2025年5月11日(日)に開催される文学フリマ東京40に参加します。呉樹直己のブース番号は【O-59~60】です。
会場は東京ビッグサイト、最寄り駅は国際展示場駅(りんかい線)と東京ビッグサイト駅(ゆりかもめ)です。
イベント公式はこちら。
【5/11(日)開催 文学フリマ東京40】
— 文学フリマ事務局 (@Bunfreeofficial) 2025年4月12日
本日 9:00、Webカタログをオープンいたしました!
こちらからご覧いただけます💁♂️💁♀️
→https://t.co/FutLOQP18C
事前に「気になる」ブースをチェックできます✅
ぜひご活用ください!!#文学フリマ東京 pic.twitter.com/6lM1tyrS4q
既刊『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』と、間に合えば新刊を販売します。友人の委託本も販売予定です。
また、当サークル初めての試みとして、ブースの半分を《文学的誰でも休憩スペース》として開放します。人混みに疲れたときに腰を下ろしていただけるスペースです。
この記事では、文学フリマに初めて来る人向けのイベント案内、わたしの本の紹介と障害者割について、チャリティステッカー販売について、新刊の試し読み、《文学的誰でも休憩スペース》の説明など、イベントを楽しみわたしの本を買っていただくのに必要な情報をまとめました。目次から必要な項目に飛んでご利用ください。
- 1.文学フリマとは
- 2.文学フリマ東京40イベント概要
- 3.販売する本の内容
- 4.障害者割を実施します
- 5.チャリティステッカーを販売します
- 6.通販・書店販売・電子化について
- 8.《文学的誰でも休憩スペース》を展開します←New!
- 9.既刊『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』本文試し読み
- 10.新刊『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』本文試し読み
1.文学フリマとは
文学フリマとは、小説・短歌・俳句・詩・評論・エッセイ・ZINEなど、広義の文学に属する創作物を作り手自らが直販するイベントです。非公式の略称は文フリです。ジャンルとしては同人誌即売会ということになるでしょう。
今回わたしが出店する文学フリマ東京40は、東京都江東区の東京ビッグサイトで開催されます。会場内は細かく区切られてブース番号が振られており、それぞれのブース内で作り手が作品を用意して販売をします。来場者は会場内を自由に見て回ることができます。
前回の文学フリマ東京39の様子はこちら。
2.文学フリマ東京40イベント概要
日時:2025年5月11日(日) 12:00-17:00(最終入場16:55)
場所:東京ビッグサイト 南1-4ホール
〒135-0063 東京都江東区有明3丁目11-1
最寄り駅:国際展示場駅(りんかい線)、東京ビッグサイト駅(ゆりかもめ)
入場料:1000円
事前にネットで購入する前売チケット、現地で購入する当日チケットともに1000円です。詳細は公式サイトへ。
チケットは入場順とは関係がありません。事前に買ったら早く入場できるわけでもなく、数量限定発売でもありません。行けるかどうか当日に体調と相談したい人は、無理に事前に買わなくても大丈夫です。
今回どんな本が販売されるのかは、Webカタログで確認することができます。わたしも載っています。事前にいろいろ見て、好みのジャンルが集まっているエリアなどの検討をつけておくと、当日会場でスムーズに買い物できます。今回わたしは【評論・研究|ジェンダー・LGBTQ】エリアに出店しています。
前回はエッセイエリアでしたが、変えてみました。新たな出会いを楽しみにしています。
会場のバリアフリー情報は文フリ公式サイトも発信しているほか、東京ビッグサイト公式サイトにも詳しいです。駅からは車椅子で来場できます。多目的トイレもあります。車椅子の方やベビーカー連れの方は毎年見かけます。
3.販売する本の内容
今回は、既刊『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』と、間に合えば新刊『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』を販売します。新刊は今のところほとんどできていません。助けてくれ。あと友人の本も委託販売予定です。
①既刊
