ペロッ……これは春にありがちな三寒四温の温の暖かさではなく、ついに初夏に突入したときの暖かさ!
— 呉樹直己@求職中 (@GJOshpink) 2020年5月1日
だと思うんですけど、どうですか?5月1日の昼くらいから、急にあったかくなりませんでした?初夏、来たんじゃないですか?
であれば、ここ三、四日が、今年最後の春だったわけだ。ろくに外にも出ないままやり過ごしてしまったけれど。今年の春は、期間が長かった割に、例年よりも人目に触れないまま去ってしまったんじゃないでしょうか。
でも、ちょっとしたタイミングで撮り貯めた写真があったので、せめてここに載せておくことにします。
花。
ちなみに、去年の同じころ、ほぼ同じ場所で撮ったのがこちらです。
花。
水辺。
水辺。
猫。
木。
木。
駅の階段から伸びている木。
光。
光。
光。
ろくに外に出ていないけれど、思ったより写真がありました。人間に見られようが見られまいが、世界は相変わらずみずみずしい色に満ちている。
感受性への刺激は、苦痛によく似ている。本は読まなければいいし、音楽は聴かなければいいし、映画は観なければいいだけだが、コンテンツを遮断しても世界は常に襲ってくる。ページを繰るのをやめたとしても、イヤホンを仕舞ったとしても、ディスプレイを消したとしても、毎日毎日、空はとりどりの色を見せるし空気は季節毎の匂いを運んでくる。
そういう、情報を受け取るだけの側でいる苦痛に耐えられないから、文章を書いている節はあります。自ら発する言葉なら、ある程度は自分で制御可能だ。わたしの言葉は、思考の濁流に流されないための錨としてわたしを護る。
とはいえ、その言葉があまりにも拙いという新しい苦痛は生じるんですけども。たとえばこの、三寒四温の温の暖かさではなく、ついに初夏に突入したときの暖かさであると感じるこの空気感。これをどう表現したらいいのか、三寒四温の温とはなにが違うのか、湿度? 光? におい? 言葉にならなかったぶんの思考はわたし自身にも忘れ去られて、誰にも弔われない。いや、時間が経ってから、ふとした瞬間に回路が繋がることは稀にあるから、彼らは死んだわけではないのか。早く、永い仮眠から蘇生させてやりたい。そしてわたしの錨になってほしい。ひとりでいるのはつらすぎる。