敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

2020年9月の眩暈

 

 

 

昔、小さなお客様を接客するバイトをしていたことがある。

 

クピドの石像。

 

保護者に手を引かれてわたしのもとを訪れる幼児たち・児童たちは、あの年ごろ特有の烈しい熱気を放っていて、ちょっと会話するだけでそのエネルギーにあてられて眩暈がした。

幼い子どもは、顔つきや身体つきには直線的なところが少なく、どこもかしこもまろみを帯びているのに、どこか鋭角的に切実に、世界に対して存在感を主張している。存在に気づいてもらわなければ、世話をしてもらわなければ、愛してもらわなければ生きていけない時期特有の、無意識の生存戦略としての愛嬌。わたしも、昔はこのようだったはすだ。父母にいだかれて、無邪気に笑っていたはずだ。

 

存在を主張しなければ生きていけない―― 黙っていたら強制的に “健常” の枠に組み込まれて轢き潰されてしまうから―― という点に限って言えば、わたしはいまも幼児に近いところにいる。愛くるしさを無意識に振り撒く機能だけが、歳相応に退化した。 だから、意識して笑顔を作る(もちろんこれは、広義の笑顔。成人の愛嬌は、必ずしも実際に笑うことを意味しない)。意識して微笑み、人畜無害であろうとする、あるいは、少しでも有益な存在であろうとする。こんにちは、善良な障害者です。あなたを脅かしません。だからわたしを放っておいてください。でも福祉とかは放っておかないでください。網目に引っかからせてください。

 

 

無意識の生存戦略と書いたが、わたしのもとを通り過ぎていった彼ら彼女ら全員がそうだったとは思わない。10にもならない年齢にしてすでに、意識的な生存戦略としての愛嬌を会得していた子もいたはずだ。そのように振る舞わざるを得ない事情を抱えた子が。二言三言会話するだけのバイト店員は、愚かにも気づけなかっただけで。

 

彼ら彼女らの顔は思い出せない。

みな一応にまるく、柔らかく、可愛らしかった。まったくの天真爛漫に見えた。

まるい身体の内にあったかもしれない鋭角な哀しみは、わたしには一向に伝わらなかった。

 

あのとき、わたしに受け取られることはなかった哀しみたちを想う。

その後、誰かに見い出され、受け取られただろうか。 

 

 

 

19歳くらいのとき、Twitterの、いわゆる “リア垢” のハンドルネームを「介助犬」にしていた。すると、親しい大学の先輩にさりげなく、しかしきっぱりと告げられた。「わたしはきみに、自分を犬だなんて言ってほしくない」と。「きみの実家に、自分を犬だなんて言わせるものがあるのだとしたら、わたしは悲しい」と。

今月、わたしは誕生日を迎える。わたしが19歳だったときの、その先輩の歳に並ぶ。20と数年ーー いざ達してみれば、たいして大人な年齢でもないではないか! それでもあのときの彼女は、19歳のわたしにとっては、紛れもなく大人だった。

 

 

これまでに歳上の人たちから数限りなく受け取ってきた、 有形無形のギフトを想う。 わたしの中に蓄積されたそれらは、まだ役割を終えていない。わたしの体内だけに留めておくのではなくて、わたし以外の誰かに受け渡したときにはじめて、それらは天寿を全うしたと言えるのだと思っている。

 

継承の方法を考えている。

わたしに降り注いだ恵みを活用した上で、わたしなりに社会に還元する方法を考えている。

少しずつ実行しているつもりでもある。そういうことを考えるべき年齢になりつつあるのだから。こんなわたしでも、ガワだけは。