『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』
鬱・ADHD・ジェンダークィア/ノンバイナリー当事者による、精神障害者ルームシェアレポ、男性ホルモン治療レポ、短歌、+α。クィアネスとメンタル(アン)ヘルス、歴史的には偏見でもって一括りにされてきた2つの概念を、今改めて重ねて語ることから始める反差別実践のオートエスノグラフィ、全13章。
価格は通常1500円、障害者割1000円です(障害者割については後述)。
素敵な表紙は斉藤鳩さん(@hellosurvival)に描いていただきました。ありがとうございます。
②新刊・委託本
新刊は出せたら出します。助けてくれ。
多分、既刊よりはライトなつくりで、手作りのZINEっぽさが増すかも。クィアネスとメンタルヘルスのうちクィアネスによりフォーカスした内容の予定。男性ホルモン治療も3年目を過ぎたので、身体変化のレポ第2弾とか書けたらいいですね。まあまだほぼ書いてないんですけど。マジで助けてくれ。
友人の委託本も絶賛制作中の模様。詳細わかり次第告知します。
4.障害者割を実施します
障害者手帳(身体障害者手帳・精神障害者手帳・療育手帳)をお持ちの方は、呉樹の本を500円引きでご購入いただけます。これは文学フリマ公式とは無関係で、わたしのブースでのみ自主的に実施する措置です。
割引を利用したい方は、支払時に「手帳割お願いします」と一言申し出てください。手帳を提示する必要はありません。性善説運用とし、口頭で申し出があればすぐ割引します。なにかを証明したり説明したりする必要は一切ありません。
5.チャリティステッカーを販売します
カンパ制にてオリジナルステッカーを販売します。任意の額をお支払いください。売上は全額パレスチナ支援に寄付します。
前回の文フリでは16200円のカンパをいただきました。寄付先報告は過去記事にて行っています。
6.通販・書店販売・電子化について
既刊『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』はすでに通販で買うことができます。文フリ直前になったらオンラインショップは一旦クローズして、イベント後に余りをまた販売する形になります。
東京都・蔵前の透明書店様にも納入していますが、おそらくもう完売しています。
『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』(呉樹直己)入荷しました。参考文献紹介を含む新章が追加。
— 透明書店 (@tomei_1111) 2024年12月2日
「わたしの文章は、(…)濁流を渡るための足場の一つとして、踏んで踏んで踏み倒してもらうためにある。その中の誰かが、わたしの先に新しい飛び石を作るはずだ。」 pic.twitter.com/HBEfTCN65y
東京都・新宿のIrregular Rhythm Asylum(イレギュラーリズムアサイラム/IRA)様にはまだ在庫があるかもしれません。
\ZINE取り扱い書店が増えました/
— 呉樹直己🐢 (@GJOshpink) 2025年3月29日
呉樹直己『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』が、東京都・新宿1丁目の書店Irregular Rhythm Asylum(イレギュラーリズムアサイラム/IRA)様に並びます🐢🏳️⚧️🏳️🌈 各線新宿駅・新宿三丁目駅・新宿御苑駅から徒歩圏内のお店です。 pic.twitter.com/qoFRCtTScQ
お店のインスタグラム▼
— 呉樹直己🐢 (@GJOshpink) 2025年3月29日
木・金・土・日の週4営業です。https://t.co/IOLfb0bLWe
ZINE試し読みはこちら▼
IRAは実は第7章冒頭に登場しています。左翼のエネルギーが充溢した刺激的な書店さんです。ぜひおいでください。 https://t.co/1PeoDIeoV5
新刊は通販も書店販売もなんも決まってません。だってまだ存在してないからな! 決まったらまたブログやSNSで告知します。
通販はなるべく実施したいと思っていますが、金銭面と相談になります。
既刊・新刊ともに、1冊まるまるのWeb再録は行いませんが、今後ブログなどで一部を引用することはあるかもしれません。
電子化の予定はありません。
7.文学フリマ東京40で販売される呉樹直己の寄稿作
水町綜さんのブース【く-02】で、呉樹が寄稿したアンソロジーの新作が販売されるとの噂があります。続報をお待ちください。また告知します。
オ……ア……?
