障害者の端くれなので、社会が提供してくれる支援とやらを検索することがよくある。しかし、それらの内容が、「健常者と同じように学ばせるための支援」「健常者と同じように働かせるための支援」であることがあまりにも多くて愕然とする。もちろん、そのような支援で救われる人は多いだろうし、わたしも結局はそういう支援に拾われて生きてきた身だ。しかし、しかしですよ、わたしは健常者にはなれないんです。診断名がついているからではなく、真っ正直な肌感覚としてそう思う。健常者と同じステージに上がるのはもう難しいと、何年も前から痛感しています。通院して、ときには入院とかして、薬をぶち込んで、なんとか這い進むしかないのだ。この、健常者向けの社会を。わたしは基本的には福祉の可能性を信じているし、しょっぱい自己防衛を唱えるつもりは毛頭ないが、いち障害者として、生存の手段を「健常者並みの社会参画」に一元化しようとしてくるこの国にはそれなりに絶望しています。
もちろん、諦めるつもりはないし、社会の間隙・絶望の合間を縫って、生きられそうな手段を模索してはいるのだが。幸い、手ごたえがまったくないわけではないです。道っていうのは、探さずに横目で眺めているうちはまったく見つからなくて困るけれど、観念して探しはじめると案外見えてくるもんだ。ステージの下にだって、ちゃんと別のステージがある。いや、それだとなんだか無間地獄みたいだな。ステージという比喩があまり的確ではないかもしれないですね。たしかに、ステージと表現したくなるような “高い場所” が “視えて” しまう日もあるんだけど、本来この世は高いとこ登ったもん勝ちゲームではない。かといって、平面の陣取りゲームでもないはずです。うちらは、エッシャーのだまし絵みたいな、立体とも平面ともつかない構造の中で、なんとか水平な地面を探している旅人なのだ。ふと隣を見てほかの人と比較したら、とんでもない斜めになっていて仰天するかもしれないけれど、自分にとってはたしかに水平である場所を。
なんとかなる。本当にそう思っている。わたしが「そう思えてしまう」のは、無知や幼さや恵まれた環境がもたらす無根拠な楽観ゆえなのですが、「なんとかなる」こと自体は事実なので、楽観をやめる必要はないと思っています。わたしが進み続ける限り、なんとかなる。この地平は、そういう風にできているのだから。