敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

『生活の批評誌』様に寄稿させていただきました【5/29文フリ東京】

 

 

 

樹々と陽光。

 

お知らせです。

「生活」と「批評」を隣り合わせにすることを目指すライフスタイルマガジン『生活の批評誌』さまにお声がけいただき、第5号にエッセイを寄稿させていただきました。

来たる第三十四回文学フリマ東京にて初頒布されますので、お近くの方はぜひお買い求めください。

 

◆詳細◆

第三十四回文学フリマ東京

日時:5/29(日)12:00〜17:00

場所:東京流通センター 第一展示場 東京モノレール「流通センター」駅から徒歩1分 

ブース:テ-11

価格:1,400円(悪税抜き)

 

文フリ公式サイト▼

bunfree.net

 

『生活の批評誌』編集部さまの告知ページ▼

seikatsuhihyou.hatenablog.com

 

文フリ終了後は、全国の個人書店に委託販売されるそうです。今後の大阪文フリなどでも頒布されると思われます。詳細は『生活の批評誌』編集部さまの公式Twitterで告知されます。

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

生活の批評誌no.5のタイトルは、『「そのまま書く」のよりよいこじらせ方』という。タイトルに込められた意味は、上記告知ページに掲載されている編集長・依田那美紀さまの序文をお読みいただきたい。

寄稿のご依頼をいただき、企画書を一読した時点で、わたしの中には「自分語り」「ケアの倫理」という二つのテーマが浮かんでいた。

 

「隙あらば自分語り」という言葉を覚えたのはいつのことだっただろうか。ある程度年季の入ったインターネットユーザーなら知らない人はいないフレーズだろうが、一応説明しておくと、匿名掲示板において、本来の話題を遮ってわたくしごとを語る行為を揶揄したフレーズである。理由などなくとも人に撃たれる戦場のようなインターネット空間において──2022年5月現在のロシア・ウクライナ情勢を鑑みるまでもなく、戦場という比喩は軽々しく使うべきではないが、天災に似た惨禍でありつつ確かに人の意志でもって引き起こされ、人の尊厳を奪い、死に至らしめるという点においてやはりインターネットは戦場なのだ──わざわざ叩かれる理由を作ることは自殺行為である。だから、多くのインターネットユーザーがそうであるようにわたしも、あるテーマに自分語りを絡ませるときは慎重に慎重を重ねるのが習い性となっていた。無意識に自分を抑制し、主観を排した語り口を心がけていた。しかし、そもそもなぜ自分語りは揶揄されるべき行為とされているのか。ここでわれわれは、インターネットに蔓延る太古からの宿痾──ミソジニー(女性嫌悪)の存在に立ち返らねばならない。叩かれるところに女あり。そう、自分語りは「女みたい」な行動だからこそ揶揄されるのである。自分語りを嗤うのは(権力者の象徴としての)男であり、であれば、隙自語なる揶揄を恐れて “自発的に” 口を慎むのは、権力者の側に都合のよい態度なのだ。

 

そして、「女みたい」だから排除されてきたものといえば、ケアの概念が思い浮かぶ。
近代社会は、男性に家庭外における有償労働を、女性に家庭内における無償労働を強いることで発展してきた。このジェンダー構造において、ケアをはじめとする無償労働は、常に劣位のものとされている。個が自律/自立することを尊重するリベラル・フェミニズムの立場からすると、ケア特有の「依存する」「関係を結ぶ」といった価値観は、女性をはじめとする弱者を束縛する旧弊な価値観であるとして批判の対象となる。もちろん、ある側面においてはその批判は正しい。しかし、ケア労働は批判したとて消え去るものではなく、誰かが引き受けねばならないものなのだ。ケアに従事する人間を誇りを以て肯定する倫理がいま、求められているのである。自律/自立という、それはそれで大切な価値観を棄損しないよう、針孔に糸を通すような繊細な議論を積み立てていくさまは、インターネット上のbuzzと相性のよい歯切れのよさ・わかりやすさとは程遠い、そう、傍目から見れば「こじらせた」態度かもしれない。

 

ケアにまつわる自分語り。そうなると、テーマはおのずと決まってくる。そう、わたしの同居人、「先生」についてである。しかし、先生という他者を書くのであれば、事態はわたし個人の自分語りに留まらず、「他人語り」の要素を帯びる。必然的に筆は重くなる。今回の寄稿は、その筆の重さをも “ありのまま” に記した、わたしの葛藤の記録である。“「そのまま書く」ことをなんのためらいもなく称揚するのでもなく、蔑みとも絶対的に距離を取った、「そのまま書く」に対する別の態度(編集長序文より)” の、一つの形と信じて、世に放った。

 

なお今回のエッセイは、先生を語るにあたって「30代兼業作家」という切り口を用いるおそらく最後の文章になる。生身の人間はキャラクターではない。30代の人はいずれ40代に突入するし、作家はいつまでも作家であれるわけではない。先生は去年、正式に廃業届を提出済だし、わたしが語るときの肩書きからも兼業作家という言葉を外すように今しがた頼まれた。

 

エッセイのタイトルは「当世書生気質令和編」という。よろしくお願いいたします。