#文学フリマ東京 39 出店
— 呉樹直己🐢文フリL-04 (@GJOshpink) 2024年11月22日
2024年12月1日(日)
東京ビッグサイト(最寄り駅:国際展示場駅、東京ビッグサイト駅)
ブース:L-04 呉樹直己
イベント詳細 https://t.co/OiHR9g1Scl
Webカタログ https://t.co/kSH41bqrzm
障害者割あり
カンパ制ステッカー販売 売上はパレスチナ支援に寄付🍉 pic.twitter.com/syaTUmKAwn
呉樹直己のエッセイ同人誌『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』について、初頒布される文学フリマ東京39のイベント案内、通販、取扱書店などの必要情報をまとめました。随時加筆していきます。
本文サンプルだけ読みたい方は目次から飛んでください。序章全文、第七章の一部、増補章の一部を公開しています。
1.書籍情報
増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム
A5サイズ、164ページ、1500円(文学フリマ東京会場のみ障害者割1000円。詳細後述)
著:呉樹直己
イラスト&デザイン:斉藤鳩
内容紹介:
鬱・ADHD・ジェンダークィア/ノンバイナリー当事者による、精神障害者ルームシェアレポ、男性ホルモン治療レポ、短歌、+α。クィアネスとメンタル(アン)ヘルス、歴史的には偏見でもって一括りにされてきた2つの概念を、今改めて重ねて語ることから始める反差別実践のオートエスノグラフィ、全13章。文学フリマ東京38にて完売した初版に加筆した決定版です。
序章
第一章 「先生」のこと──わたしは「自立」しているのか?
第二章 生家のこと──わたしは誰のものか?
第三章 もう死にますと泣くおまえにキャスターは見てくださいこの大きな毛蟹
第四章 余命二〇年の猫
第五章 定位家族Sの話
第六章 継承を試みる
第七章 男性ホルモン治療のこと──ネオリベ病院のネオリベ注射
第八章 身体変化の記録──わたしはトランスジェンダーなのか?
第九章 その虹色は誰のためのものか
第一〇章 クィアネスとメンタル(アン)ヘルスを問い直す
終章 濁流を往く同胞へ
増補章 引用参考文献紹介、あるいはクィアネスとメンタル(アン)ヘルスを問い直すためのブックガイド
あとがき
表紙は斉藤鳩さんに描いていただきました。ありがとうございます(下記は初版発行時の投稿)。
イラスト・デザインをチョト手伝わせてもらいました
— 斉藤鳩 (@hellosurvival) 2024年5月2日
大学生の頃から一方的に呉樹さんのblogを拝読していたのでうれしいです
この世で生存を試みているすべての人に、おすすめです
🏢 🐢₎₎←文フリに向かうカメ https://t.co/NVtHbyTxvr
ちなみにわたしのラフはこちら。これがこんなに素敵な表紙になりました。
2.販売イベント案内、障害者割について
文学フリマ東京39
サークル名:呉樹直己 ブース番号:L-04
2024年12月1日(日)12:00-17:00(最終入場16:55)
会場:東京ビッグサイト 西3・4ホール
最寄り駅:りんかい線 国際展示場駅、ゆりかもめ 東京ビッグサイト駅
入場料:1000円(事前チケット or 当日チケット購入)
Webカタログ:
イベント公式サイト:
イベント公式X(Twitter):
【文学フリマ東京39】開催まであと9日!
— 文学フリマ事務局 (@Bunfreeofficial) 2024年11月21日
🕙12/1(日) 12:00〜17:00
📍東京ビッグサイト 西3・4ホール
📚イベント情報→ https://t.co/r1COk2Q0qh
📙チケット(18歳以下無料)▼https://t.co/WNtCbQ4O2l#文学フリマ東京 pic.twitter.com/Fk2FbNzcWH
【12/1(日)開催 文学フリマ東京39】
— 文学フリマ事務局 (@Bunfreeofficial) 2024年11月1日
Webカタログ、オープンです!!
