わたしが以前に一人暮らしをしていた家は、都道府県としては田舎である土地の、都市部寄りの場所にあった。一方で、今棲みついている先生の家は、都道府県としては都会である土地の、郊外寄りの場所にある。つまり、今住んでいる街のほうが、緑が豊かなのである。道端の花壇から、公園から、家々の生垣から、歩道にまではみ出さんばかりに葉叢が繁り、連日の酷暑に茹だって、眼鏡を曇らせるほどの草いきれを発している。8月の凶暴な陽射しを浴びて、成熟した深緑色の葉はアスファルトに濃いシルエットを刻印し、まだ若くて薄い葉は陽光を透過させて翡翠色の影を落とす。
そんな街を歩き回って買い物などをしていると、目に入る草花や樹木の名前がわからないことがちょっとしたストレスになると気づいた。最初から知らない名前は、まだいい。しかし、ものによっては、昔は憶えていたはずなのに今は忘れてしまったという気づきだけが脳裏に閃いて、肝心の名前が浮かばないことがあり、これが存外悔しいのだ。図鑑が好きだった小学生の時分に吸収した知識は、幼少期特有の憶えのよさでずっと鮮明に記憶していられると思っていたのに。さすがに10年以上経って、その間使う機会も少なかった知識は、徐々に薄れていくようだ。それとも、長い鬱が遡及的に過去の記憶までだめにしたのだろうか。
ともかく、せっかく緑が多いところに来たのに、世界の解像度が低いままで過ごすのはいささかもったいない。よって、植物図鑑を一冊買った。
眺めていれば、記憶が蘇ってくるはずだ。思い出せないだけで、完全に忘れたわけではないはず。もちろん、最初から知らなかった名前も沢山載っているだろう。今のわたしの脳でどれくらい吸収できるかはわからないが、少しずつ知っていきたい。壊れた脳は回復できないが、金継ぎして修復することはできると信じている。高望みはせず、今のわたしなりの器として使いこなしていきたい。言葉を増やしたい。新しい街の美しさを余すところなく感知するための、内なる言葉を。