1.靴紐から学ぶ人生。生きづらさと機会損失と
ハイカットスニーカーの靴紐問題
お気に入りのスニーカーがある。ハイカット型なので、脱いだり履いたりするたびに靴紐を結び直さねばならない。
というのが、この記事の枕です。しばしお付き合いください。
ダリ展ついでにアメ横で買った靴めちゃくちゃ気に入ったからこのまま香港まで歩きたい pic.twitter.com/Yndn6q8FKx
— 呉樹 直己 (@GJOshpink) October 1, 2016
ハイカットとは、ブーツみたいにくるぶしまで覆われる形のことですね。
いちいち靴紐をほどいたり結んだりするのは手間がかかる。面倒くさい。しかし、わたしはローカット型よりハイカット型の靴のほうがデザインとして好きだし、ハイカットを選択するなら、この手間は避けられないと思っていた。
面倒くさいのが当然だと思っていた。改善するという発想すらなかった。思考停止していた。
ゴム製の靴紐という選択肢
そんなある日、偶然立ち寄ったキャンドゥで、次のような製品を見つけました。
ゴム製の靴紐。伸び縮みするので、結びっぱなしのまま靴の着脱ができるという代物である。
その手があったか、と膝を打ちました。早速購入して、デフォルトの靴紐(普通の布製の平紐)を外して付け替えてみた。期待通り、シュータン(足の甲のベロ部分)を引っ張るだけで、簡単に脱いだり履いたりできるようになりました。
上記のツイートの通り、わたしは2016年秋からこの靴を履いているので、約3年もの間靴紐を結び直す手間に甘んじていたことになる。ゴム製の靴紐という商品に出会ってようやく、この手間は解消できるという発想に至ったのだ。ちなみに、「ハイカット 靴紐 面倒」とかでググったら、ゴム製の靴紐の存在は簡単にヒットしました。悲しい。
Amazonにも類似の商品がありました。600円。耐久性はこちらのほうが高いのだろうか。
ゴムは普通の紐よりも劣化が早いことは間違いないので、わたしの靴も要経過観察である。
学習したこと
この一件からわたしが学ぶべきことは二つある。
一つは、不便感を我慢しないことは大事だという真理の再認識。
これまでの記事でも繰り返し書いてきたが、日常生活における不便感は、必ずしも邪魔なものではない。健全な自己肯定感を育むためにも、まずは否定せずに受け入れてやる必要がある。
不便感、つまり「生きづらさ」は、われわれの苦痛を身体レベルの反応としてお知らせしてくれるシグナルだ。このシグナルのおかげでわたしたちは環境不適合を自覚し、改善へと努力することができる。生きづらさは、人生をより楽にするヒントの塊なのだ。それに、環境不適合な性格とは「平均的な人間とは違う部分」なので、生きづらいというマイナスの面を分析することで、プラスの面、つまり個性が見つかる可能性も高い。
また、生きづらさによる孤独感が原動力となって、わたしたちに人との繋がりを求めさせているという側面もある。誰しも一人きりでは生きていけない。なにか精神疾患があるのならなおさら。生きづらさ(に伴う孤独感)は、一人では生きていけない人間を決して一人にさせないために発生する、一種のコミュニケーションツールなのだ。
そして何よりも、環境不適合な人間の不便感が文明を発展させてきたという歴史を忘れてはならない。既存の環境に満足する人間しかいなかったなら、今でもわれわれは洞窟に住んで獣を狩る生活を続けていたかもしれない。既存のシステムへの問題意識と、さらなる快適さを求める欲望が、文明をここまで発展させてきた。マイノリティが不便を感じてしまうのは、劣った人間だからではない。社会がマイノリティに追いついていないだけなのだ。
何度でも書く。忍耐は美徳ではなく、思考放棄であり、社会の損失だと思う。誰しも、自分の生きづらさに向き合う権利(ある意味では義務)がある。生きづらさを恥じるな。むしろ誇れ。おおっぴらに口にしたら角が立つけれど、こっそり胸に秘めるだけなら誰も責めない。
―― まあ実際のところ、靴紐を結び直すくらいなら大した苦痛ではないんだけども。しかし、今後降りかかってくるであろう大きな課題に対処するための予行演習として、「自分の感情をスルーしない」スキルは常に研いでおきたいと改めて思いました。
