2019年9月13日、友人が20代の若さで逝去した。以下ではそういう話をするので、読みたくない方は読まないでください。
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友人が逝った。ただ仲が良かっただけではなく、わたしがなにか物事を考えるときに、あの人だったらどう言うだろうと思いを馳せるような、そんな相手でした。
最後に2人で遊んだのは、彼が亡くなるたった16日前のことだ。16日! 眩暈がする。「たった16日」なんかであるものか。人ひとりが生をやめてしまうまで、それだけあれば十分だ。
彼は精神の病と闘っていた。友人として、彼が生の苦しみから解放されたことを祝福するとともに、わたし個人として、途方もない寂しさに打ちのめされている。書いてもきりがないのでいちいち書かないが、こういうときに多くの人が感じるであろうことは、だいたい感じたと思う。これからも感じ続けていくのだろう。
幸いわたしは、いくつかの救いに恵まれている。
ひとつは、彼という人間の、わたしが知り得る面についてはある程度関われたという実感があること。
他の人には見せてもわたしには見せなかった面や、どんなに親しくしても他者は知り得なかった面などは、当然たくさんあることと思う。しかし少なくとも、彼がわたしに明かしてくれた面に関しては、わたしたちは一定の交感をできていたと感じている。(そう信じたい。)
遊んだり、LINEしたりした。
彼の悩みや苦しみの話を聞いた。
彼が描いた漫画や小説を読ませてもらって、感想を語り合った。
彼は表の顔として音楽活動をしており、ライブにも行った。そのときに買ったライブTシャツは、形に残る思い出として手元に持ち続けることができる。
誕生日プレゼントを贈ったこともある。
二人で写真を撮ったこともある。
友人という関係性の範疇において、最低限は彼の人生に関わることができた。十分な関わりだったかは置いておいて。
(十分であるわけがない。あまりにも、あまりにも早すぎる)
もうひとつの救いは、わたし以外にも悲しんでいる人を知っていることだ。
彼と共通の友人が一人いる。逝去の知らせ以降、彼女とはまだ多くを語り合えてはいない。しかし、彼女も悲しんでいるのだろうと想像することは、わたしの慰めになっている。
また、彼が音楽活動をしていたグループの公式サイトからも訃報が発表されたので、芸名でSNSを検索すれば、彼を好いていた人たちの哀悼の声を垣間見ることができる。ほとんどは顔も知らない人たちだが、アカウントの裏には生身の人間がいて、それぞれに彼の死を嘆いているのだろう。それも一抹の救いになった。
残されたわたしは、これらの救いを抱いて、日々を繋いでいくしかない。
最後に。
結局、生きてさえいてくれたらなんでもいいのだ。
わたしは彼の死に顔を見ていない。16日前に、「また遊びましょうね」と言って、手を振って別れた姿が最後だ。
まだどこかにいるのかもしれない、と思う。
もし、どこかにいるのなら。
夢枕とか、どんな手段でもいいから、どうか姿を見せてほしい。
会いに行きたい。
声が聴きたい。
君がいない世界はあまりにも寂しすぎる。