こちらからご覧いただけます→https://t.co/fAf4e5G2Um
事前に「気になる」ブースをチェック!✅
あわせて配置図も公開しました!!
※こちらの配置図は自由に印刷・加工・利用いただけます!告知などにご活用ください!#文学フリマ東京 pic.twitter.com/KK9YQ40zAa
会場バリアフリー情報(東京ビッグサイト公式):
取り置き受付中です。
また、当サークルでは障害者割を実施します。身体障害者手帳・精神障害者手帳・療育手帳をお持ちの方は、通常1500円のところを1000円でご購入いただけます。文学フリマ公式とは関係のない、当サークルでのみ実施する措置です。
性善説運用の自己申告制とし、手帳の提示は不要です。障害者割を利用される方は会計時に「手帳割お願いします」と一声かけてください。なにかを説明したり証明したりする必要は一切ありません。
有名人のサークルであれば嫌がらせ目的の虚偽申告等あるかもしれませんが、当サークルの規模感ではあったとしてもごく少数であろうと判断して運用します。お気軽にお申しつけください。
ブースでは同人誌販売のほか、カンパ制にてオリジナルステッカーも配布します。任意の額をお支払いください。売上は全額、パレスチナ支援に寄付します。
寄付先はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)のほか、わたしが個人的にやり取りしているパレスチナ避難民の方のGFMを予定しています。
イベント終了後ブログとSNSにて、集まった金額と寄付先報告を行うのでご確認ください。
文学フリマ東京39以降のイベント参加は未定です。
3.通販について
BOOTHにて通販を実施します。在庫管理の都合で、通販開始までイベント終了後1週間ほどかかる見込みです。
BOOTHはアマチュア作品に強い通販サイトです。匿名配送が利用できます。
文学フリマ東京以外の場では障害者割は実施しません。どなたも一律料金です。
4.書店販売について
東京都・蔵前の透明書店様にて販売予定です(下記は初版販売時の投稿)。
今日は12〜19時営業です。お待ちしています。
— 透明書店 (@tomei_1111) 2024年5月20日
呉樹直己さん『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』入荷しています。昨日初売の初版はすでに完売(!)とのことです。ぜひ手に取ってみてください。 pic.twitter.com/jDDimCZ0JZ
当店にて取り扱わせていただいている、呉樹直己さん『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』の制作過程や経費などがご本人のブログで公開されています。本をつくることが存在する生活の記録として、読むと自分でも本を作ってみたくなる記事です!https://t.co/ZCn6FfY7OK
— 透明書店 (@tomei_1111) 2024年5月20日
透明書店様では初版発行時もお声がけいただき、今回も取り扱っていただけることになりました。今回はサイン本となります。ぜひお買い求めください。イベント終了後1週間ほどで販売開始される予定です。
透明書店 アクセス:都営大江戸線 蔵前駅 A5出口 徒歩1分
ほかにも取り扱いを検討していただける書店様がおられましたら、gojuo.noir🐢gmail.comまでご連絡ください。
買切6-8割、委託7-8割にて検討中です。適格請求書発行事業者ではありません。
5.電子化・Web再録について
電子書籍化の予定はありません。当面の間、全内容をまとめて読めるのは紙の本でだけです。
丸ごとのWeb再録は行いません。一部であれば、今後のブログ記事等に引用することはあるかもしれません。
6.本文試し読み
サンプルとして、序章全文と、第七章の一部と、増補章の一部を公開します。
目次
序章
第一章 「先生」のこと──わたしは「自立」しているのか?
第二章 生家のこと──わたしは誰のものか?
第三章 もう死にますと泣くおまえにキャスターは見てくださいこの大きな毛蟹
第四章 余命二〇年の猫
第五章 定位家族Sの話
第六章 継承を試みる
第七章 男性ホルモン治療のこと──ネオリベ病院のネオリベ注射
第八章 身体変化の記録──わたしはトランスジェンダーなのか?