そしてもう一つ学んだのは、知らないことは大きな機会損失だということ。
これも、当たり前の話ではある。便利な裏ワザの類いしかり、税金控除などの各種制度しかり、知らなかったばっかりに損をしてしまうシチュエーションは非常に多い。情報弱者なんていう世知辛い言葉もあるくらいだ。今回わたしは、ゴム製の靴紐という商品をもっと早くに知っていれば、3年間も時間を無駄にせずに済んだ。過ぎた年月を悔いても仕方がないから、せいぜいこれから靴を活用してやるしかない。
誰しも、この世のすべてを熟知することはできない。このインターネット戦国時代においては玉石混交の情報が無限に流れてくるから、疲れないように注意しつつ、情弱なりに精一杯リテラシーを高めていこうと思いました。
2.セレンディピティという概念。安く買い物するだけではない、百均の使い道
セレンディピティという概念がある。英語でいうとserendipity。造語で、“求めずして思わぬ発見をする能力” “運よく発見したもの” “偶然の発見” などを指すようだ。
この記事を書くために改めて「セレンディピティ」でググってみたら、自己啓発とか情報商材屋とかのサイトばかり引っかかってイライラした。これだから横文字は。しかしどんぴしゃの日本語訳が見つからないので、とりあえずセレンディピティと呼びます。
今回わたしがゴム製の靴紐をキャンドゥで発見して、長年の不便感の解消に至ったことも、セレンディピティの産物といえるだろう。明確な目的を持たずにショップをぶらぶらして、最新のガジェットやアイディアを吸収するのは大事だなと再認識しました。あらかじめ決めた品物を見つけ出しに行くばかりではもったいない。
ネット上であればAmazonのオススメ表示も同じようなインプットの場として使えるかもしれないが、質の高いインスピレーションを得るためなら、やはり現物に触れられる実店舗のほうがいい気がする。
このような、漠然としたインプットの場・セレンディピティを得る手段として、百均はなかなか適した場所だと思います。大まかな理由は以下の通り。
・商品ランナップが幅広い。ハレからケまで、生活のほとんどすべての局面を網羅している→多彩なジャンルのインプットが得られる。
・商品の回転が早い→常に最新の流行に触れられる。
・解消するほどでもないと思考停止してしまいがちな小さなコストをピンポイントで解決するような、ユニークなアイディア雑貨が充実している。百均は「名前のない家事」を抹消することに長けている、というようなツイートを見かけた記憶があるが、その通りだと思う。
セレンディピティとは偶然の出会いであるからして、意図して掴みに行くことはできない。文字通り偶然に頼るしかない。
しかし、セレンディピティが起こりやすい環境に触れる時間を持つことなら可能だ。ダラダラ時間を浪費しすぎても仕方がないけれど、情報量の多いお店を程よくぶらつくことは大事だなと思った次第です。百均なら、コンビニ並みに気軽に入れるし。
以上、セレンディピティを得る場としての百均のメリットの話でした。
個人的に思う百均のデメリットの話も書きたかったけれど、長くなったのでこの記事はここで終わりにします。気が向いたら続編を書きたい。デメリットは、平たく言うと「安っぽい」ことだ(価格が安いのだから当たり前)。その安っぽさは「規格統一の甘さ」に由来していて、ADHDなら脳内の情報渋滞を緩和するために規格統一にこだわりたい、みたいな話になる予定です。たぶん……。
GLAYの2010年代の名曲 “Precious” で、TAKUROさんは “出会い それは人生の少しだけ残酷な賭け事” と言っているが、本当にその通りだと思う。出会いはどうしようもなく人生を左右するのである。終盤の “「人は馬鹿な生き物ね 失うまで気づかない」” という一説も、“人は馬鹿な生き物ね 出会うまで気づかない” の裏返しといえるだろう。
ちなみに、前半の “「長い長い道のりを 独り荷物背にこさえ 走り続けてきたのね? それはどれほどの痛み…」” とは、無知ゆえにコストを背にこさえてしまうわれわれ情弱への煽りだと思います。