最終更新:2020.8.21
数カ月前、先生とわたしがお試し同居をしていたころに書いた短い文章を引っ張り出してきました。まだわたしが引っ越していなかったころの話。
同居人の「先生」については、先日の記事をお読みください。
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明け方、地震で起きた。けっこう大きかったので、猫の様子を見に行った。
猫は何事もなくいつもの場所に座っていて、わたしの姿を見るとごはんを催促してきた。
猫の言葉は、わかるときとわからないときがある。今日は、ごはんを欲しがっているのだと理解できた。先生が起きてきたらごはんをくれるからそれまで待ちなさい、と話しかける。猫はみゃあ、と鳴く。あと2時間くらいだから我慢して、と話しかける。猫はみゃあ、と鳴く。
目が冴えてしまったので、寝室には戻らず、先生と猫がいつも使っているソファで横になって、ブランケットをかぶる。ブランケットは、先生と猫のにおいがする。頭からすっぽりかぶると、わたしもこの家の一員になったような気分になれる。
猫の言葉は、基本的にはわからない。先生の言葉は、まあ、わかる。人間同士なので、意思疎通できている ―― 本当に? わからない。わからないが、それでいいのだろう。異なる人間同士だからこそ、助けあうという選択肢が可能なのだ。
夜が明ける。先生が起きてくる。暗い部屋にわたしがいるので驚かせてしまう。電気が点いて、いつも通りの朝が始まる。いつも通りといっても、わたしにとっては四日目くらいなのですが、先生が日々のルーティンを丁寧に説明してくれたので、もうわたしは馴染みはじめている。
先生が猫のごはんを用意する。猫は、床に置いてある皿から食べる。わたしは人間二人のごはんを用意する。人間二人は、一つの食卓で向かいあって食べる。猫が先に食べ終わって、ソファの上で微睡みはじめる。
わかりあえない、なんていう当たり前の地平線で終わっても仕方がない。やっていけるかはわからないけれど、やっていきたいとは思っているし、そういう願望が芽生えているのなら、やるしかない。わたしはいつだってそうだった。