第九章 その虹色は誰のためのものか
第一〇章 クィアネスとメンタル(アン)ヘルスを問い直す
終章 濁流を往く同胞へ
増補章 引用参考文献紹介、あるいはクィアネスとメンタル(アン)ヘルスを問い直すためのブックガイド
あとがき
序章
書くことがわたしの使命であると信じて生きている。使命とまで言い切れるのは、自分の能力を高く見積もっているからではなく、自分の状況が恵まれていると知っているからだ。純粋な文章能力だけの話なら、わたしより優れている人はたくさんいる。しかし、創作にかけられる時間的・経済的コスト等をひっくるめた総合的な執筆環境という点ではわたしは随分恵まれているほうで、恵みを余さず活用することがわたしの使命であると捉えている。
恵まれた環境を活用して、いろいろな文章を書いてきた。今のペンネームで出ているものだけでも、二〇一八年から頻繁に更新しているブログであったり、外部媒体から依頼されて書く原稿であったりと数はそこそこ多いのだが、いずれも基本的には一つのテーマに沿った一塊の文章であることに我ながら不満があった。当然といえば当然のことだが、ブログも原稿もタイトルや依頼テーマに沿っている。コスメレビューと題しては化粧品について書き、反トランスジェンダー差別がテーマなら思うことを書き連ねる。しかし、このようなワンイシューの、せいぜい一万字程度の短文を積み重ねても虚しさばかりが募るようになったのはいつのことだったか。クィアと呼ばれる同胞たちの文章なりセルフィーなり、「今ここにいる」という、本人たちからすると切実な叫びであるはずの自己表現に食傷の感しか抱けなくなったのはいつからだったか。この生における毎分毎秒の積み重ねで形成されたわたしという人間を、現時点においてキャッチーで、普遍性のありそうな属性で切り分けて、「不必要」な部分を捨象して提出する作業は、他者が読みやすい文章に仕上げるためにはある程度避けられない。しかし人生で一度くらい、もっと巨視的に、わたしという人間丸ごとを貫く最も広範な倫理を掘り起こすことに挑戦してみるべきではないのか。たとえば「コスメオタク」として語ることも、たとえば「トランスジェンダー」として語ることも、ソーシャルイシューとして提示する際の手つきに求められる「深刻さ」に差はあれど(言うまでもなく、今この社会では後者のほうがずっと「シリアス」である)、わたしという人間のアイデンティティの一部でしかないものを恣意的にピックアップしているという点では同じことだ。そして、現時点において普遍的とされるアイデンティティであれば、先行研究とでも言うべき偉大な先達の語りは膨大な量になり、われら力弱き後輩の語りはそれら既存の語りに容易く影響される。事実として生が多様であることは、語りの豊かさを決して担保しない。現実とは乖離した手前勝手な「あるべき姿」から外れた当事者が中傷に晒される世の中であればなおさらのことだ。わたしが過去に生成してきた自分語りの中にも、ステレオタイプの域を出ないものは多いだろう。
もちろん、属性および付随して想起される既存の語りという補助線を用いずに、生身の人間という混沌とした存在から一本筋を見出すのは、非常に骨の折れる作業ではある。なぜアイデンティティの一部をピックアップし既存の語りを踏襲するタイプの自分語りが飽き飽きするほど流行っているかって、そうするほうがずっと簡単だからだ。そもそもまったくのオリジナルの語りなどというものは原理的に不可能でもある。しかし、ゼロか百かで不可能であるから諦めるのではなく、できるだけ属性および既存の語りに引っ張られない語りをとりもなおさず志向し続けることには、一定の意味があるとわたしは考える。本書は、わたしが人生を通じて断片的に行ってきた生の実践を、一つに統合する試みの未完成な記録である。わたしが二〇一八年から運営しているブログ『敏感肌ADHDが生活を試みる』を加筆修正した再録と、書き下ろしテキストから成る。再録部分と加筆部分は明確に分かれてはおらず、新規テキストに過去の文章を組み合わせるような形になっている。ジャンルはエッセイということになるだろう。