7か月間、同居人との共同生活についてたくさん書いてきた。読んでくれた人はどんな感想を抱くだろうか。楽しそう? 落ち着いている? 丁寧な暮らしっぽい? いずれも文章の感想としては是でも、生活実態の推測としては間違っている。まったくお笑い種だ、生身の人間による生身の生活に楽しいなんてことがあるものか。しかしべつに、楽しくないと言いたいわけではない。つまりどういうことか? 正直、わざわざ説明したくもない。わかりやすいことなんかひとつも言いたくない。わかりやすい文章なんて、文章力が及ばなかった繊細で複雑でそれゆえ大事であるはずの部分を捨象した、薄っぺらい残骸に過ぎない―― 少なくとも、わたし程度の文章力だとそうなってしまうのである。わたしは、残骸をそれっぽく飾り立てるくらいなら沈黙を選びたい。だってわたしは見てしまっているから。わたしは、非才ゆえに文章には表せないまでも、「先生」なる人物を見てきたのだ。他人のことだから内面はわからないけれど、外から伝わってくる限りの情報を見てきたのだ。先生の喜びを、苦しみを、悲しみを、怒りを、優しさを、強さを、弱さを、一人の人間の生活そのものを、一番近くで見てきたのだ。見てきたものの色鮮やかさと、わたしの筆で表し得るものの凡庸さ、そのギャップに耐えられそうにないくらいには、凄みのある光景であった。だからわたしは、本当は沈黙を選びたい。一方でわたしは、書くことでおのれを維持してきた人間でもある。完全なる沈黙には耐えられない。であれば、最低限わたしの精神の均衡を保つのに必要なぶんだけの文章を書いて暮らしていきたい。
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先月あたりから、白菜とりんごの味が落ちてきた。冬の白菜は、生のままドレッシングもつけずに食べられるほどの甘味と水気があったけれど、最近は生だとやや青臭い。りんごは糖度と歯ごたえが劣る。冬が終わったのだ。
そして今は3月。朝晩はまだ冷えることもあるが、スーパーには春野菜が並んでおり、すっかり季節が変わったのだと実感する。去年同様、COVID-19の影響で外に出かける機会は減っているが、なんとか見つけた春の風景を並べておく。
葉。
葉。
ここにも葉。
シロツメクサ。
頂き物の文旦の皮。
冬毛がそろそろ抜けてきて、冬場よりは心なしかシュッとした猫。
古いことわざいわく、三月はライオンのようにやってくる、という。3月上旬の天候の荒れやすさを指しているらしい。たしかにこの3月は天気が揺れていたし、同じくらい家も揺れていた。二人して、やり過ごすしかない時間をたくさんやり過ごした。気温や気圧の乱高下に伴う不穏さと、年度末という社会的な不穏さがタッグを組んで、先生とわたしに(主に先生に)揺さぶりをかけた。それでも幸か不幸か人生は終わらなかったので、現在に至っている。
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時系列の確認などのために、「先生」について書いた過去記事を読み返すことがある。まぎれもなくわたしが書き表したものであるが、どこか他人事のように遠く感じることが多い。記事では、ほのぼのとして見える表層だけを切り取っていて、現実のわたしの実感とは異なっているからだ。そのギャップを苦しく感じることもあるが、書き続けることでおおむね助けられてきたと思う。書かれ公表され承認(SNSのいいねなりブックマークなり拡散なり)を得た文章は大なり小なりわたしの自意識に固着し、逆説的にわたしの意識を形づくる。都合のいい部分だけを切り取った文章は、都合のいい部分だけ書いてあるがゆえに明るく楽しくほがらかで、わたしを勇気づける。過去の大切な成果物として、胸にしまうことができる。これが、わたしの精神の均衡を保つために最低限必要なぶんだと信じて、わたしは今日も文章を書く。
3月が終わる。3月のあとには4月が来る。4月のあとには5月が、5月のあとには6月が。月日の流れは止まらない。生活は続く。人生も続く。どんなに苦しくとも。