野放図で混沌としているさまを指して「獣のような」と形容されるのを見かけるが、実際の獣を見ていると、その動きは驚くほど規則正しく洗練されており、混沌からは程遠いと感じる。少なくとも、わが家の小さな獣はそうである。
小さな獣は、その小さな頭で決定したルーティンを守って生活しており、決して無駄な動きはしない。
最近の猫は、夜は先生(同居人)のベッドで眠る。当の先生は睡眠障害を抱えているのでソファで呻吟してすることが多く、ベッドはめったに使わない。先生が使わないベッドを、猫だけが独占している状態である。
しかし、せっかく独占状態であるのに、猫が眠るのは広いベッドの端っこである。悠々と真ん中で寝てもいいのに、落っこちそうな端っこで丸まっている。いつも同じ場所で眠るので、猫の定位置には抜け毛がたくさんついている。
朝6時か7時ごろ、先生とわたしが起きだして朝ごはんを食べていると、物音を聞きつけて猫も目を覚ます。猫には通うべき仕事も学校もないが、人間に合わせた時間に起きてリビングにやってくる。リビングに入ると次にキャットタワーに上るのだが、リビングの扉からキャットタワーに直進するのではなく、先生がテーブルについているときはほぼ必ずテーブルの下を経由する。わざわざ遠回りをして、先生の足元を通過するのである。膝に乗るでもなく、うにゃうにゃと鳴きながらただ通過するだけ。先生も、たまに手をテーブルの下にやってちょいちょい撫でたりするが、大方は無視している。
朝7時から10時ごろまでは、わたしの部屋の窓際で過ごす。カーテンをめくると、細い桟に器用に横たわっている。
この時間帯の朝日が好きなのかもしれないが、曇りや雨の日でもいるので、必ずしも日光浴が目的ではないらしい。わたしが窓際の机についていても、ついていなくても、関係なく窓際にいる。
10時ごろ、先生がリモートワークを始めると、猫は先生の仕事部屋に移動して、キーボードとモニターの間に横たわる。先生とわたしはこの動きを「邪魔」と呼んでおり、「今日も猫が邪魔してるね」と会話している。キーボードを踏んで余計なキーを押したり、Web会議のカメラに映り込んだり、ひとしきり邪魔活動にいそしむ。
これらは先生が撮影した写真。毎日来るものだからデスクは抜け毛だらけである。
しかし、先生が出かけている日に誰もいない仕事部屋でパソコンの前に座っているのも見たことがあるので、必ずしも先生を邪魔している意識はないのかもしれない。
日中の動きには多少のバリエーションがある。餌を食べて糞をひり出して、またベッドで丸くなるか、先生の寝室の窓際で寝ていることが多い。冷房の効いた部屋から出て、わざわざ暑い廊下で伸びていることもある。
わたしの部屋のキーボードとパソコンの間に横たわることもあるが、これは先生を邪魔するのとは違って毎日はやらない。
人間がリビングにいると、やはりリビングに来る。猫は抱っこも嫌いで、さほど人間にべったりというわけではないのだが、人間が会話をしていると混ざりにきてうにゃうにゃと喋ることが多い。
先生と暮らしはじめて7年、わたしが加わって4年、猫語が通じたことは一度もないだろうに、いまだにお喋りしてくれるのは驚きである。7年も通じなかったら普通諦めませんかね。とはいえ、誰もいない部屋で鳴いていることもあるので、必ずしも人間に話しかけているわけではないのかもしれない。
19時に夕食である。わたしが作り、先生とわたしが食卓につくと、猫もやってくる。寝ていたのだろう、目をしょぼつかせている。食卓に上って、われわれが食事をするのを眺めてくる。
猫は人間の食べ物にはあまり興味を示さないので、誤食を警戒する必要はない。魚、とりわけ鰹節には多少寄ってくるが、手で軽くガードしておけばじきに諦める。あまりしつこく狙ってくることはない。
夜は先生がリビングで過ごすのに合わせて、猫もリビングで自由にしている。寒いときは人間の膝に乗る。
そして深夜に先生の寝室に移動して、猫も寝静まるのである。
明らかにわれわれ人間に合わせて決定されたルーティンであるが、普段の猫には人間に寄り添うようなウェットな気配は薄い。たとえこの家に誰もいなくて廃墟であっても、ただ一匹で超然と同じような過ごし方をしているのではないかと感じられる。もちろんそれは錯覚で、人の手が入らない住宅での暮らしは当然トラブルだらけであろう。猫トイレには糞が積み上がり、餌もなく、台風が来て窓が割れたり雨漏りがしたりして部屋 が水浸しになるかもしれない。猫が規則正しい生活を送ることができるのは、先生が労働をして金銭を稼いで、わたしが掃除や洗濯をして、猫を含めた三匹の生活環境の維持につとめているからである。
平穏とは、持続することだと思う。持続的でないものにはいかなる安心も生じない。
だから人間は、金銭に窮して明日の飯の保障を失ったときに精神の均衡を崩す。
鬱もそうである。過去の鬱ではなかった自分と深い亀裂で隔てられ、未来の鬱が治った自分も見出せず、ただ苦痛に満ちた現在に縫い留められるとき、人は崩落する。現在が断章としてある限り、鬱は現在の中核に居座り続ける。
鬱を、自分とはまったく関係のない不可抗力の災害のように捉える考え方もある。切り離して考えることで無用の自責を回避し、回復をみた人もいるだろう。
しかし、ある種の長期的・慢性的な鬱においては、「鬱ではない」自分と鬱の自分に連続性を見出してはじめて、人は回復のとば口に立てるのだとわたしは思っている。
内なる連続性は、日々の暮らしの中で形成するものである。明日の胃腸を思って今日脂ものを控えるといった、小さな行動の積み重ねが平穏を作る。天気予報で午後の天気をたしかめて、午前に傘を持って家を出るのもそうだ。われわれは、一度切り裂かれたおのれの亀裂を、日々の生活でもって埋め続けているのだ。
猫と、先生と、今日も暮らしている。昨日の延長としての今日、今日の延長としての明日を生きている。生活を試みている。
なんの捻りもない猫動画をYouTubeに上げたら、なぜか1.2万回再生されてしまった(ほかの動画は100再生ちょっとなのに)。よかったらチャンネル登録してください。