最終更新:2020.11.10
外出先から帰ってきて髪をほどくと、もう揮発したと思っていた香水のラストノートがふわっと香る。この時間が好きだ。ロングヘアになってからは特に、香りが長く滞留するようになった。
香水は、同じ香りでも感じ方が気分や体調によって違う。そのような変化を感知することで、逆説的に自分自身を見つめ直すことができるのが、香水の醍醐味だと思っている。そのときどきのさまざまな「わたし」を跳ね返して、香りという形でフィードバックしてくれる。嗅ぐ鏡のようなもの。個人的には、お酒も同じカテゴリの娯楽だと認識している。
先日、しばらく使っていなかったグルマン系の香水をふと使ってみると、昔とはずいぶん印象が変わっていた。以前は、カシスの若々しい香りだと思っていたのに、今は、アーモンドが濃厚に主張するコケティッシュな香りだと感じる(語彙の乏しさ、ご容赦ください)。今のほうが好みに合っている。 グルマン系の香りがマッチする季節になったら、もっと使っていこうと思う。
さまざまなわたしを、香水は如実に映し出す。
その、たくさんのわたしたちに同一性はあるのか、ふと考えては恐怖する。カシスとアーモンドがまったく違う植物であるのと同程度には、違っているのではないか。
過去のわたしと今のわたしに、同一性はあるのか。
鬱におかされる前のわたしと、今のわたしに。
向精神薬を服薬していないわたしと、服薬しているわたしに。
薬が効いている間だけ変貌するというのならまだいいが、長期間の投薬は、わたしという人間を根本の組成から変えてしまっているのでは?
―― そんな恐怖が、ここ数年ずっと背中にへばりついている。しかし、真面目に怖がっている割には、あまり真面目に掘り下げずに済んでいる。どちらにせよ、鬱でない生も服薬をしない生も今世では望めないと思っているからかもしれない。“そう” でないわたしを生きることは、多分もうできないのだ。結論が決まっているのなら、益体もないアレコレは単なる思考実験に過ぎない。
とはいえ、こういうことをまったく考えずに日常に取り紛れるのも面白くない。そう、面白いか面白くないかの問題なんです。わたしにとっては。人生丸ごと人体実験。それでこそ、“こう” 生まれた甲斐があるってもんだ。
こういうことを考える時間を、なるべく失いたくないと思っている。生活と生活の合間に、1日のうち15分くらいは考えていたいですね。なかなか、たいへん、難しいことですけども。
【補足1】わたしと香水の付き合い方、ADHDとしての工夫
香水は、5ミリリットル程度のミニボトルの展開があるならミニボトルを買います。フルボトルは量が多くて使いきれないし、持ち歩けないのが不便だ。ADHD的に、アトマイザーに詰め替える手間には耐えられない。それに、香水は、ボトルのデザインも込みでひとつの世界観を構築している芸術品だと思っているので、詰め替えるのは個人的に抵抗があります。なるべくそのままで愛でたい。

【補足2】
この日記は、一人暮らしをしていたころに作った下書きを清書したものです。今は、猫と暮らしているので、フレグランスやアロマの類いは一切使わなくなった。気分によって香りの感じ方が変わるのと同じように、生活の変化によって香りとの付き合い方自体が変わるのもまた一興であろう。過去の香りたちとは、別れたつもりはない。いずれまた、出逢うべきときに出逢うはずだ。
今後もこのように、一人暮らし時代に書いた記事を出すことがあります。写真等も、過去に撮り溜めたものを使ったりします。