— 水 (@1gho) 2025年4月12日
【文学フリマ東京40 出店!】
📍ブース:く-02
🗓5/11(日) 12:00〜開催
🏢東京ビッグサイト南3-4ホール
📕イベント詳細→ https://t.co/qDc0ZuVS38 https://t.co/50D2Ax12xH #文学フリマ東京
アンソロジーの前作はこちら。呉樹はコンビニの成人雑誌にまつわるエッセイを寄稿しています。
8.《文学的誰でも休憩スペース》を展開します←New!
今回の文フリで、呉樹直己は2ブースを取得しています。そのうち、列の端にあたる【О-59】ブースを、《文学的誰でも休憩スペース》として来場者に開放します。文フリ運営とは無関係の、当サークルのみの試みです。
①《文学的誰でも休憩スペース》とは
誰でも15分間椅子に座れる場所です。腰を下ろして一息ついて、買い物品を整理するもよし、飲食してエネルギー補給するもよし、机に突っ伏してクールダウンするもよし。ご自由にお使いいただけます。無料です。ブースにはモバイルバッテリー、手持ち扇風機、卓上ソロブースパネルの用意があります。
②システム
1人ずつ1回のみご利用いただけます。
12:00-17:00の間、呉樹がブースにいるときに、スペース利用希望の旨を申し出てください。呉樹が買い物などで離席していて売り子しかいないときはご利用いただけません。金髪坊主で眼鏡をかけているのが呉樹です。
時間は15分で、砂時計でざっくり管理します。ご着席いただいたら砂時計をひっくり返します。残り時間が数字でわからないと落ち着かないよ~という人は自分で時計を見てください。
どうせ接客などでバタバタしてるので、15分を厳密に計測して退席を急かすことはしません。砂が落ち切ったのに気づいたら、自主的な退席にご協力をお願いします。あまりにも長時間の滞在であるとこちらが気づいた場合はお声がけするかもしれません。
15分より早く退席されるぶんにはご自由になさってください。
卓上にはソロブースパネルを立てます。他者の視線を遮ることができます。
エレコムとアンカーの大容量モバイルバッテリーと、三股ケーブル(Type-C・ライトニング・マイクロUSB)の用意があります。スマホの充電にお使いください。
動作は確認してありますが、これらを使ったことで万が一スマホに不具合が起こっても責任は取りかねますので、自己責任でお使いください。
手持ち扇風機もお貸しします。風に当たってリフレッシュしてください。
ブースには椅子が2つあるので、1つに着席して、お荷物はもう1つの椅子に置くとかしてください。こちらで預かったり見張ったりすることはできません。必ずご自身で管理してください。盗難にも責任は取りかねます。
ブースでは原則自由に過ごしていただけますが、大前提として文学フリマの参加規約を遵守し、販売妨害とならないようご注意ください。
ご自身の著作物の陳列等は、他出店者ブースの無断使用となり文学フリマの規約で禁止されています。あくまで休憩利用の範囲内ということで、ご協力お願いいたします。
以上のシステム説明は、印刷して当日ブースにも置いておきます。
③補足・注意事項
●ブース前にキャリーケースなどを置くことはできません。お荷物がブース内側に入りきらない場合は《文学的誰でも休憩スペース》をご利用いただけません。
●飲食のゴミをお預かりすることはできません。ご自身で処理してください。会場には文フリ運営が用意したゴミ箱があります。
●最初と最後のご挨拶を除いて、利用者に呉樹のほうから積極的に話しかけることはしません。会話すること自体は全然かまわないので、呉樹と会話したいよという奇特な方はそちらから話しかけてください。フォロワーさんなら名乗っていただけると喜びます。
●《文学的誰でも休憩スペース》はただ腰を下ろせる場所であって、救護室ではありません。明確な体調不良が生じた場合はイベント自体から退出するなどの自己対処をお願いします。万が一《文学的誰でも休憩スペース》で倒れられた場合はスタッフを呼びます。
●大声、暴力、勧誘、ハラスメント的言動などは文フリの規約で当然禁止されています。諸々、あまりにもアレだなと思ったら呉樹の一存で《文学的誰でも休憩スペース》の利用をお断りさせていただきます。必要に応じてスタッフを呼びます。