本書のタイトルは『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』であり、ジェンダークィアであることと精神障害者であること、二つのアイデンティティを補助線として使用している。今のわたしのポピュラリティでは、数多の書籍の中から露出を獲得するには属性のキャッチーさに頼るのは不可避であると判断された。とはいえ中身は、すでに流布されている語りからは距離を置き、複数のアイデンティティ間を越境するような自分語りを心がけた。心地のよい裏切りのある読書となるように力を尽くしたつもりである。逆に言うと、ホルモン治療の具体的な体験談などは主題ではない。しかし主題ではないとはいえ大事な要素ではあるので、それらを求める人にも楽しんでもらえるだろう。
さて、序章の最後には、わたし自身の自己紹介をしないわけにはいくまい。わたしの名前は呉樹直己という。出生によって日本国籍を取得した日系日本人である、と一応書いておくが、本邦のエスニック・マジョリティであるがゆえに、自らのエスニシティをアイデンティティとして意識することは稀である。脳の認知機能面を除く身体に大きな障害はなく、五体満足で五臓六腑が揃っている。精神科医による診断名は持続性抑鬱障害とADHD(注意欠陥多動性障害)。精神障害者保健福祉手帳三級を取得している。手帳等級の数字からわかる以上の障害の重さの程度を、わたしから明言することはできない。マイノリティとしての苦労話に説得力を持たせるためにはある程度重いと思われる必要があるが、報連相を怠ったり締め切りを破ったりしない程度には社会性があると思われる必要があるからだ。これは、メンタルイルネルを一種のハイプとして用いているわたしのようなタイプの書き手が必ず直面するアンビバレンスであろう。ここにおいて鬱とADHDというアイデンティティはわたし個人のものではなくなり、それを聞いて社会がどう思うか、あなた(・・・)がどう思うかを大いに意識したものになる。しかし、他者の視線を反映することはアイデンティティという概念の宿命であり、本来おかしなことではない。
二〇二〇年から、兼業小説家の「先生」に養われている。先生の診断名は双極性障害で、わたしと同じく精神障害者保健福祉手帳三級を取得している。先生はわたしのブログの読者で、先生から同居を持ち掛けられた時点でわれわれは会ったことはおろかSNSでリプライを交わしたこともなかった。初対面から二カ月後に先生の家に引っ越して、かれこれ四年になる。先生が主に賃労働、わたしが主に家庭内の再生産労働を担う形で共同生活を運営してきた。生活は順調であるともいえるし、心労の連続であるともいえる。先生の目に触れるオープンな文章では前者に力点を置いて語ることが多いかもしれないし、先生の目には触れない親しい友人同士のクローズドな会話においては後者に力点を置いて語ることが多いかもしれない。先生の目に触れるとしても、SNSで短文を呟くのと、本書のような紙の書籍で長文を書くのとではまた違った語りになれる。いずれの語りもわたしの実感としては真実であり、どちらかが建前でどちらかが本音であるといった優劣はない。力点は環境によって調整され、つまりあなたに左右されて表出する。他者であるあなたはすでにわたしのアイデンティティ形成に一枚嚙んでいる。
二〇二二年から一年間、精神科病院にクローズ就労し精神科医療の現場を経験した。労働環境は劣悪で、苛烈なハラスメントが横行していた。べらぼうに高給ではあったが、入職して一週間以内に辞めるスタッフが大半で、一年間に二〇人近くの離職者を見送った。わたしの入社面接をしてくれた先輩も、上司に横領の濡れ衣を着せられて逃げるように去った。上司は、意に沿わない人間に対しては「精神薄弱(せいしんはくじゃく)」「ADHD」「キチガイ」「外人」ほかありとあらゆる罵倒を使った。スタッフが次々辞めるだけではなく、精神科医すら入れ替わりが激しかった。気に入らない書類にコーヒーをぶっかける医師、暴れて診察室のロッカーを破壊する医師、性犯罪の罪で裁判中で改名している医師もいた。そのような環境でたった一年とはいえ勤務した経験は、相応の心的外傷とここでしか得られない知見の両方をわたしにもたらした。よい経験だったとも悪い経験だったとも、今はまだまとめたくない。
