすら残念に思い続けるのはもうたくさんだ。小さな失望に日々刺され続けるのはもうたくさんだ。

 

もうたくさんだ!