④最後に
文学フリマ東京には3度目の参加となりますが、《文学的誰でも休憩スペース》の展開は初めての試みです。皆さまと協力しあって、有益な場所にしていきたいと思います。文学フリマ東京は人混みが凄いので、一息つけるスポットになれたら幸いです。
また、今回の試みはいわば「文学的な空気感を提供する無料配布」という建て付けでやっています。このような形のブース利用は、明確な規約違反ではないはずですがグレーではあるかもしれません。穏当に運営していくためには皆さまのご協力が必要です。よろしくお願いいたします。
イベントについては以上です。
以下、既刊・新刊の試し読みです。
9.既刊『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』本文試し読み
過去記事にて、序章全文・第七章冒頭・増補章冒頭を公開しています。
10.新刊『テスチノンデポー125mg、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』本文試し読み
序章
この短い本の長いタイトルは『テスチノンデポー125ミリグラム、持続型男性ホルモン製剤筋注──濁流を往くためのノンバイナリープライドセオリー』という。セオリー(theory)とは、理論・学説・定石などと翻訳され、ある事柄にまつわる学術的・体系的な枠組みや論理的知識を示す。そのような言葉を冠した本が著者の「自分語り」から始まるのは奇妙なことかもしれないが、わたしは本書をそのように始めたい。自分語りは、中央の文壇つまり「男性的」な尺度からは距離がある手法だが、距離があるにもかかわらず、ではなく、距離があるからこそ、「男」ならざる者たちの表現手段として近年選ばれ続けてきた。わたしもまた、男性ホルモン製剤をわが身に注射しながらも生活実態的意味においても実存的意味においても「男」ではない人間として、ひとまずは自分語り、つまりエッセイという手法を選択する。本書でわたしがたくらむ投企は、エッセイという最も身近で「私的」な表現手段を、「公的」で「客観的」なセオリーと呼び得る純度へと研磨していくことである。これを異なるジャンルの架橋・越境・融合と呼びたくはない。これは、「私的」と「公的」を区分し、文脈によってどちらかを称揚したりどちらかを下位に置いたりする規範そのものを挑発し相対化する足掻きの共有である。試みは未完成であり、本書刊行後も続いている。具体的な内容はわたしのエッセイ同人誌の前作『増補 クィアネスとメンタルヘルスのアイデンティティ・ゲーム』と強い連続性を持つが、前作を未読の方にも楽しんでもらえるように力を尽くす。
それではさっそく、わたしのことを語っていこう。わたしの名前は呉樹直己という。地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災が起こった1995年、進歩と成長の物語の決定的な終焉とともに生を受けた。中学の卒業式を数日後に控えた2011年3月に東日本大震災が起こり、西日本在住だったため生活上の被害は皆無だったものの、義務教育以降の生を、この国が戦後のやり直しを生きそこねる姿をみながら過ごすことになった。高校生活のほとんどと大学入学後の4年間はまるまる、憲政史上最長の極右政権である第2次安倍政権の下にあった。本来なら大学を卒業して新卒2年目だっかもしれない年に、生まれ育った平成という時代が終わった(休学を挟んだので実際にはまだ大学生だったが)。Z世代という聞き慣れない区分がメディアに登場し、知らぬ間にその世代の最年長ということになっていたのもこのころである(註1)。