二〇二二年から、GID科で持続型テストステロン製剤の注射を今も受けている。これは一般的に男性ホルモン治療と呼ばれるもので、性別違和を持つトランスジェンダー向けの医療的措置である。二年と少し続けて、声は低くなり、肌質は脂っぽくなり、体毛は伸びた。坊主頭にしてからは、外で「お兄さん」と呼びかけられることもある。その変化に喜びを感じつつ、それでもわたしは女性の境遇に留まって生きるつもりでいる。規範から逸脱するにしてもあくまで女性と見なされやすい範囲で、わたしはわたしのアイデンティティを表現していく必要がある。そのことは必ずしも苦痛や不本意ではない。性別違和がありつつも社会的には女性として生きると選んだことまで含めて、わたしのジェンダーアイデンティティだからだ。女性とは出生時につかまされたアイデンティティだが、長じて再度掴み直したのはわたしの意志である。だが、このままホルモン投与を続けて身体が変化し続ければ、社会的に男性を引き受けざるを得ない場面は生じるであろう。今この社会で男性ジェンダーを生きるという重労働が、果たしてわたしに可能なのか、いずれ決断せねばならない。
自己紹介はとりあえず以上である。次章からは、わたしという人間を形成するいくつかのアイデンティティを拾い上げつつ、複数のアイデンティティを横断するような自分語りを試みていきたい。最終目標は、アイデンティティ自体を相対化し、知見として社会に還元することである。試みは完成には至っていない。この本を出したあとも、試行錯誤は続いている。
第七章 男性ホルモン治療のこと──ネオリベ病院のネオリベ注射
東京都・新宿に、IRREGULAR RHYTHM ASYLUM(イレギュラーリズムアサイラム)という書店がある。JR新宿駅から歩くと一五分ちょっと。途中、新宿二丁目を通る。ご存じゲイタウンとして有名で、伝統的にセクシュアルマイノリティの居場所となってきた店が数多く軒を連ねる区域だ。新宿二丁目を抜けた新宿一丁目にあるIRREGULAR RHYTHM ASYLUMは、アナーキズムやカウンターカルチャーに関する書籍が並ぶほか、アナーキストやフェミニスト、人種的マイノリティやクィアなどさまざまなマイノリティの手によるZINEやグッズも取り扱う。最近訪れたのは二〇二四年五月で、イスラエルによるパレスチナへのジェノサイドに反対する有志が作成したプラカードの展示会であった。IRREGULAR RHYTHM ASYLUMではこの手の展示会やワークショップ、上映会、パーティーが頻繁に開催されている。ただの書店ではなく左翼のコミュニティスペースも兼ねているのだ。あらゆる差別・暴力に抵抗し、優生思想に抵抗し、資本主義・新自由主義に抵抗し、国家に抵抗した先にある社会的地平を目指して行動する人々のエネルギーが充溢した場である。東京という、選択肢だけは腐るほどある土地に住むメリットは、こういう稀有な場にアクセスする選択肢をさしたる苦労もなく得られることだ。IRREGULAR RHYTHM ASYLUMのような場は、わたしに抵抗への勇気を与えるとともに、よりによってすぐ近くでわたしが抗しがたく乗っている土俵との落差に眩暈を起こさせる。
わたしがホルモン治療のために通っている病院は、そのIRREGULAR RHYTHM ASYLUMから通りを隔てた目と鼻の先にある。
二〇二二年三月一五日、一本目の持続型男性ホルモン製剤の注射であるテスチノンデポー125mg筋注を受けた。この病院はいわゆるジェンダークリニックではない。白玉注射やにんにく注射や水素水点滴といった、エビデンスの不確かな美容施術と並べてホルモン治療のプランを提示するような個人病院である。やや胡散臭い病院を、あえて選んだ。典型的なGID(性同一性障害)の様相に当てはまらないにもかかわらずホルモン治療を選んだわたしの決断を、誰にも、医師にさえも、口出しされたくなかった。相変わらずバイナリー(男女二元論的)なGID治療ガイドラインがまかり通っているこの国で、曖昧なジェンダーアイデンティティに理解のある医師を探し出して自分のことを説明して説得する迂遠なプロセスを取りたくはなかった。