敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

ツイートログ001

 

 

 

枯れたアジサイ。

 

Twitterで、思い出したかのように唐突に連ツイすることがあります。独立したブログ記事にできるほどはまとまっていないので、集めてひとまずストックしておくことにしました。自分用の思考メモです。

元ツリーそのままの書き起こしではなく、適宜加筆修正しています。

 

 

「おっさん」

「老害」も「おっさん」も、わたしに無関係なものだとは到底思えない。「おっさん」「老害」と糾弾された経験は今はまだないけれど、それはわたしの努力の成果ではなく、大半は単なる幸運だ。

「セクシストの男性」という意味で「おっさん」とか「ジジイ」とか呼ばれる人を見るのはそろそろ嫌なんだよ。みんな自分だけはジジイにならないとでも思ってんのか? 正しく誠実であることと若いことは何の関係もない。むしろ、未熟な若い視野というものがどれほど愚かか、われわれは知っているはずだ。

「若者」は旧い価値観を正せよと叫ぶけれど、正した先、旧弊な居場所から降りた先が十分に整備されていない限りは、「おっさん」「老害」は個人の信念に拠らず生まれ続ける。インターネットはそろそろ、若者ではなくなった人間の善き生を語ってくれまいか。もう2019年だぞ。いつまでも若者であり続けるという酷な道を全員に強いるのか? 蟄居して自裁して沈黙するという、単なる自罰を、スマートな処世として持て囃し続けるのか? この二択以外にも、善き生のあり方はあるはずだ。

 

元ツイ 2019年1月11日

 

 

 

男の子向けの創作物

女の子が安心して触れられる創作物がないということは、男の子が安心して触れられる創作物がないということとイコールだよなと思う。良識ある男性や、男児を育てる立場にある人の、身近で自然に見つかる娯楽が。

女児向けのカテゴリーに入るコンテンツや、女性の書き手が生きづらさを描いたコンテンツに男性からも共感が集まっているの、それ自体は全然悪いことじゃないけれど、男性の書き手による今っぽいコンテンツはどこ行った? と思ってしまう。バリバリ稼いで女子供を守ってみたいな、いわゆる旧来の「男の生き方」が弾けて以降の、新しい男性の文化はどこに育ってるんだろう。“ボギー ボギー あんたの時代はよかった” と沢田研二が歌ったのは1979年のことですよ。阿久悠は昭和50年代を “男性評価のデフレ” の時代とした上で、皮肉を込めて「ハードボイルド」な男の哀愁の歌を量産していたわけだが、では皮肉ではない、真に素敵な男の生き方はどこにあるのか。男の痩せ我慢は40年前ですら「古い生き方」だったんだよ。そもそも「男の生き方」「男のロマン」と言われるものが得てして、滅びゆくものに独りで殉じる……みたいなやつで、「時代に取り残されること」自体が男性文化のお家芸のひとつなのも感じるが、そろそろ次の景色があってもいいんじゃないか? 旧来の男性ジェンダーに乗れない男の子たちは確実に増えている中で、彼らの「降りた先」を「女の真似事」としか形容できないのは、男性にとっても女性にとっても不幸なことだ。

ジェンダーレス男子という生き方も注目を浴びつつありますけど。ジェンダーをレスするくらいの勢いでなければ、りゅちぇるみたいにメイクでもしなければ、男性は新しくなれない? そんなことはないはずだ。

 

元ツイ 2019年5月29日

 

 

 

レディースショーツ

ショーツは安物でいい派なんだけど、安いショーツの前側によくついてるちっせえちょうちょ結びのリボンは何なんだ?  あれがついてるだけで憤死できるほどダセえ。

黒無地でレースなしのショーツが欲しいだけなのになんでこんなに探し回らなあかんの? レースなしのはスクールガール向けっぽい清楚(笑)なパステルカラーが多いし、黒のは大人向けのセクシー(笑)なレースつきが多い。レースなしのレディースショーツはほぼ皆無と言っていいくらい少ない。サニタリーショーツにまでレースついてるのマジでどういうことですか? レースついてると感覚過敏には本当につらいのよ。あと、レースは精神的にもキツいです。他者の――異性の――視覚的快楽を優先したい気分のときがあるとしても、そのタイミングはわたしが自分で選びます。日常的に身に着けるものは、わたしの身体の快適さを第一そして唯一の基準として選びたい。