2020年、コロナ禍とともに上京し、「先生」と暮らしはじめた。先生はブログとX(当時Twitter)を通じて知り合った兼業小説家で、わたしと同じく精神障害を患い、かろうじて仕事はできるものの、私生活は破綻の瀬戸際を生きている人であった。同居して身の回りの世話一切を任せるのと引き換えに、生活費や通信制大学の学費を出すことを提案された。なお、その時点でわたしと先生は会ったことはおろか、リプライを交わしたこともなかった。同居の話が持ち上がった2カ月後には一人暮らしのアパートを引き払い、以来5年、2人と1匹(保護猫を飼っている)で暮らし続けている。経済的な生殺与奪を他者に握られた上で家政と病者のケアを義務として与えられるのは初めてではなく、それは表面上、身体障害によって半身不随だった亡父と暮らした経験の反復として立ち現れた。わたしの鬱の一因が生家での経験にある(ちなみに、当時ヤングケアラーという言葉はまだなかった)と知る友人たちは、こぞってわたしを案じた。先生に「洗脳」されているのではないかと心配する人もいた。先生との生活は、わたしの選択が「洗脳」の結果でも「トラウマの再演」でもないと自他に証明し続ける営みとして、現在に至るまで経験されている。わたしが日々の暮らしを私的な営みとして位置づけようとしたとて、結果的に先生とわたしには権力勾配が生じており(おおむね先生が「上」と言えるかもしれないが、個々の場面によってはその限りではない)、われわれの「契約」はさしあたっては資本主義の土俵におけるペイドワークとシャドウワークの交換と表現され、どうしようもなく社会的なのであった。
アイデンティティにおいても、わたしは無辜で無謬な個ではあり得ない。わたしは出生によって日本国籍を取得した日系日本人で、同じく日系日本人の両親の下で日本語を母語として育った。つまりは本邦の最大手の「普通の日本人」であるわけだ。エスニックマジョリティであるがゆえに、日常生活において自らのエスニシティを意識する機会は極めて少ないが、わたし個人が意識しようがしまいが、事実としてわたしは大和民族であり大日本帝国の子孫であり、わたしの身体は朝鮮・台湾その他旧植民地およびアイヌ・琉球その他少数民族への植民地主義的暴力を記憶している。
わたし個人の思惑にかかわらずわたしの身体が記憶しているものは、わたしが所属している女というジェンダーに対する暴力もそうである。また生まれ年の話に戻るが、1995年は北京でアジア初の世界女性会議が開催された年でもあり、ヒラリー・クリントンが「人間の権利は女性の権利であり、女性の権利は人間の権利である(Human rights are women's rights and women’s rights are human rights)」と演説して喝采を浴びた。同会議で採択された北京行動綱領は、女性の人権にかんする当時最も包括的な国際文書であり、12の重大領域の一つに「女性に対する暴力」が独立して設定されている。国連安全保障理事会が旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所を設置したのが1993年、ルワンダ国際刑事裁判所を設置したのが1994年で、それぞれ紛争下での性暴力も追訴され、1990年代に世界は女性に対する暴力に声を上げはじめた。本邦では1995年に、沖縄で米兵3名による小学生女児への集団強姦事件が起こり、8万5000人が「沖縄県民総決起大会」に集って抗議した。有史以来女性とみなされた者を襲ってきた加害の数々を、わたしの身体は記憶し、これまでの20数年の人生の中でその一端を実際に経験してもいる。
しかしわたしはこれらの記憶を、わがことながらよそものとして経験して生きてきた。女性として生まれ育ち、典型的な女性としての性分化をしても、わたしのジェンダーにまつわるアイデンティティはついぞ女性にはならなかった。物心ついてから常につきまとってきたこの葛藤が取らせた選択の最たるものが、2022年3月に開始した男性ホルモン治療である。月に1度か2度GID科に通い、持続型テストステロン製剤であるテスチノンデポーの注射を今も受けている。容量は125ミリグラム。この量は性別不合者への投与量として標準的なもので、同じ製剤を同量投与されているトランス男性は多いであろう。そう、本邦の性別不合にかかる医療的措置はおおむね、「反対の性」に同化する者のみを想定しているので、わたしが受けている治療はいずれは男性に至る道程として整備されている。主治医もわたしをトランス男性として遇している。しかしわたしは男性として生きたいわけではないのだ。性別違和がありつつ女性の境遇に留まって生きると決めたことまで含めてわたしのジェンダーアイデンティティだと思っているので、女性として生きることはわたしにとっては必ずしも苦痛や不本意ではない。女性とは出生時につかまされたアイデンティティだが、長じて再度掴み直したのはわたしの意志である。そんなわたしにとって、男性ホルモン治療は綱渡りである。ゆるやかに声が低くなり、体毛が濃くなり、肌質が脂っこくなっていく中で、ローコストで社会的に女性として認識してもらえる「境界」はどこなのか、誰も教えてはくれない。現在進行形で続いている綱渡りは本当に厄介な苦痛の種である。