逡巡なら、ここに来るまでに散々している。ドライな、手っ取り早い施術こそを望んでいた。だがそれにしても、問診票の簡潔さには驚いた。GIDに関連する質問は「別の性別であると感じたのはいつからですか(「幼少」などおよそでかまいません)」「男装/女装はしますか」「これまでにホルモン治療/性別適合手術を受けたことはありますか」などのわずか数個で、あとは通常の内科診療と同じ、既往症や今飲んでいる薬の確認などだった。医師の診察も簡潔そのもので、血液検査も、副作用の説明すらなく(!)、流れるようにものの五分で注射をされた。ドライな病院は、期待した通りの丁寧な適当さで、ドライにことを済ませてくれた。料金は、診察代一〇〇〇円とホルモン代二〇〇〇円に消費税を足した、計三三〇〇円。三三〇〇円で、わたしは二六年と五分をかけた最初の一歩を踏み出した。
多くの「まっとうな」病院が診断書の提出を必須とする中で、診断書なしでホルモン治療を提供する病院は少ない。わたしは首都圏在住なので相当に恵まれており、首尾よく見つけ出すことができた。即日ホルモン投与のインフラは、この国の硬直した医療制度と法の矛盾に対するやむにやまれぬ応急措置として生まれたか細い水脈である。賛否あれど、責めるべきは利用者ではないはずだ。
正規の診療ガイドラインに沿わない治療は自己責任である。わたしの通っている病院は中でもその傾向が強いほうだろう。医師は精神科専門医ではなく、カウンセリングらしいことは一切行わない。驚くべきことに、多くのジェンダークリニックでは必須である定期的な血液検査すらも必須ではなく任意である。ホルモンの投与による身体への影響をモニタリングして管理していこうという意志がはなからない。血液検査は数千円かかるから、経済的に困窮しているジェンダークィア(言うまでもなく、クィアはそうでない人よりもずっと貧困に陥りやすい)にはありがたいのだろうが、代償が大きすぎる。大きな病が見過ごされ続けていたらもっと巨額のお金がかかる羽目になるかもしれないし、最悪命に関わる。健康を削ってお金を確保している状態である。
わたしはこの病院をネオリベ病院と呼んでいる。
(後略)
増補章 引用参考文献紹介、あるいはクィアネスとメンタル(アン)ヘルスを問い直すためのブックガイド
二〇二四年五月に初版を発行した 『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』に関して、再び筆を執ることになるとは思っていなかった。増補版を制作する機会を得ることができたのは、一重に読者の皆様の応援のおかげである。
増補版にて加筆した本章では、本書にて引用・参照してきた書籍の一部の紹介をする。ここまでで書いてきたようなトピックに関心がある人にとっては、書籍名を拾ってブックガイドのように使うことができるだろう。と同時に、取り上げる書籍は、一人のジェンダー/ニューロクィアであるわたしがアイデンティティ構築を試みるにあたって必要としてきた支柱であり、これらの書籍について語ることは自分自身の精神的軌跡について語ることでもある。普遍的なことと個人的なことを架橋する語りは、ここ数年ずっとわたしの関心事であり続けてきた。日本語圏インターネットにおいては、「個人的なことは政治的なこと/The personal is political」という有名なスローガンが、その正当性は維持しつつも、個人攻撃の正当化に援用されるようになって久しい。被害/加害の二項対立的ポリティクスを際限なく拡大解釈していった結果としては、当然の帰結であろう。そんな状況下で今なおこのスローガンに意味を持たせられるような語りを、わたしは常に模索している。
いわゆる「自分語り」は、浅薄な承認欲求や自己顕示欲の発露と見なされて忌避されてきた歴史がある。「隙あらば自分語り」を意味する古いネットスラングを耳にしたことがある人は多いだろう。それでも自分語りは決してなくならなかった。中央の文壇、いうなれば男性の尺度で評価されることは少なかった(あるいは作品への評価ではなく作者本人への下世話な好奇心として、過剰に取り沙汰された)にせよ、おのれについて語る人はいなくならなかった。たとえばマルグリット・デュラスの小説『愛人 ラ・マン』や、ルイーズ・ブルジョワの彫刻作品『ママン』といった、私的な経験をインスピレーションとしていることを公言している(女性)表現者の歴史的名作に触れたときに、われわれは感銘とともに、ある種の居心地の悪さも感じてはいないだろうか。このいたたまれなさ、過剰な(と感じられる)自意識へのあてられ・ひるみこそは、今もわれわれの内にあるミソジニーである。
