敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

美しき葛藤と「本物の男」

 

 

 

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フェミニストとしてあるまじきことなので早急に修正したいのだが、個人的に好感を抱きがちな人物の類型を「本物の男」と形容したくなるバイブスが正直あり、マジで早く修正したい。男尊女卑社会においては「善い」とされている性質が男性ジェンダーに優先的に紐づけられてきたという構造的な問題の影響はあるにせよ、さすがにグロすぎるのでもっと別の褒め言葉を使いたい。これではやばいミソジニストと思われても仕方がない。どちらにせよ、他者に面と向かって口に出したりはしてませんが。

 

 

 

たとえば、精神科医をやっている友達で、患者の尊厳と向きあう自らの理念により血肉を通わせるために、現在従事している外来診療の仕事ではなく、身体拘束とかが選択肢に上がってくるもっとエクストリームな現場に異動を検討している人がいる(もちろん理由はこれだけではないのだろうが)。この人は本物の男だと思う。この人は男性である。

ほかには、難関大を卒業後、某チュアをはじめとするハイエンドな職場を経験してきた友達がいる。いわゆるバリキャリで、いわく「人間よりもかなり猿寄りの仕事」「野蛮な現場」の、生半可な人文の作法など入り込む隙のない激・資本主義を是とする場に日夜身を置いている。職場ではいわく「自分も詳しいわけではないのに周囲がやばすぎて一人フェミニズム騎士状態」で、本来の業務の傍ら、炎上必至マターを世に出る前に食い止める善行に従事しているらしい。この人も本物の男だと思う。この人は女性なので、本物の男概念はジェンダーを問わない。ちなみにわたしはこの友達と常々、二人で『サンクチュアリ』になって世の中を変えたいねと言いあっている。華やかなキャリアを積むクローズ就労の彼女が浅見千秋、精神障害者丸出しで曖昧に文筆などをしているわたしが北条彰である。

 

 

『サンクチュアリ』、民主主義と選挙への無邪気な信頼とか、令和の今となってはもはやあまりにも現実味がない、1990年代にしか描けない作品でしたね。根っからのオールド極道キャラが「うぬらァ、何をグダグダしてやがる! さっさと選挙に行かんか~~~!!」と怒鳴って、実際に若者の投票率が爆伸びするんですよ。女性描写があまりにもカスすぎるのもさすが90年代である(冒頭4ページでもうやばい。気になる人は気絶しながら読むしかないと思う。だいたい5ページに1回は気絶することになります)。

 

 

 

 

わたしが「本物の男」と呼びたくなるのは、加害性を引き受けた上で行動を起こしている人である。わたしが最近、フェミニズム関係なら女よりも男が書いた文章のほうに惹かれるというこれまたフェミニストとしては最悪っぽいことになっているのも、男性ジェンダーを生きている人がフェミニズムを考えるときに絶対的について回るであろう、おのれの構造的加害性を巡る葛藤に興味があるからだ(葛藤から逃げている人や、そもそも加害性に無自覚な人もたくさんいるが、それは論外)。

末端の現場に余裕があろうはずもない無理ゲーの構造の一部として激務に耐えつつ、倫理を失うまいとする医療者には、葛藤があるはずだ。資本主義的競争の最前線で華々しい成果を出すことを求められつつ、少しでも人倫を発揮しようとするハイキャリアオフィスワーカーにも葛藤があるはずだ。二つの世界を行き来するというのでもない、むしろ二つの世界の裂け目で永遠に途方に暮れている魂の軌跡に、わたしは興味がある。

 

 

 

しかし、内的に葛藤するだけでは意味がない、残念ながら。葛藤はなんらかの形で行動されないことには物事を変えられない。昨今、おのれの加害性を巡るさまざまな葛藤を縷々綴り、その流麗さでもって免罪符とする表現物のなんと多いことか。わたしはこの手の表現にフェミニズム、つまり元来は闘争である変革運動としての意義をほとんど感じていない。この手の表現が輝くのは文学のフィールドではないだろうか。そして言うまでもなく、運動より文学のほうが価値に劣るということはまったくない。どちらも別の次元で意義があり、人を社会を動かす力を持っている。別次元とはいえ無関係ということもなく、互いに影響しあっている。

 

葛藤の末に下された選択、その結果としての行動に、わたしは興味がある。

葛藤しながらも行動をすることは、生身の身体を二つに割って、どちらの世界にも同時に存在することを強いられるがごとき苦行であろう。どだい無理な話だが、無理をこなさねばならないときはたくさんある。無理をしているからこそ語ることができる言葉もある。

引き裂かれた身体の痛みは、おのれの半身の選択によって加害されたひとびとの痛みと響きあう。すでに血に染まり切った手で、よりマシな加害、より納得的な加害を選ぶ、絶望的状況下の絶望的選択。そのような生き方を体現し得る最も卑近な例が「男性」だと思われ、だからわたしは絶望的構造的罪悪のさなかで選択し行動することができる人を「本物の男」と呼びたくなるし、自らもそうありたいと考えている。

 

 

 

 

【お知らせ1】

2024年8月から、YouTube活動を本格始動した。 #政治的なvlog と題した動画日記をコンスタントに投稿している。ぜひチャンネル登録してください。おおむね2分前後、長くても5分程度でさくっと観られる。

 

10.5 パレスチナ連帯デモに行くvlog #政治的なvlog

youtu.be

 

ぐんまレインボープライドパレード2024に行くvlog #政治的なvlog #ぐんパレ2024

youtu.be

 

衆議院選挙に投票するvlog #政治的なvlog #選挙に行こう

youtu.be

 

vlogには、葛藤は映すことができない。vlogで表現可能なのはよくも悪くも(本当によくも悪くも)行動だけである。ごく短い尺、SNS映えを志向した華やかな映像、軽やかなBGMは、言うまでもなく無数の繊細な機微を轢き潰している。轢き潰してでも、この形式で表現することをわたしは選択した。

 

 

 

【お知らせ2】

2024年12月1日(日)に開催される文学フリマ東京39に出店することが決まった。会場は江東区の東京ビッグサイト、ブース番号はL-04。5月の文フリ東京38で販売したエッセイ同人誌『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』に大幅加筆した増補版を販売する。通販も実施する予定だ。気に留めておいていただけると幸いです。

文フリ東京39のイベント詳細はこちら。

 

bunfree.net

 

呉樹のブースのWebカタログはこちら。

 

c.bunfree.net

 

本の内容については改めて告知するので、ひとまずは前回イベント時の案内記事をご覧ください。

 

 

www.infernalbunny.com