安物のレディースショーツの前側の99%についているちょうちょ結びですが、前後の区別を容易にする目的では? という意見を頂いて目から鱗でした。こういう立体的なマークだと、目が不自由な方でも手触りでわかりますね。それにしてもダサいとは思うが……。

 

元ツイ 2021年1月13日

 

 

 

「カウンセリングに行け」という常套句

たとえば精神障害を抱える被虐待児にシェルターに駆け込めとは安易に言えないように(わたしは当事者ではないので知ったような口は利けないけれど、少し調べたら、障害児にとってその手のシェルターが必ずしも静穏な場所ではないことはすでに証言がある)、この国のカウンセリングやアンガーマネジメント研修がどれくらい成熟・機能しているのかわたしは知らないので、カウンセリングの場を犯罪者のゴミ箱にするかのように「カウンセリングに行け」とは言えない。ヘイトクライム犯や、ハラスメントの加害者、あるいはいわゆる「インセル」の男性に対して、自分はそうではないと自認する人たちが、切断処理をするかのように投げかける「カウンセリングに行け」は、カウンセリングとやらの実態をどれほど把握した上で投げかけられているのか。真の意味で「専門家に任せるべき」と判断しているのではなく、問題の社会的側面を引き受けることを厭い、夾雑物を排除しようとする向きに堕してはいないか。

被害者個人が加害者のケアをする必要はもちろんありません。しかしそれはそれとして、加害者もまた、過去においても未来においても同じ社会を生きる連続した存在のはずです。「わたしたち」とまったく異なる怪物ではないし、誰でも加害者になり得る。切断処理していい存在ではない。

 

元ツイ 2021年1月23日

 

 

 

バイアグラとアサガオ型小便器と精通

日本においてバイアグラの承認が経口避妊薬よりもスムーズだったことは当然男尊女卑の結果なんだろうけど、同時に男性身体の頑健さへの過信のようなものも感じる。副作用も健康被害もあり得る薬剤を異例の速さで認可するなんて、男性身体は優遇はされても決して大切にはされていない。

バイト先で男性用トイレを掃除していると、あのアサガオ型小便器みたいなプライバシーもなにもない場所で用便という究極のプライベートを済まさせている限り、男性が自分を(そして他人を)ケアするなんて難しいんじゃないかと思えてくる。
あと、男性は精通を迎えてもショックと混乱の中で汚物処理のごとく秘匿せざるを得ないのも胸が痛む。ローティーンにしてすでに、男性は自分の身体を尊ぶ営みを封じられている(もちろん、女性の初経が赤飯で祝われるのは性役割の刷り込みという差別の一種であって、女性優遇の証ではないが)。

よくも悪くも自分の身体と向き合わざるを得ない女性に比べて、男性の身体性のなんと希薄なことか。

 

元ツイ 2022年2月3日

 

 

 

「理解のある彼くん」

“理解のある彼くん” に頼らずに困難を乗り越えた語りが増えてほしいという気持ちはわたしにもあるし、理解できるけど、わたし自身の体験を「彼くんは出てきません!」とことさらに注釈つけて意気揚々と差し出すことはしたくないのよな。彼くんの有無を取り沙汰する土俵にそもそも乗りたくない。“彼くん” を揶揄する向き、自己責任論とミソジニーの悪魔合体ですからね。それに、理解ある彼くんは出てきません! って予防線張って出したとて、でも理解ある友達が・血縁者が・上司が・同僚が・主治医がいるだろ、と切断処理されるだけに決まってるしな。そんな土俵に乗ってたまるかよ。

 

元ツイ 2022年6月2日

 

 

ルッキズム

いわゆる美形ではまったくなく、不器量ではあるのだけど、派手髪が似合うこと、背が高めなこと、骨太の痩せ型でスタイリッシュな印象を与えやすい身体つきであることなど、トータルの雰囲気で美しい人に寄せることが可能な容姿は持っており、得をしてきた自覚もある。

思うに、他者に褒められる経験よりも「効く」のは、ショーウィンドウにふと立ち姿が映ったときとか、何気ない瞬間に「あ、今日もイケてる」と思えてきたことだ。日々のポジティブな経験の積み重ねは、ルッキズムが横行するこの社会において、わたしの自己肯定感を高めるのに寄与してきた。それを認めなければならない。

容姿で得をしてきた側・容姿にコンプレックスのない側から語るルッキズム、ぼちぼちやっていきたいですね。

 

元ツイ 2022年11月26日