しかしこの厄介さ、困難、苦痛、途方もない自己責任性、すなわち「重み」がわたしを助けている側面があるのも自覚している。女として五体満足に生まれた身体であえて男のホルモンを喰らうというこの選択が他者に想起させる「重み」は、わたしのアイデンティティへの懐疑を遠ざけ、わたしの尊厳を守る。2018年以降、トランスジェンダーやそれに類する者の存在は、よくも悪くも(多くは悪くも)本邦に知れ渡った。この流れにおいて「アライ」として知識を得た者は、性別不合者のホルモン治療が身体的にも経済的にもいかにハイリスク・ハイコストであるかをざっくりとは知っており、そのリスクやコストを引き受けて「決断」し3年も治療継続しているわたしを、健気に生きるマイノリティとして好意的にみるだろう。
トランスジェンダー、とりわけノンバイナリーのアイデンティティを懐疑する者も、ホルモン治療に踏み切っている者には多少の手加減をすることが多い。この傾向は、SNSをはじめとするインターネット空間でわたしに利する。ホルモン治療につきまとうリスクやコストは本来は改善されていくべきものだが、現状、そのリスク、コスト、困難、苦労、すなわち「重み」は、性別不合者の「本気度」を証明するアクセサリーとして機能することがある。「口先だけ」ではなくリスクやコストを引き受けて実際に行動しているわたしは本気の当事者として遠巻きにされ、直接的な中傷のターゲットにはならないことが多い(まったくならないわけではない)。
わたしを遠巻きにするのは、医療的措置をしていないノンバイナリーの当事者もそうかもしれない。医療的措置の有無によって性別不合者の「本気度」を計る規範において、わたしはかれらよりも有利な立場にあり、存在しているだけでかれらの心に波を立てる。男にも女にも帰属意識を持てないノンバイナリーは内から外から常に存在証明に駆り立てられるものだが、わたしのようなより規範的な当事者の存在もまた、時に抑圧的に(と感じられる方向に)作用するだろう。
いま、われらの生を規定するイデオロギーは数かぎりない。性別二元制、性愛・恋愛規範、異性愛規範、対人性愛規範、モノガミー、メリトクラシー、資本主義、新自由主義、コロニアリズム、数かぎりないそれらはほかならぬわれらの身体によって受肉され、幾多の周縁化された尊厳を轢き潰してきた。同時にわれらは、広義狭義の言論によってイデオロギーを克服せんと試みてもきた。その人類普遍の営みに、わたしもわたしのことばでもって参画してみたいと思う。もちろん、この短い本で完結できる営みではなく、わたしの短い一生をもってしても無理だ。そう遠くない先に限界は見えている。本書において、ノンバイナリー・プライドという言葉にセオリーという言葉を繋げたのには意図がある。セオリー、理論、学説、定石という言葉が、クィアの豊かで多様な生を画一化する圧力と一見みえるよう、あえて配置した。わたしがわたしの力の限り数多のイデオロギーを問い直した先にみつかったものを、わたしをひとまずセオリーと呼ぶ。そして、わたしより若く、わたしより聡明な人が、わたしのセオリーをまた相対化する。
ことばは一人で完成させるものではない。わたしのことばは飛び石である。濁流を渡る人のためにある。濁流を渡るための足場のひとつとして、踏んで踏んで踏み倒してもらうためにある。その中の誰かが、わたしの先に新しい飛び石を作るはずだ。
註1……何年生まれからZ世代と呼ぶかは諸説があるようで、数え方によってはわたしはぎりぎりZ世代ではない。いずれにせよ、現在メディアでZ世代としてよく取り沙汰されるのは1998年〜2003年前後生まれの人間が多い印象であり、1995年生でZ世代に帰属意識を持つ人間は少ないのではないか。わたしも持っていない。
続きは本編で!!!