敏感肌ADHDが生活を試みる

For A Better Tomorrow

そこじゃなくてもいい旅の思い出

最終更新:2021.1.18

 

 

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急行や快速などあらゆる便が必ず停止するタイプの大きな駅は、ただの通過点ではなく、多種多様な施設が集う一大レジャーランドだ。チェーンの服屋があれば一通りの衣服は揃うし、食べ物の店も、その場で食べていける店から土産物屋まである。最低限のプライバシーが確保できるコワーキングスペースもあったりする。衣食住をはじめとする人間生活が、駅の構内で完結してしまうのだ。いや、逆に、駅は駅だけで自律している生き物であると言うべきかもしれない。人間が駅を利用しているのではなく、駅が人間を呑み込み、資本主義という名の酵素で消化し、金銭を吸い取って排泄し次の場所へと送り出している。眺めているだけで飽きないダイナミズム。

 

大きな駅が好きだ。わたしは地図が読めない。障害特性が関係しているのか個人的な苦手分野なのかはわからないが(おそらくはその両方)、地図を見ながら歩いて目的地に行くことが不得手だ。電車の乗り換えなどは看板を辿ればいいからめったに間違えないが、電車を降りてからが問題なのだ。

駅の中なら、いたるところに看板があって、絶えずわたしの現在地を示してくれる。わたしを導いてくれる。安心できる。だからわたしは、しばしば駅構内および隣接する駅ビルを利用する。目的地に向かうのをぐずぐずと先延ばしにするのだ。

駅に降り立つ。いずれは発たなければならないが、まだ時間に余裕がある。本屋があれば雑誌をぱらぱらとめくり、服屋があれば冷やかし、腹が減っていれば軽食を摂る。セミセルフ方式のデパコス売り場などがあれば最高で、いつまでも見ていられる。普段はデパートのカウンターの奥にうやうやしく陳列されているコスメを、間近で堪能できる。もちろん、見るだけではなくて実際に購入することもある。

 

いつか出なければならない場所で、人とモノがせわしなく行き交いアナウンスがやかましく狭苦しい店内で、わたしは束の間の安息を味わう。駅は、エアポケットとして、わたしを受け入れる。

 

旅をするとき、わたしは必ずと言っていいほど駅に長居する。土地勘がない場所へ行くことは、わたしにとって楽しみであると同時に苦痛でもある。駅を出て地図を見て歩き出す決心がつくまで、駅の体内にいだかれている。旅の記憶はいつも、大きな駅の思い出とともにある。駅ナカの店なんて結局はたいして変わり映えがしない。ユニクロかGU、蕎麦屋やハンバーガー屋、無印良品にスリーコインズ、どこもその程度だ。未知の世界に降り立つ前にわたしを迎えてくれる店たちはいつも同じ顔をして、責めず、追わず、わたしを受け入れる。そこじゃなくてもいい旅の思い出、つまり「べつにそこを記憶しなくてもいいはずなのに妙に印象に残っている旅の思い出」として思い浮かぶのはいつも、巨大な駅と、なんてことない店たちなのだった。