そんなミソジニーがありながらも、自分語りは、男性的評価尺らは距離があるにもかかわらず、ではなく、男性的評価尺から距離があるからこそ、オルタナティブな表現手段として選ばれ続けてもきた。インターネットの発達やSNSの隆盛、日本語圏インターネットに限っていえばnoteというプラットフォームの普及に伴って、雨宮まみ、こだま、永田カビ、あるいは岸田奈美といったエポックメイキングな書き手が躍進し、出版不況といいつつ文学フリマのような軽出版イベントはそこそこ盛況で、今自分語りは爛熟の一途を辿っているといってよいだろう。
そんな「私たちの表現手段」である自分語りが、小さくは編集者組織、大きくは国家・家父長制・資本主義といった権力構造にどのように呑み込まれ得るのかを看破したのが、生活の批評誌編集部『生活の批評誌 NO.5 「そのまま書く」のよりよいこじらせ方』であったと思っている。編集長の依田那美紀をして「この号を作るためにこの雑誌を作ってきたのだと思った」と言わしめた本書は二〇二二年五月初版発行である。かつての#MeTooムーブメントや、当時すでに「トレンド」と化していたトランスジェンダー差別を含む、私的な語りを起点としたインターネットフェミニズムをその陥穽含めて相対化するものであるとわたしは読んだ。現在二〇二四年一一月、激動のインターネットにおいて二年半という年月は決して短くないが、収録の依田の筆「幸福の表明を破る」は今なお鮮やかにわれわれを撃つ。『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』では直接的な引用はしなかったものの、本書は依田那美紀の影響下で制作された。『生活の批評誌 NO.5 「そのまま書く」ことのよりよいこじらせ方』を、第一の参考文献としてここに挙げる。
第一章「『先生』のこと──わたしは『自立』しているのか?」で引用した『オタク女子が、4人で暮らしてみたら。』の著者である藤谷千明も、わたしに影響を与えている。フェミニストという名乗りを引き受けている依田那美紀とは異なり、藤谷千明はわたしが知る限りはその著作の中で自らをフェミニストと位置づけてはいない。文筆のシーンにおいて藤谷をどこかに位置づけて安心したがるのはむしろ外部のほうで、「女同士の美しき連帯の証明たる女友達とのルームシェアの実践者」としての期待はその最たるものであろう。この期待を藤谷が引き受けるつもりがないことは過去の発言からも明らかである。『クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』本文にも書いたように、藤谷が実践しているシェアハウスとわたしのそれは、人数も経済事情も大きく異なり、シェアハウスであること以外に共通点を探すほうが難しいような有り様である。本来比較対象にもならないものを、それでも例に挙げたのは、周囲からの耳障りのいい期待(物語、といってもいい)に抵抗する姿勢にわたしが親近感を覚えているからである。本人の自己認識がどうであれ、藤谷の仕事は現代の抵抗文化であり、フェミニズムに示唆を与えているとわたしは思っている。存命のフェミニストとして尊敬している人を挙げるなら、わたしは迷わず依田那美紀と藤谷千明の二人だけを挙げる。それは個人的な話すぎるって? 思い出してほしい、わたしはずっと個人的な話をしている。参照元を辿ることはわたしの精神的軌跡を辿ることでもある。書籍でなく人との出会いもまた、わたしに大きな影響を与えている。
(後略)
続きは書籍で!
よろしくお願いいたします🐢
初版制作時の様子は過去記事に記録しています。興味がある方はご覧ください。印刷費は売上など金銭面もすべて開示しています。